「そわそわ」
「ああ、沈み行く太陽よ、今、汝を敬い、奉る!」
アイの隣に立っていた、朱鷺の仮面をつけた神官が祝詞をあげる。
先ほどと同じく死者の書(日の出の書)より【光の中に現れる】の章。
「時の支配者たるトート神は我とともに今ここにあり!『我はトート、太陽を守護する神々の中の一人にして、死者の魂の善悪を量る審判員の一人なり!』」
厳かにして高らかなる声。
本当にトート神が神官に憑依しているわけではなく、巻き物の言葉を読んでいるだけなのだが、雰囲気はある。
「『ああ、冥界の王オシリスよ、我は汝の同胞なり! 我はオシリスの敵を打ち倒し、オシリスのために悪霊を封じ込める者の一人なり!』」
オシリスという言葉は、冥界の神様の名前であるのと同時に、オシリス神に認められた善良な死者全員に与えられる称号でもある。
冥界の奥には神々の住まう楽園がある一方、そこに着くまでの道のりでは危険な悪霊がウヨウヨしている。
その悪霊から自分を守るための祝詞を聞きつつ、ツタンカーメンの幽霊は、のんきに運動を始めた。
「『ああ、オシリスの息子ホルスよ、我は汝の同胞なり! 我は汝のために戦えり! 我は汝の名のために敵を敗走せしめたり!』」
香を焚く神官の前でストレッチ。全裸で。
「『我は知恵の神トートなり! 神話の都に住まう太陽の長老神の大宮殿において、オシリスの敵を打ち破るトートなり!』」
両手を挙げて礼拝のポーズを取っている神官に向かいスクワット。全裸で。
先ほどまで魂ごと包帯で全身を縛られて、ずっとじっとしていたのだから、いかに幽霊とはいえ体を動かしたくなるのは当然である。
しかし自分の姿が神官達の目に見えないのをいいことに、彼らに見せつけるような位置に股間やら臀部やらを持っていって行う必要はまったくない。
人はあまり若いうちに死ぬべきではない。
「『我は二つの地において、オシリスを嘆く男、オシリスを悲しむ女らとともにあり! しかして我はオシリスの敵を打ち破る!』」
神の名を示すオシリスなのか、死者を表すオシリスなのか、あえてハッキリさせないことで、神と死者とを同化させる。
「『トート神はラー神の命を受け、オシリス神の敵を退ける! それは人々のためにも同様になされり!』」
神官の列を一通り回って、幽霊がアイのところに戻ってくると、アイの目もとでは涙がきらりと今にもこぼれ落ちそうに光っていた。
ツタンカーメンはさすがにしんみりし、隣の部屋へ下着を捜しに行くことにした。
墓所には棺を置く玄室の他に、ひかえの間や宝物庫などがある。
付属の間の箱の中から、三角形の亜麻布の霊体を引っ張り出す。
布の一辺を背中に当てて、両端をおへその前に持ってきて結ぶ。
そうすると布の三つ目の角が腰からしっぽのように垂れ下がるので、これを股を通して前に持ってきて、おへその結び目の上に引っ張り出して、古代のパンツのできあがり。
埋葬室では祝詞が続く。
トート神役の神官の出番は終わったようだ。
「ツタンカーメン王は冥界の神殿に聖なる酒をそそぎ、墓所に宝物を納め、冥界の祭祀書を読み、太陽神の船の模型で儀式を行い、葬祭の都で土を掘る。
ツタンカーメン王の身が布に包まれる日にも、心臓の動かぬ体を清める日にも、墓所の閂を外す日も、ツタンカーメン王はホルスとともにあり。
ツタンカーメン王はホルスとともにオシリスを守護する。
ツタンカーメン王は悪霊の滅ぼされる日に聖なるの火の中に入り、そしてまたこれより出で来たる。
ツタンカーメン王はオシリス神の祭りの日にも、供物をささげる祭りの日にも、神話の都の祭りの日にも、ホルス神とともにあり」
さて、服は何を着よう。
そもそもどれをどこにしまったのだろう。
幽霊は神官達の周りをパンツ一丁で飛び回る。
「ああ、オシリスの神殿に出入する美しき魂達よ、願わくばツタンカーメン王の魂が、オシリスの神殿にて汝らとともに歓迎を給われんことを。願わくば汝らのごとくに彼もまた見て、聞き、起立し、そして良き席に座せんことを」
衣装箱の中に頭を突っ込んでいろいろ見比べ、お気に入りの異国風のチュニックに未練を抱きつつ、これから神々へのお目通しなのだからと、伝統的な腰布を選ぶ。
上半身は裸にお守りのアクセサリー。
赤銅色の素肌は美の象徴。
ゆえに見せびらかすのが正装である。
「ああ汝ら、オシリスの神殿にて、美しき霊魂のもとに供物を届ける者よ。日が昇る度、沈む度、菓子と果実をツタンカーメン王の霊魂に与えよ。冥界の全ての神々に、ツタンカーメン王は歓迎される」
最高級の“王家の亜麻”で織られた、透けるように薄くって飛びっ切り柔らかい布を、たっぷりとひだをとって優雅に着こなす。
頭にはネメスと呼ばれる独特の頭巾を、黄金の冠と組み合わせてかぶる。
「ああ汝ら、オシリスの神殿において、美しき霊魂のために道を開く者よ。ツタンカーメン王を、エジプトの民を先王のもたらした混乱より救いしファラオの霊魂を歓迎せよ」
祝詞が終わりに差しかかる。
「願わくば彼が自信をもって審判の社殿に入れることを。そして願わくば彼が安心をもって審判の社殿より出られることを。願わくば彼が拒まれざらんことを。願わくば彼が退けられざらんことを」
死者の魂は、オシリス神の前で心臓を秤にかけられて、善良か否かを調べられる。
「願わくば彼が欲するままに死後の楽園に入れることを。願わくば彼が望むままに死後の世界より出られることを。そして願わくば彼が歓迎を得んことを」
善良だと神々に判断されれば、地下世界の楽園で永遠に幸せに暮らせるし、現世の空を鳥のように自由に飛び回れる。
「願わくばツタンカーメン王の願う全てがオシリスの社殿にて叶えられんことを。願わくばツタンカーメン王が神とともに歩み、語らんことを。そして願わくばツタンカーメン王が神とともに輝きを有する者たらんことを。
彼はその清らかさをまだ審判の社殿にて認められておらず、神々の天秤は今は空虚な皿を量る」
ミイラが黄金の棺の中に寝かされ、ふたが閉められる。
一つ、二つ、三つ重ねて。
ふたの上にあらかじめ乗せられたヤグルマギクの花が落ちないように、慎重に。
それをさらに金張りの厨子で四重に覆う。
幽霊は厨子の間を飛び回って遊ぶ。
ツタンカーメンは香の火をフッと吹き消した。
ちょうど燃え尽きるタイミングでもあったので、誰も不思議に思わなかったが、それを合図に神官達は墓所から引き上げていった。