予想外
猫が言葉を話し、二日分のクッキーを玖珂さんがほぼ一人で食べ尽くし、藤田さんが顔面に傷を負って一夜明けました。
本日は、勤め始めて二十四日目です。
もうすぐ初給料を貰えると思うと、うきうきする今日この頃。
出勤そうそうに、先制攻撃を受けました。
カーテンの閉まった薄暗い室内、散らかった空き缶、食べ散らかされたスナック菓子の袋、フローリングに落ちているスルメの一夜干しらしき物体は獣に齧られたように所々欠けた痕跡有。
リビングのドアを開くと、腐海の森が広がっていました。
おかしいですね、昨日までは綺麗に片付いていたと思うのですが……。
リビングに一歩踏み込んだ場所で足を止めます。澱んだ空気に含まれるアルコール臭に手の平で口元を多い、全体を見回すと、テーブル付近の床とソファーに不自然に膨らんだ物体を二つみ付けました。
足音を忍ばせ、そっと膨らんだ物体に近づくと、それは毛布で頭から足先まですっぽりと覆った人間でした。剥がそうと毛布に手をかけると、さらに強く漂ってきたアルコールの匂いに顔を顰めます。
「くさっ」
気分が悪くなってきました。鼻を抓み、鼻呼吸から口呼吸に切り替えると多少はましになった気がしますが、状況は予断を許しません。気を緩めると色々な物が食道を逆流して大惨事をまねくことになることでしょう。それだけは避けなければなりません。
至急、窓を開け、換気扇を回さなくては。
床に散らばっている物を避ける気力も起きないので踏みつけて窓際に移動します。途中で「うっ」とか「にゃっ」とか聞こえたような……いえ、空耳でしょう。足の裏に柔らかい何かを踏んだ感触があったような気もしますが、気のせいでしょう。
窓の取っ手を掴み勢いよく横にスライド。
美しい緑のお庭、別名『虫と爬虫類の楽園』が目の前に広がり、少し青臭い新鮮な空気が部屋に流れ込みます。それと同時に、虫さんもお部屋に侵入しようとしていらっしゃったので、素早く網戸を閉めます。
室内ニ虫ダメ絶対。
「うぁー、生き返る」
大きく深呼吸をしてから、台所へ移動し換気扇のスイッチを入れました。
ゴゥンゴゥンと音をたて、換気扇が回り澱んだ空気を吸い込んでいきます。
換気って、大事。
「み……みずぅ」
リビングの方から弱弱しい声が聞こえました。床に転がっていた毛布のふくらみから右腕だけが姿を現し、右へ左へと、うにうに蠢いています。
なんと、きしょくわるい。
ミネラルウォーターをなみなみと注いだコップを二つお盆に乗せてリビングへ。
うにうにと蠢き続けている右腕を無視して机の上にコップをのせます。
寝ころんだ人間に水の入ったコップを渡すとか、嫌です。だって絶対に溢すでしょう?床が濡れて掃除が面倒になるじゃないですか。
「水が欲しかったら自力で起きて下さい」
「えぇー、頭痛いのに……病人ですよ労わってくださーい」
「二日酔いは病気ではありません」
「そんなぁー」
「語尾を伸ばさないで下さい。まったく、可愛くありませんから」
「ひどーい。いつも頑張ってるじゃないですかー」
毛布から顔を出し、手足をバタバタさせながら文句を言う藤田さんを立った状態のまま上から見下ろします。何て面倒臭い人でしょう。まだ、酔っ払っていらっしゃる?
相手をするのも疲れそうなので、未だにブツブツと何か呟いている藤田さんは、そのままに、もう一人ソファーの上で、毛布に丸まっている人物を起こすことにします。
「朝ですよ。起きてください」
揺り起こすために伸ばした手は、しかし役目を果たすことなく、逆に手首を掴まれてしまいました。
「おはよう」
「お、おはようございます」
毛布の隙間から覗く眼光は鋭く、藤田さんと違い言葉もしっかりしていました。どうやら、少し前から目を覚ましていたようです。
「さっき、俺の脚踏んだろ」
……目を覚ますきっかけは私でした。
「本日はお日柄もよく散歩日和ですね」
視線を窓から見える青空へ向け話題を逸らそうと頑張ってみます。あはは、先ほどの何かを踏んだような感触気のせいではなかったようで。
「痛かったんだけど」
話題逸れませんでした。
玖珂さんの目が怖い。
「き、今日のご飯はトマト煮込みのハンバーグとかいかがですか?」
昨日の藤田さんのような目に合うのはご遠慮したい。『話を逸らして何もなかったかのように過ごそう作戦』は失敗に終わりましたので、『ここに努めてから一番食べっぷりが良かったメニューを出して機嫌を直してもらおう作戦』を決行することにしました。
「今日はかぼちゃのスープが食べたい」
「作りましょう」
力強く頷けば、掴まれていた手首は解放されました。
作戦成功。踏みつけ事件は不問にしてくれるようです。
土下座、近年客が面白半分に店員相手に強要しネットに動画をアップするなどして、問題を醸し出している行為のことです。立場が下の者をいじめて優越感に浸っているように見えます。そんな高慢な人間にはなりたくはありませんし、常日頃から理不尽な客の対応をしている、接客業の人々には大変優しく接するように心がけています。
