その④
デミウルゴスは真新しいケペラのポート、シュラミに到着した。シュラミには谷間のユリという可愛らしい愛称も与えられている。
シュラミは明るく近代的ではあるが、どこか牧歌的な空気が流れていた。働いている人々の制服が小麦の収穫祭の時に着られる晴れ着を模したものであるせいかもしれない。
白いブラウスには様々な色で美しい刺繍がなされ、茶色のズボンやスカートには大きなポケットがついていた。
「ゼフィロウとは大違いだな。ケペラらしい感じのいいポートだ」
そう言いながらもヴァンはエスカレーターや壁、天井にさりげなく配備されている機器に目をやった。
「ああ、何をやっても自分たちのやり方は譲れないらしい」
ラビスミーナも答える。
「で、ラビス、どうする? もう夕刻だぞ?」
「亡くなった例の女性ゼンダ・マッカーレン夫人の館はベウラ島にあるというが……」
「あそこに行ってみるか?」
ヴァンはポート内にある観光案内所を指差した。
「ベウラ島ですか? 少々お待ちください」
受付の女性はスクリーンにケペラの地図を映した。
「申し訳ありません。ベウラ島に行くには、船をチャーターしていただかないと」
「えっ?」
ヴァンは自分の耳を疑った。
「島まで橋を渡してしまえばいいのに……」
いかにもヴァンらしい意見だったが、これにはラビスミーナも大きく頷いた。
だが、そんな二人に受付の女性は丁寧に答えた。
「あそこは独自の環境を作るため、陸地から切り離されていて、住んでいるのは館やその庭園や菜園で働く人たちだけです。多い時には三百人ほどいた島民も、今では五分の一以下になっていますね。島の暮らしはおおかた自給自足で事足りてしまうので、定期便の船はありません。必要があれば、島民は島の館が所有している古い船で行き来しているようです」
女性の話を聞きながらヴァンとラビスミーナは唖然として顔を見合わせた。絶望的な表情を隠してラビスミーナが言う。
「事情は分かりました。そういうことなら船ごと借りたいのですが」
「船を? 操縦は?」
「できます」
すかさずラビスミーナは答えた。
「では、ご用意いたしますので、こちらでお待ちください」
「それとホテルまでエアカーを頼みます。運転手つきで」
ヴァンが言う。
「承知しました」
明るい笑顔で答えると女性は手続きを始めた。
示されたソファーに座ったラビスミーナがぼそりと言った。
「ベウラ島とはとんでもないところだな、ヴァン」
「驚いたよ。どうして橋がないんだ?」
ヴァンも囁く。
「ヴィット様、ヴィット様?」
受付の女性が呼んだ。
「ヴァン、お前のことだ」
「あ、そうだった」
ラビスミーナに小突かれてヴァンは慌てて立ち上がった。ラビスミーナが続く。
「手続きは済みました。船も借りられます。明日からでよろしいですか、ヴィット様?」
「あ、はい、お願いします」
ぎこちなくヴァンは答えた。
「エアカーはメインゲートを出たところで運転手がお待ちしていますわ」
「ありがとう。これで請求してください」
ヴァンがカードを出した。
「ありがとうございます。よいご旅行を」
受付の女性は朗らかに言った。
ポートのメインゲートに続く屋内広場では盛大なイベントが行われていた。初穂の収穫の感謝と奉納を行う収穫祭シーズンなのだ。
刈り取られ、積み上げられた青臭い麦の香りが近代的なポートに漂う。
「やれやれ、荷物をホテルに送っておいてよかったよ」
人混みでもみくちゃにされながらヴァンがこぼした。
「ヴァン、なかなか楽しいじゃないか?」
魔女の姿をした人たちを見てラビスミーナが笑った。
「何故収穫祭に魔女なんだ?」
「なんでも収穫祭の最終日は魔女の集会日でもあるそうだ。我々が海で暮らすようになる前からの古い言い伝えだそうだが……ほら、外だ」
