その⑯
小型だが、性能のいい船はスピードが出る。だが、真っ暗な水の上では昼間のような爽快さはない。
「この水の下には何が潜んでいても不思議ではないような気になる」
ラビスミーナが呟いた。
「この下は真水。その中を藻が揺れているだけさ」
ヴァンが肩をすくめる。
「いや、おそらくは医師の死体もある」
「それを言うなら、あの島にはひょっとするともっと物騒なものがあるぜ?」
「そうだな。そしてそれがリョサル王と関係があるとしても……マートゥル城の電脳の守りは最高に硬いはずだ。ちょっとやそっとじゃ違法な細菌とケペラ領主のリョサル家との関係を明らかに示す証拠は手に入らない。お前の腕をもってしても……」
ラビスミーナは静かな目をヴァンに向けた。
「見くびらないでくれ、ラビス」
ヴァンが力を込める。
「どのくらいかかる?」
「え、そりゃあ、やってみないと」
「ぐずぐずできないぞ?」
「わかっているが……だけど、ラビス、何故なんだ? シャムロック・リョサルはセジュの王だ。レンの決定を誰より尊重しなければならない立場だぞ? それが先代からの問題だったとしても、領主となった時点で何とかしていていいはずじゃないか?」
「そうだな。とにかく危険で、しかも個人の所持が違法な細菌をリョサル家が持っていたとしたら……それが知れたら王としては一大事だ。だが、今の状況ではリョサル王も迂闊に動くことはできまい。となると王の秘密はマートゥル城の電脳の中、だろうが……」
「ああ、マートゥル城の電脳の奥の奥。ああ、それにしても何か糸口があったらなあ……そうだ、ラビス、もしもあそこにLe36が隠されていて、どういういきさつかは知らないが、島の責任者が代々管理していたなら、いざという時、どうやってリョサル家と連絡を取るつもりだったのかな?」
「さあ、マッカーレン夫人は死んでしまったからな……おい、ヴァン、ちょっと待て、そう言えば……何かヒントになるかもしれない」
ラビスミーナはポケットから古い飾り箱を取り出した。
「これはマッカーレン夫人のデスクの上にあったのだが、見て見ろ」
ヴァンはラビスミーナの差し出す箱から風変わりなペンを取り出した。
「数字の羅列……これ、もしかして、いや、多分電脳を開くキーだぞ?」
「ついていたな」
ラビスミーナが微笑む。
この時、船が小刻みに震え出した。
「えっ、何だ?」
ヴァンがエンジンの方を振り返ると同時にエンジンが火を噴き、船が大きく揺れてみるみる沈み始めた。
「ラビス」
ヴァンが叫ぶ。
「ああ」
答えたラビスミーナの髪留めが震えた。
「私だ」
「領事館のコーエンです。火の手が見えます。ご無事ですか?」
「無事だ。これから桟橋に糸を渡す。エアカーのヘッドライトで桟橋を照らせ」
「了解しました」
ラビスミーナはジャケットの下から銃を取り出して先端に小型の銛を装着した。その銛に細い糸状の繊維を括り付け、ヘッドライトで照らし出された桟橋を支える柱に向けて撃つ。銛は頑丈な石質の支柱に食い込み、銛に括り付けられたしなやかな糸が桟橋と船を繋ぐ。と同時に渡された糸の繊維が急速に収縮し始めた。その力で沈みかけた船がどんどん岸へ引き寄せられていく。
「ラビスミーナ様」
炎に包まれ、沈みかかった船にかろうじてしがみついていたラビスミーナとヴァンのところに桟橋で待っていた領事館のスタッフが駆け寄った。
「ご無事ですか?」
「ラビスミーナ様、どういうことです、これは」
「ああ、どうってことない。船に仕掛けがされたな。私のことを邪魔だと思う奴がいるのだろう。やれやれ冷たい思いをしないですんだ」
身軽に桟橋に降りたラビスミーナが肩をすくめた。
「それどころじゃないぞ、ラビス? 湖にずり落ちて藻に捕らわれでもしたら浮かび上がれない。黒焦げを免れれば、の話だが」
ヴァンが桟橋に降りた。
「これはパスキエ様。ご一緒でしたか?」
コーエンが目を丸くする。
「お風邪でも引かれませんよう、早く車の中へ」
