その⑥
桟橋から林を通る小路を抜けると、目の前に堂々たる館が姿を現した。船から見た通り、白い壁に赤い屋根の三階建てだ。
小路は館の正面入口へ続いている。その両脇には花々が咲き競い、館の前は広々とした芝生でところどころにある木々がちょうど良い木陰を作っていた。
「全く変わっていないわ。時間が戻ったよう。ああ、気持ちがざわめくわ。コミルが咲いているからかしら」
「どういうことです?」
うっとりと息を吸い込む夫人にラビスミーナが聞いた。
「『コミルの花は人の心をざわめかせる』……これが、この季節の父の口癖でした」
「そういえばここはコミルの木が多いですね」
ヴァンが辺りを見回した。
「ええ、島のあちこちにあります。きれいでしょ? ちょうど見ごろですわ。あと二日もすれば散ってしまうでしょうから」
「早く、早く」
ルッラとデイビット兄弟が大人たちを急かす。その先の正面玄関で背の高い初老の男が一行を待っていた。
「お待ちしておりました、ホプキンス様。館の執事パヴェル・キリロフです」
男が言った。
「連絡をくださったのはあなたですね」
「はい。妹であられるマッカーレン様のこと、お悔やみ申し上げます」
「お世話になりました」
夫人は心を込めて言った。
「とんでもございません。ところで、クロス警部、こちらは?」
執事のキリロフが聞いた。
「ああ、サラ・フォードさんとアントン・ヴィットさん。フォードさんは探偵で、マッカーレン夫人の死にまつわる事情を確認したいそうだ」
「事情……ですか?」
キリロフは驚いて夫人を見た。
「ええ、協力してあげて下さい、キリロフ」
「わかりました。では、お休みいただいてから……」
「いいえ、このままマッカーレン夫人が亡くなったという塔に行ってみたいのですが」
ラビスミーナが言った。
「ああ、そうね、私もその場所を見てから館に入ることにするわ」
ホプキンス夫人が頷く。
「わかりました。では、ご案内します」
そう言ってキリロフは一行を館の脇にある古い塔に案内した。
「小さい頃は妹とよくここに登って島や湖の先の街を眺めたものよ」
塔に登るエレベーターの中で、ホプキンス夫人は言った。
「このエレベーターで認証されているのは誰ですか?」
きょろきょろとエレベーターの中を見回していたヴァンが聞く。
「認証? いいえ、これは認証式ではありません。誰でもマニュアルで……このボタンで動かせます」
キリロフが答えた。
「マニュアル式とは……それにしてもずいぶん古いものですね」
ヴァンが感心した声を出した。
「祖父の時からのものです。思念による認証式にしたら更新しなくてはなりません。それには費用が掛かりますでしょ? それに、ここはそれほどのことをする必要がないのですわ。住んでいる人間も、たかが知れていますもの」
夫人が笑う。
一行が乗り込んだエレベーターが止まり、扉が開いた。
「わあっ」
子供たちが駆け出す。
塔の頂上、広く開いた壁の向こうにバルコニーのように突き出した見晴らし台があった。目の前に広がる湖の青、湖の向こうには田園の淡い緑が広がっている。
島の緑にはまるで白いベールがかかったように見えた。
コミルの木々が花を咲かせているのだ。
「これはいい眺めだ」
ヴァンが言った。
「でしょう?」
ホプキンス夫人が大きく息を吸い込んだ。
(空気が……甘い?)
