その⑮
ヴァンと別れたラビスミーナが庭から館に戻った。
運ばれた食器類をキッチンで片づける音が聞こえる。ダイニングからはまだ楽しそうなおしゃべりが続いていた。
広い階段を上がると、明かりの落とされた二階からは館のホールが見下ろせる。ダイニングとキッチンを繋ぐ廊下をスーザンとザビーネが行き来し、時折、キリロフが顔を出す。
そんな彼らの目を盗んで、ラビスミーナはマッカーレン夫人の使っていた部屋に向かった。
二階にあるマッカーレン夫人の部屋はヴァンとラビスミーナが使う客間の東側だ。
ラビスミーナはそっと夫人の部屋の前に立った。
扉は特殊な合金できっちりと封がされている。ラビスミーナはスーツの内側から細身の短剣を取り出し、封のしてある観音開きの扉の境に切っ先を滑らせた。
手袋をした手でノブを回せば、カチャリと音がして扉が開く。
今度は胸ポケットからゴーグルを取り出してかけた。暗闇でしかなかった夫人の寝室が真昼のように見える。
(スーザンはナイトキャップが違うと言っていた)
ラビスミーナは用心深くマッカーレン夫人のキャビネットやベッド周りを探した。
(ないな。報告書には遺体がナイトキャップを被っていたという記載も、傍に落ちていたという記載もなかったが)
ラビスミーナは夫人のライティングデスクの引き出しを開けた。コンピューターは警察に持ち去られてここにはないが、誕生日や記念日に夫人に送られたカードがきれいに整理されている。そこにロブ・ヒルの名前がないのを確認し、ラビスミーナは机の上に置かれた飾り箱に丁寧にしまわれたペンを見た。インクは入っていない。
(男物……古い品だ。父上の形見? おや?)
ペンの表面に薄い柄のように数字がちりばめられている。
(お借りしよう)
ラビスミーナは箱ごとポケットにおさめると、今度は古風な薪を置いた暖炉に近づいた。寝室の閉まったカーテンの間から温室の明かりが見える。
(しかし、この時代に暖炉とは贅沢だ……)
この暖炉は、もうしばらくすればマッカーレン夫人を暖め、和ます炎が揺れていたはずだった。
ラビスミーナは暖炉の前に立ち、そこに置かれた彫像を見た。ブロンズの細身の女性像は流れるようなドレスを纏い、手には水瓶を持っている。
(おや?)
水瓶に嵌め込まれているはずの何かがない。
(時計か何かだ……)
ラビスミーナは床にかがみこみ、目を凝らした。するとデスクと窓の間に丸い金属製のものが落ちていた。
(時計だ)
ラビスミーナはまだしっかりと時を刻んでいる時計を拾い上げ、彫像の水がめにはめた。
ぴったり合う。
(さて、これもちょっと預かっておくか)
ラビスミーナは胸から袋を取り出すと、時計をはめ込んだ彫像をそっとしまった。
それからラビスミーナはベッドのシーツやまくらを調べ、髪の毛を別の袋に入れると部屋を出て、再び剣で封をし直した。
(次はここだ。温室の明かりがついていたからおそらくまだ戻らない)
アランの部屋の前で中の気配を窺ったラビスミーナは扉を開けた。
広々とした部屋には贅沢なベッドと古い家具が揃っている。その立派な書棚には植物と化学の本ばかりが目立つ。
キャビネットには少々の酒、そしてクローゼットにある服は質素なものばかりだ。
(キリロフが言うように欲のない人柄らしいが……これは?)
部屋を見渡したラビスミーナは入口の床にできた新しい傷に目を向けた。引きずって擦れた跡だ。
(木か金属の何かを引きずったな。大きい箱か何か……あれか)
ラビスミーナは書棚の隣にいくつか置かれた大きな木箱を見た。その四隅は金属で補強されている。ふたを開けるとびっしりと植物標本が入っていた。
(これだけ空だ……)
ラビスミーナは特殊な布を取り出して空箱の中一面を拭いた。それもまた別の袋に入れる。
それから大きなデスクに近づいた。
(失礼)
デスクの引き出しから出て来るメモは植物のことばかり、ファイルも苗や花の売買に関するものばかりだ。
(いよいよ、キリロフの言う通りの人物のようだ。おや?)
