雇い主様は最強
勤め始めて二十七日目。
結局クロさんのもふもふの毛に癒された以外特に収穫がなかった会議を終えて、三日経ちました。
藤田さんは、あれ以来姿を現したことはありませんし、クロさんは、夕食の時間になると食料を求めてやって来ます。玖珂さんは、たまに書斎から出てきてはリビングで食事をしては、毎日ダラダラ過ごしております。
私はというと、あれから三日も過ぎたというのに未だにゲームのボスを倒すことができず悶々とした時を過ごしておりました。そろそろ、ソフトと共に置いてあった攻略本に助けを求めてもいい頃でしょうか、いや、一度は自力でクリアしなければ、ゲームの製作者さん達に申し訳ない、しかし、このまま先に進めないのも……。コントローラーを握り締めたまま、フローリングに寝ころびチラリと傍らにある攻略本へと視線を向けます。
……攻略本に呼ばれている気がします。『もう十分自力で頑張ったよ。偉い、凄い、よくやった! だから、僕を見ても誰も怒らないさ!』と言われている気がします。
「少しぐらいなら」
「……何をしている」
誘惑に負け、上半身を少しだけ起こし、攻略本に手を伸ばした所で最近頻繁に耳にする声が背後から聞こえました。
馬鹿な! 基本部屋に引きこもっている玖珂さんが! 食事と、おやつの時間以外だと呼んでも一切リアクションが無い、あの玖珂さんが! リビングに自分から出てくるだなんて、そんな、まさか! 近いうちに空から槍か隕石が降ってくるのではないだろうか、急いで退避の準備をしなくては! そんな思考が脳内を埋め尽くし身体機能は一時停止状態に陥りました。
深呼吸を繰り返し、心の中でゆっくり十秒数えてから、恐る恐る振り返ると、そこには、いつも着用している黒のТシャツではなく、黒のカッターシャツに同系色のスラックスを身に着けた玖珂さんが怪訝な表情で此方を見下ろしていました。
まぁ、そうですよね。職場のフローリングに寝そべってる人間がいたら、そういう反応になりますよね。
「強敵と遭遇し、その強さに心が折れそうになっていたところに現れた攻略本という存在の誘惑と、製作者の努力に報いる為にも自力で、この困難に打ち勝つべきだという良心の囁きに板挟みになり苦しんでいたところです」
姿勢を正し、彼の疑問に素直に答える私に「進まないなら見れば良いだろう」とどうでもよさそうなお返事を頂きました。
「出かける」
「行ってらっしゃいませ」
お勤めしてから二十七日目、はじめて玖珂さんが外出する現場に立ち会いました。
私は、彼が不在の間にラスボスを倒すとしましょう。玖珂さんにも攻略本見れば良いと言われましたし、もう遠慮はしません。あの忌々しい怪獣擬きに正義の鉄槌を下してやります。
「ひょっ」
軽く頭を背後から小突かれて変な声が出ました。振り返り仰ぎ見れば、無表情の玖珂さんと目がばっちり合います。
「どうかしましたか」
「……ついてこい」
「えぇー」
腕まくりをし、気合いを入れコントローラーを握り直した人間に何てことを言うんですかこの人。
「減給」
「どこへでも、よろこんでついていきますとも」
ボソリ、と呟かれた言葉に、不満そうな表情から一転、表情筋をフル稼働して超特急で笑顔を作りました。
雇い主様は絶対なのです。