「わくわく」
王家の谷。
岩山に穴を掘って造られた洞窟のような墓所。
階段を下り、さして長くない通路を過ぎて、ひかえの間を抜けて玄室へ。
若き王の遺体を納めた棺が運び込まれる。
大きな石の棺の中に、三つ重ねた黄金の棺。
ふたはまだ閉められていない。
包帯を巻かれ、布で包まれ、黄金のマスクをかぶせられたミイラを、神官達が支えて立たせる。
喪主神官のアイという名の老人が、ウル=ヘウカという、飾りのついた鉈を構える。
これから行われるのは口開けの儀式。
唱えられるのは葬祭経典『死者の書(日の出の書)』より【死者に口を与える】の章の祝詞。
セム神官が壁画の神々に告げる。
「この方の名はツタンカーメン。エジプトの王。エジプトを混乱より救いしファラオなり」
享年十八歳。
生まれてすぐに母を亡くし、父が誰かは謎に包まれ、アイが養父を務めてきた。
「ツタンカーメン王は死後の地にて新たに生まれ出る。我は祈る、ツタンカーメン王の腕が神々に振り払われることのなきように、ツタンカーメン王に口が与えられ、大いなる冥界の主の前で自ら語れるよう願う」
ミイラは黙し、アイの祝詞とたいまつの燃える音ばかりが墓所内に響く。
「ツタンカーメン王は墓所の主なり。ツタンカーメン王は冥界の王に繋がる者なり。我は祈る、ツタンカーメン王に、階段の上にある者と同じ運命を望む」
神話の中で死して冥界の王になったオシリス神のように、死後の楽園で永遠に生き続けてほしいという願いである。
揺れる火明かりの中でアイが、巻き物から顔を上げ、ミイラにかぶせられた黄金のマスクの瞳を見つめる。
年齢でいえばアイはツタンカーメンの祖父のようなものだったが……
(愛情をかけてきたとは言い難かった……)
今になってアイは悔やんでいた。
ツタンカーメンがまだ幼かった頃から、彼にはファラオであることばかりを求めてきた。
寂しいと言ってはいけませぬ。
父親のことを知りたがってはいけませぬ。
(何故あんなに素直だったのじゃろう……)
儀式は続く。
「輝きの主よ、大宮殿の主にして夜と暗黒の君主よ。我らは今、汝を敬い、奉る。ツタンカーメン王が汝の前に来たれるは、彼の霊体が清らかなものなればなり」
思えば悲しいくらい聞き分けの良い子供だった。
神殿への寄進。軍の管理。
王に即位したばかりの九歳の少年は、エジプトのためと聞かされてもキョトンとしていたが、みんなの幸せのためだと言ったらニコッと笑ってうなずいた。
親に与えられた名前を取り上げられた時でさえそんな感じだった。
「汝の両手は汝の背後に、汝の運命は汝の祖先とともにあり。ああ、我らは願う、ツタンカーメン王に語れる口を与えたまえ。雲と闇とのある時期にも、ツタンカーメン王の心を導きたまえ」
先王アテン神のための者の強引な宗教改革による混乱の時代に、いくつもの障害を持って生まれた体ゆえに異形の神アテンの息子と呼ばれ、アテン神の生き写し……ツタンカアテンと名づけられて次代のファラオに指名された少年。
しかしアクエンアテンの死後、ファラオになったばかりの少年に、アイは伝統的なアメン神信仰への改宗と、ツタンカアメンへの改名を求め、それによってエジプトの内戦は回避された。
(ツタンカーテン様……)
他の神官に聞かれぬよう、心の中だけで唱える。
自分は間違ってはいないはずだ。
だけどもっと優しくしてやれなくはなかったはずだ。
豪華な墓を作るのにはそれなりに時間がかかる。
壁には今日の葬儀の様子があらかじめ描かれている。
絵の中のセム神官は、若くて立派な王子で、王に良く似た顔をしている。
本来ならこの頃にはアイなどとっくに先立っているはずだった。
現実にはこんな王子は存在しない。
王の死はあまりに早すぎた。
ゆえにこの年老いた養父が王位を継がねばならなくなった。
アイの潤んだ瞳の前で、無機質な黄金のマスクは瞬き一つもしはしない。
だからアイが知ることはない。
そのマスクの奥でツタンカーメンの幽霊が、退屈そうに薄目を開けて、祝詞を聞いていることを。
「土の神プタハがツタンカーメン王の口を開くよう願う。調和の都の守護神プタハが巻き布を緩めるよう願う。とりわけツタンカーメン王の口にかかる巻き布を緩めるよう願う」
でないと冥界へ行っても神々と会話できないし、お供え物を食べられない。
「知恵の神トートが溢れる魔力で包帯を緩めるよう願う。ツタンカーメン王を束縛する包帯を、始祖神アトゥムが払うよう願う」
包帯は遺体を守ってくれるものではあるが、このままでは魂も身動きが取れない。
「天の風よ、神々の刃よ、ツタンカーメン王の口を開きたまえ。砂を焼く灼熱の女神よ、ツタンカーメン王を認めたまえ。天を翔ける風の神々よ、ツタンカーメン王を受け入れたまえ。全ての神々よ、ツタンカーメン王を妨げる全てのものを退けたまえ」
アイがウル=ヘウカの先端で、黄金のマスクの唇に触れた。
黄金のマスクの下で、ツタンカーメンの幽霊は、うっすらと口を開いて唇を舐めた。
ふわり。
魂がミイラから抜け出す。
包帯の霊力は遺体に残し、護符の霊力だけを持ち出しているので、裸体に首飾りや腕輪をジャラジャラと着けている格好である。
神官達には幽霊の姿は見えず、次の儀式の準備を始め、アイだけがぼんやりとミイラと向き合っている。
目の前で手を振ってみても自分の存在を感知してくれないアイの正面で、ツタンカーメンの魂は、生前は不自由だった足で堂々と仁王立ちになった。
「かい! ほう! かーーーん!!」
ちょうどアイの顔の高さに股間がくるように、わざわざ浮遊してそれをした。
生前からこういう兆候はあったはずだが、アイの中の思い出は美化されまくっているらしい。
挿絵はいただきもののファンアートです♪
ありがとうございました!