ラビスミーナは見晴らしに立ち、湖面に目をやった。
「おや、お客だ」
「どれ?」
ヴァンも見晴らしに立つ。
湖に白い船が見えた。
「あら、ほんと」
夫人もラビスミーナの隣にやって来た。
「きっと弁護士を乗せているのではないかしら?」
ホプキンス夫人が見晴らし台から身を乗り出す。
「ケイト、危ないですよ」
ラビスミーナが手を差出し、その手が止まった。
「ラ、いや、サラ?」
ラビスミーナの視線の先をヴァンも覗き込んだ。
壁に擦れた繊維が残っている。そして夫人が身を乗り出した先、塔の外側の壁には微かに褐色の血の跡があった。
「サラ、何か?」
ホプキンス夫人が怪訝な顔をした。
「いいえ、ちょっと目がくらんでしまったのですよ」
ラビスミーナはほっと息を吐いて見せた。
「それはいけません。私ったら、いい年をして。ああ……こんなふうに身を乗り出しては、よく母に叱られたものですわ。ごめんなさいね、サラ、大丈夫?」
「ええ、ご心配なく。ところで叱られたのは、亡くなられた妹さんも?」
「いいえ、ゼンダは用心深くて私のような無茶はしませんでしたよ。喧嘩別れして……もう、会うこともないと思っていたわ。でも、私より先に死んでしまうなんて」
ホプキンス夫人はハンカチで涙をぬぐった。
「ゼンダはここから飛び降りたのですね?」
ラビスミーナはクロス警部とキリロフを振り返った。
「そうです」
クロス警部が答え、キリロフが頷く。
「まったく……なんてことだろう」
再び涙を拭く夫人に、クロス警部が言った。
「まっさかさまだったでしょう。頭部の損傷がひどかった」
夫人を支えていたラビスミーナがゆっくりと顔を上げる。
「クロス警部、検視は済んでいますね?」
「検視?」
執事のキリロフが若い探偵を見つめた。だが、警部の方は落ち着いていた。
「いいえ、検視はしていません。死因は歴然としていますから。自殺ですよ」
「何故そうはっきり言えるのです?」
「何故って……ここからでは当然でしょう?」
クロス警部は憮然としたが、ラビスミーナは厳しい顔をした。
「マッカーレン夫人の遺体はどこですか?」
「昨日……警察で、私、クロス警部に案内してもらって妹に会って」
夫人はとぎれとぎれに言いながらクロス警部を見た。
「ええ、お身内の方に確認していただかなくてはなりませんから」
警部も答える。
「遺体は今も警察にあるのですか?」
ラビスミーナの語調が強まる。
「まだ預かっている。だが……」
「検視をお願いします」
「今更……ですか?」
クロス警部が目をむいた。
「サラ?」
「ケイト、あなたも自殺は考えられないと仰っていたではありませんか?」
ラビスミーナはきっぱりと言って夫人を見た。
(頼む、ケイト、検視を頼んでくれ)
ヴァンは祈るような気持ちになった。
たとえ夫人がノーと言っても、警部がいやだと言っても、ラビスミーナならどんな手を使っても検死をさせるとわかっている。だが、ヴァンとしては強引なまねはしたくなかった。
「わかったわ、サラ。警部さん、お願いします」
ラビスミーナの勢いに押されて夫人は言った。
ヴァンが思わず安堵の息を吐く。
「警部、ただちにお願いします」
念を押すラビスミーナを面倒くさそうに見ながら、クロス警部は端末で署と連絡を取り、マッカーレン夫人の検視を命じた。
「着いたよ、船が着いた」
ルッラとデイビットが叫んだ。
「さて、お客が着いたようです。館に戻りましょう」
クロス警部が声をかけた。
「お待たせするわけにもいかないでしょうね」
ホプキンス夫人もきちんと涙を拭く。
エレベーターを降り、一行が地上に着いた。
「おい、サイモン、船に戻れ。検視の結果が出次第、船に転送させ、館へ持って来い」
クロス警部は部下に命じ、サイモンと呼ばれた若い部下が船に走る。
「ルッラ、デイビット、君たちはここで任務終了だ」
ラビスミーナが言った。
「ええっ?」
「つまらないよ」
二人が揃って口を膨らませる。
「館では難しい弁護士や商売の話が待っているんだぞ? 俺だって、できれば願い下げだ」
ヴァンがしかめ面をした。
「じゃあ、アントンさんも僕らと桟橋で見張りをするかい?」
「いや、大人には大人の付き合いがあるんだ。ルッラ、デイビット、また今度な」
ヴァンはそう言ってラビスミーナを見た。
「そんなあ」
まだ何か言いたそうな二人に向かって、笑いをこらえていたラビスミーナがぴんと背筋を伸ばす。
「諸君、解散だ。ご苦労」
ラビスミーナの慣れた語調に二人も思わず背筋を伸ばした。
「えっ、あ、はい」
「また、明日来ます」
小さい部下たちは慌てて敬礼をすると、館の小道を走って行った。