ラビスミーナは書類の下から小さな詩集を取り出し、女性のものらしい可愛らしい花のしおりの挟まった部分を見た。
『このまま月の光の下、あなたとバラの香りに包まれて死んでしまいたい……』か。
(なんとまあ……まあ、いいさ。さて、行こう)
アランの部屋から出たラビスミーナは手袋とゴーグルを外し、ヴァンのいる車庫に向かった。
(おや?)
館を出ると小さな光が動いていた。
(温室へ行く気か?)
ラビスミーナは光の後を追った。
温室の灯りが訪問者の姿を照らす。
(スーザンだ)
温室の中にアランがいるのを見て、スーザンが少しその足を緩める。それから意を決したように中に入って行った。
(仕方ない、失礼)
心の中でそう言って、ラビスミーナは温室の様子を窺った。
スーザンは様々な色と種類のバラの花々の中を行く。甘い香りが温室の外まで漂い、息苦しくさえ感じられた。
とっくにその気配に気づいていたはずのアランがやっと顔を上げ、スーザンを見た。
「アラン……」
「スーザン、何?」
「今夜は……リタはいないのね」
「僕は昼間警察がここに入ったから片づけをしているだけだよ。それにリタがいようといまいと君には関係ない」
それだけ言うと、アランはもう用は済んだとばかりにスーザンから目をそらした。
スーザンの顔が焦りと苛立ちで上気する。
「アラン、わからないの?」
スーザンは語気を荒げた。
「何が?」
アランはゆっくりと顔を上げた。
「あんな人、あなたよりずっと年上じゃないの? それに大人しそうな顔をしていたって裏で何をしているかわからないわ。奥様が殺されて、そのすぐ後イアンさんが死んだのよ?」
「スーザン、何が言いたい?」
アランは鋭い瞳でスーザンを見た。スーザンは一時身をすくめ、それから涙ぐんだ。
「だって……喪に服したっていいじゃないの。それをあなたと……」
「それを言うなら、僕こそ責められるべきだ。リタに気持ちを打ち明けたのは僕の方なんだから。だが、放って置いてくれないか。さっきも言ったが、君には関係ないことだ」
「関係あるわ。私はあなたが好きだもの。愛しているの、アラン」
涙をためてアランを見つめる若いスーザンは美しいバラの花々にも劣らず輝いている。そんなスーザンにアランは彫像のように向かい合い、言った。
「スーザン、僕はリタを愛している」
あまりにも整ったアランの顔を見つめるスーザンの顔に絶望がよぎり、それから皮肉な笑みが浮かんだ。
「アラン、菜園で収穫祭を祝っていた夜、私が薬をお持ちした時、奥様はいつものナイトキャップを被っていなかった。亡くなった時も、そして今も、どこにもない。どうしてかしら? ああ、あれがリタのところで見つかったらいいのに」
「スーザン、いい加減にしろ」
「アラン、あなたは今、目が見えていないんだわ」
スーザンは明かりも持たずに温室を飛び出し、スーザンが出て行った先を見ていたアランが静かに片付けを始めた。
小さくため息をついてラビスミーナはヴァンのいる車庫に向かった。
明かりの少ない庭によく知った気配。
「ヴァン」
「ああ、ラビス、ちょうどよかった」
明かりを持ったヴァンが駆け寄った。
「ラビス、もしかしたら……大変なんだ」
「何だ、ヴァン、その煮え切らない言い方は?」
「俺だって確信はない。けど……」
「だから、何だ?」
「エアカーの修理が終わったから、ちょっと試運転してみたんだ。そうしたらタヌキの死骸を見つけたんだよ」
「タヌキ……?」
ラビスミーナはヴァンをまじまじ見て、ため息をついた。
「ヴァン、ここにはタヌキがいる。死骸があっても別に珍しいことではないだろう?」