ヴァンとラビスミーナはにぎやかなメインゲートの前を通り、エアカーが並ぶ一角に向かって歩き出した。
「ヴィットさんですか?」
一人の若者が声をかけた。
「あ、そうですが」
「案内所から連絡がありました。エアカーをご用意しています。グローヴホテルまでですね?」
「お願いします。すごい人ごみで……」
疲れたようにヴァンが言った。
「ケペラは初めてですか?」
若者は笑った。
「いいえ、何度か来ていますが」
「そうでしたか」
「でも、新しいポートは初めてです。立派なものですね」
すがすがしく微笑むラビスミーナに若者は一瞬目を奪われ、顔を輝かせた。
「そう言っていただけると土地の者としては嬉しいですね。ケペラには観光ですか?」
「仕事ですわ」
「仕事でグローヴホテルとは優雅なものだ。グローヴホテルといえば、ケペラでは一、二を争うホテルです。さあ、お乗りください」
二人を乗せたエアカーが動き出す。振り返ると、銀色に輝くシュラミのポートが落ち着いた街並みにすっぽりと収まっていた。
エアカーがシュラミのポートからホテルに向かう幹線道路に入る。ポート周辺の落ち着いた街を抜けると早くも田園地帯だ。
「ずっとここに住んでいる我々にはわかりませんが……よそからケペラにいらした多くの方がここに来ると懐かしい気持ちになるとおっしゃるんですよ」
エアカーに指示を出しながら若者は言った。
「他の核は食料の多くをケペラに依存している。ケペラの存在感は大きいね」
感心しながら延々と続く田園風景を眺めているヴァンに、若者はまんざらでもなさそうな笑みで返した。
「それでもゼフィロウにはかないませんよ。何しろあそこはドームを維持管理している。セジュ全体の命を預かっているわけですから」
「このセジュではどの核も欠けるわけにはいきません。それは肝に銘じておかなくてはなりませんわ」
ラビスミーナが言う。
「もちろんその通りですとも」
若者は大きく頷いた。
グローヴホテルは古い時代の城を思わせる豪壮なつくりだった。ホテルの庭園を囲むようにこんもりとした森がある。これがホテルの名前の由来らしい。
ホテルの周辺にはホテル専用の農園と牛、羊、ヤギの放牧地。
ホテルで出される食事のほとんどがこれらの農場からの肉や農作物でつくられていることがここの売りの一つだ。
グローヴホテルには若い私立探偵という形で訪れているので予約した部屋は標準的なものだったが、部屋にはすべてが過不足なく整えられていた。
カーテンやクッション、机や椅子、クローゼットやベッドなどの家具類も古い時代の良さが感じられる。何より窓から眺められる庭園や森が素晴らしかった。
「ここ一帯の土地全てがグローヴホテルの所有だというんだからな」
ヴァンが言った。
「ああ、だが、さすがにケペラだ。ただのホテルではこれだけの土地所有を法律で許さない。このホテルは、ああやって農業をし、できた農産物はホテルで提供され、市場にも出している。だからこそ、この景観が見られるんだ。ヴァン、ちょっと散歩しようか?」
「夕食までには、まだ少し時間があるもんな」
ヴァンが頷いた。
二人は連れ立って庭園を歩いた。季節は初夏、人工的に気候が設定されているとはいえ、気持ちのいい夕方だった。
「ところでラビス、ゼンダ・マッカーレン夫人ってどういう人物なんだろう?」
「さあ」
「できれば、面倒なことは願い下げなんだが」
ヴァンは正直に言った。
「ヴァン」
ラビスミーナが伸び伸びと枝を広げた木々を指差した。それが夕日を受けて輝いている。
「心配するより今は楽しもう」
ラビスミーナが微笑む。
「まったくお前らしいな」
ヴァンは恋人であり、婚約者である女に笑みを返した。
ディナーはホテルの広いダイニングルームに用意されていた。落ち着いた客が多い中で、収穫祭の観光目当てでやって来た家族連れもあり、いつもはしっとりとした古いホテルも今夜はどこか浮き立った雰囲気だ。