「ああ、これから領事館の電脳を借りる。早く連れて行ってくれ」
ヴァンは言った。
「相手が動き出したな……後始末を頼む。それとベウラ島のケイト・ホプキンス夫人には無事を伝えておいてくれ」
ラビスミーナが付け加える。
「わかりました」
コーエンが端末で指示を出し始める。別のスタッフが大型のエアカーの運転席に着き、ヴァンとラビスミーナがエアカーに乗り込んだ。
コーエンを残し、二人を乗せたエアカーが走り出す。
動き出したエアカーの中で運転席のスタッフが言った。
「湖の中からスコット医師の遺体を発見しました。こちらで預かっています」
「そうか、なるべく早くご家族にお知らせしろ。ただし、事件の区切りがつくまでは内密にと」
ラビスミーナは拳を握った。
「わかりました」
「それで、死因は?」
ヴァンが聞く。
「胸部、腹部に一発ずつ銃弾を受けています。が、まだ息のあるうちに湖に投げ込まれたと思われます」
「何てことだ……」
ヴァンは眉を寄せた。
「犯人はまだ野放しだ」
厳しい顔をするラビスミーナを見て、ヴァンも身を引き締める。
「そうだ、ラビス、お前が調べたいものっていうのはあの数字だけか?」
「いいや、彫像が一つ、これが鈍器として使われたかどうかだ。それと髪の毛、マッカーレン夫人のものだけかどうか知りたい。あとは布に付着した物質。そこにあるべきはずのない物があるかどうか、だ」
「わかった。どれも領事館で何とかなる。指示は出しておくよ」
「ありがとう、ヴァン」
ラビスミーナは頷いた。
「それと、ヘリを出せるよう準備しておいてくれ」
「しかし、ケペラ警察かケペラ領主の許可がなくては。勝手にヘリは飛ばせません」
スタッフの一人が言った。
「そうだ、ラビス。それに今度のことではケペラ領主のリョサル王も無関係を装いたいなら頼むわけにはいかないぞ?」
ヴァンも頷く。
「ああ、だからゼフィロウとして出す」
「ラビスミーナ様、それはいけません。ゼフィロウが火の粉をかぶってしまうではありませんか」
運転席にいたスタッフは慌てたが、ラビスミーナは聞かなかった。
「あの島の中央部は亜熱帯性の調節になっていたな、ヴァン?」
「そうだが?」
「どうやら調節機関に不具合が出たようだ。核の管理者であるゼフィロウには早急にメンテナンスに出かける義務がある」
「不具合はありませんが……」
スタッフが不満げに言う。
「ある事にしてくれ」
「反則ギリギリだ」
ヴァンが目を丸くする。
(いや、どう考えても反則でしょう?)
スタッフが目で訴える。
「他にどうしろっていうんだ?」
ラビスミーナが開き直った。
「わかった、そっちも何とかしよう」
「パスキエ様、いいのですか?」
「不具合が出たようにデータを作る」
ヴァンは苦笑した。
「ヴァン、助かる」
ラビスミーナは笑みを浮かべた。
領事館の森を通り抜けたエアカーが正面入口に止まった。
「じゃあな、ラビス」
ラビスミーナから預かった箱入りのペンを握りしめ、ドアが開くのも待ちきれないようにヴァンがエアカーを下りた。
「ああ、頼む」
領事館地下の研究部に駆け込むヴァンをラビスミーナが見送る。
「ラビスミーナ様は?」
「私か?」
ラビスミーナは館から持ってきた彫像と髪の毛、そしてアランの部屋にあった空箱の内部をふき取った布の入ったそれぞれの袋をジャケットの下から取り出した。
「これを調べてくれ。指示はヴァンに任せる。私は休むが、メリッサから知らせが入ったら起こして欲しい」
「あ、はい。それではこちらへ」
エアカーから降りたスタッフは本館には入らず、わずかに足元が照らされた緑の中、ラビスミーナを案内した。
領事館本館の裏に瀟洒なゲストハウスがある。地下で領事館の本館と結ばれてはいるものの、本館の離れのように見える。
「結果が出次第お知らせしてもよろしいでしょうか?」
「頼む」
ラビスミーナは洋館の客室に続く寝室に入った。