「俺だってそう思ったさ。だけど、島の奥に入る道にまた一匹死んでいた。それからその先にまた一匹死んでいるじゃないか。おまけにその先には死にそうな二匹が身を寄せ合って動かない。変だと思ってエアカーを下りて近づくと、毛が抜けて炎症を起こしている。あれはヴィティリゴに罹ったんだ」
「それがどう大変なんだ? タヌキには致命的かもしれないが、人間はヴィティリゴ菌に感染しても命を取られることはないぞ?」
「そうさ、だけど、ルッラやデイビットが触れば感染する。そうすればやはり皮膚の炎症を起こすだろうと思った……それから思い出した。庭師のイアンの死は肺炎だっていう。確かにそうだったかもしれないが、それだけではないだろう」
「そうだな。ぴんぴんしていた人間がたった一日で肺炎で亡くなるなんてな」
「ああ、それにルッラとデイビットの話ではイアンは髪が抜けていたと言っていた……それで、その時、閃いたんだよ。医療分野で使われるLe35という細菌があるんだ。宿主の免疫機能を弱めるものなんだが、その細菌を使ってここケペラで作物の改良を行っていた時、Le35の突然変異体で免疫機能を麻痺させ、瞬く間に宿主を殺す細菌が発見されたことがあったんだ。それはLe36と名付けられた」
「それで?」
ラビスミーナは睨むようにしてヴァンを見た。
「ラビス、もしLe36がここで保管されていたら?」
ヴァンがまっすぐラビスミーナを見返す。
「そんな危険な細菌ならばレンの厳重な管理下に置かれ、核が持つことは許されないはずだが……そういえば……殺された医師のスコットはアマチュアではあるが、細菌の研究者だったな」
「ラビス」
「だが、ヴァン、もしそのLe36とかいう危険な細菌がこの島にあるとして……それをこの島で管理する理由とは何だ?」
「そこなんだが……」
ヴァンは口ごもった。
「まあ、ぐずぐずしていても始まらないな。よし、ヴァン、これから領事館に行って検討しよう。私も調べてもらいたいものがある」
ラビスミーナは髪留めの端末から領事館のコントロールルームを呼び、島を望む桟橋までエアカーで迎えに来るよう伝えた。
「あ、ラビス」
ヴァンが声を潜める。
ラビスミーナが顔を上げると館からキリロフが出て来たのが見えた。
「フォード様、ヴィット様。四輪の修理できましたか?」
近づいてきたキリロフの手にはランプ型の明かりが揺れている。
「あ、はい」
ヴァンが少し胸を反らせた。
「キリロフさん、ちょうどいいところへ。急用ができたので、私たちはちょっと町まで出かけてきます」
ラビスミーナが言った。
「えっ、これからですか?」
「ええ。用事が終わり次第戻りますので、ケイトには心配しないようお伝えください」
「しかし、何もこんな時間にお出かけにならなくとも……明日の朝になさったらいかがです?」
キリロフはまじまじと二人を見た。
「いいえ、急用なのです。すぐ出かけますわ」
ラビスミーナはきっぱりと言った。
「……わかりました。ですが、船は操縦できるのですか? この暗さでは……誰かに運転させましょうか?」
キリロフが聞いた。
「大丈夫です。操縦は得意です」
ラビスミーナが答える。
「そうですか……では、桟橋までお送りしましょう」
そう言うとキリロフはランプをかざし、二人の前を歩き出した。
「警察の方々は、また、すぐにやってくるのですが……」
桟橋に着いたキリロフは警官たちが足元に散らかしたものを片づけ始めた。
「キリロフさんは本当にきちんとしているなあ」
お世辞ではなく、ヴァンは感心して言った。
「そんなことはありませんよ。お気をつけて」
船に乗り込んだヴァンとラビスミーナにキリロフがランプの明かりを上げて言った。
「ありがとう」
ヴァンが答え、ラビスミーナが船のエンジンをかけた。