庭に沿ってテーブルが用意され、客はライトアップされた庭とダイニングの一角で演奏される音楽の両方を楽しめるようになっている。
演奏しているのは芸術で抜きん出たバナムの楽団だ。
「ヴァン、あの女性」
ラビスミーナが目で示した。メインのステーキに取り掛かっていたヴァンが何気なく振り返る。
「あ、デミウルゴスの乗客だ」
「あちらも気づいたようだ」
食事が進んでくると、静かに演奏されていた音楽が歌心溢れる弦の響きに変わった。食事を終え、席に残っていた客たちが耳を傾ける。
次に流れたのは哀愁漂う民族色豊かな古いワルツ。
くつろいでいた客たちが席を立ち、踊り始める。
「ヴァン、踊ろう」
「え、いや……」
客同士が打ち解けた雰囲気になってはいるものの、元来こういうことが苦手なヴァンは二の足を踏んだ。
「踊らないのですか? こんなに美しい方に誘われているというのに」
デミウルゴスで一緒だった年配の女性が声をかけた。
「あなたは……」
しどろもどろのヴァンに代わってラビスミーナが愛想よく微笑む。
「デミウルゴスに乗っていらっしゃいましたね? こちらでもご一緒とは縁がありますね」
「ほんとうに。ケペラへは観光ですか? 収穫祭のシーズンを楽しみに?」
初老の女性が聞いた。
「そうしたいところなのですが、仕事で」
「おやまあ、私はてっきり新婚旅行か何かだと……あら、ごめんなさいね、あまりにもお似合いだから」
女性は微笑んだ。
「それは……ありがとうございます」
ヴァンが照れたように言う。
「それ、当たっていますわ。私たち、ここで仕事を済ませたら、ミアハで婚約指輪を選ぶ予定ですから」
「まあ、素敵」
女性の顔がぱっと明るくなった。
「申し遅れましたわ、私はケイト・ホプキンスと申します」
女性が言うとラビスミーナがヴァンを引っ張った。
「私はサラ・フォード、こちらは婚約者のアントン・ヴィットです」
「お仕事というのはヴィットさんの?」
ケイト・ホプキンスは上から下までヴァンを見た。
「いいえ。私の仕事です。彼には付き合ってもらっているのです」
ラビスミーナが答えた。
「そうですか。私は久しぶりの里帰り。あんなことがなければ、もう戻ることもないと思っていたのに」
「あんなこと?」
ラビスミーナが首をかしげる。
「ええ、つい先ごろ、ベウラ島の妹が死んだのです」
ケイト・ホプキンスは言った。
「ホプキンスさん、失礼ですが……その亡くなった妹さんというのはゼンダ・マッカーレン夫人ではありませんか?」
ラビスミーナはケイト・ホプキンスを見た。
「ええ、確かに妹はゼンダよ。でも、なぜケペラに来たばかりのあなたがご存じなの?」
「まさに妹さんのことでここに来たからです。私の依頼人がマッカーレン夫人の亡くなった事情を知りたいと。それを調べにやってきたのです」
ラビスミーナはケイト・ホプキンスに向き合った。
「あなたは探偵さんか何か?」
ホプキンスは目を丸くしてラビスミーナを見た。
「はい。明日島の館にお邪魔しようと思っています」
「まあ、偶然だこと。私は今日ケペラ警察に行ったのだけれど、警察の係りの人が明日は一緒に島に行って、そこで妹のことを説明してくれるというの。あなたも一緒にお聞きになるといいわ」
「それは、ありがとうございます」
ヴァンとラビスミーナは丁寧に頭を下げた。
「あら、ワルツが終わってしまったわね」
曲がテンポの速いスィングになっていた。
「ワルツはまた別の機会にしましょう。これで失礼いたします。おやすみなさい、ホプキンスさん」
ラビスミーナが立ち上がる。
「ケイトで結構よ。また明日ね、サラ、アントン」
ケイト・ホプキンスは探偵だという若い娘とその婚約者にすっかり気を許している自分に驚きながら、二人を見送った。