心がけているのですが、今現在進行形で土下座されている私は、どういう対応をするのが正解でしょうか。
酔っ払い二人に水を飲ませて数時間後、アイスが食べたいと言う玖珂さんに冷蔵庫から取り出した、某高級カップアイスを手渡した数秒後、固いフローリングに跪き、頭を下げたまま微動だにしない藤田さんに、困惑して早七分。
ナイスミドルな年齢近くの男性に、土下座される小娘をソファーに腰掛け、優雅にアイスを食べながら見学している青年の図。
何コレ新手の嫌がらせですか。
「大変ご迷惑をおかけしまして」
「気にしていませんから」
「酔っていたとはいえ、本当に、すみませんでした」
ようやく顔を上げたかと思えば、藤田さんは勢いよく頭を下げプローリングと熱烈な再開をはたしていました。
ゴンと鈍い音が響きます。
お願いですから、脳震盪とか起こさないで下さいよ。
藤田さんは、お酒を飲むと少量でも酔っ払い気が大きくなるタイプで、つい普段は言えないようなことをペロッと吐いてしまうそうです。幸い、かどうかは置いておいて、記憶はしっかりと残るため、酔いが醒める度、犯した失態に後悔をするという連鎖を繰り返しているそうです。
今回も、例に漏れず。デートでお酒を明け方近くまで飲み、酔いが醒めない状態でリライトに訪れ、私が帰った後に素面に戻り、色々とやらかしたこと……主に私の右手を潰す勢いで握ったこともしっかりと記憶があったため、落ち込み自己嫌悪の末、またお酒に逃げたと。
なんて悪循環。
「もう、自分が恥ずかしいくて恥ずかしくて」
耳まで真っ赤にそめ、羞恥心に全身を震わせている彼をこれ以上攻めるなど、誰がそんな酷いことをできましょう。
「酒乱」
玖珂さんが、アイスを口一杯に頬張り、きちんと飲み込んでから、小声で呟いた。
鬼がいました。心の傷に容赦なく塩を塗りたくるような行為を、平然と行う人の皮を被った鬼がいらっしゃいました。
「うわぁあぁぁぁー」
色々と耐え切れなくなった藤田さんは、隣に畳んでおいておいた毛布を頭から被り蓑虫のように丸くなり動かなくなりました。
「まぁまぁ、暴力振るったわけでもないですし、そんなに迷惑かかっていませんから落ち着いてください」
少しイラッとしましたが、あの程度で怒るほど私の度量は狭くはありません。
たぶん。きっと。おそらく。
ポンポンと子供をあやす様に、毛布の上から背中と思われる部分を軽く叩きます。
「うぅ、ありがとうございます」
「そんなに後悔するのでしたら、お酒辞めたらどうです」
毛布の中からお礼を言う藤田さんに、手っ取り早く解決する方法を提案してみます。
「それは、そうなのですが、その……で……なので」
最後の方はもごもごと小さすぎてなにを言っているのか聞き取れません。
「酒断ちなんて無駄だ。藤田は誘惑に抗えない弱い人間だからな」
食べ終えたアイスのカップを毛布に包まった藤田さんの上に乗せ、さらにカップが落ちないようにしながらスプーンを入れるという意味の分からない遊びをしながら玖珂さんが毒を吐きました。
「なるほど、意志が弱い人間なんですね」
なんてわかりやすい解説。
「もう、やめてください! いじめないでください!」
毛布を被ったまま取り乱し叫ぶ藤田さん、微妙なバランスを保っていたアイスのカップとスプーンがフローリングに落下しました。
うわーい、最悪です。このまま放置して蟻さんの大行列を拝みたくありません、すぐに水拭きしてアルコール除菌しておかなくては。
その後、綺麗に汚れを掃除してから、取り乱した藤田さんを落ち着かせるまで、二十分程の時間を要しました。
余計な事言わなければよかった。
玖珂さんリクエストのカボチャのスープと、新鮮レタスとトマトの生ハムサラダ、白身魚のムニエルを作り、二本あるうちの一本を厚めにスライスしたバケットを添えて本日の昼食が完成しました。
煮込みハンバーグは夕食に作る予定です。
「ごはんですよー」
リビングのテーブルに並べ、窓辺に寝そべり日向ぼっこをしながら半分夢の世界へと旅立とうとしている玖珂さんと、体育座りでどんよりした空気を醸し出しながらも、口元には薄らと笑みを浮かべ、猫じゃらしで子猫さんを翻弄して遊んでいる、少々精神状態が危ぶまれる、藤田さんに声をかけます。
「ごはん」
「私の分まで用意して頂いて、ありがとうございます」
横たえていた体を起こし、いそいそとソファーに移動し食事に手を伸ばす玖珂さんに対して、恐縮した様子で頭を下げる藤田さん。
「気にしないでください。一人分作るのも三人分作るのも、そう変わりありませんから。材料費や光熱費も私が払っているわけでもありませんし」
すべて経費で落ちますから、大変助かっております。
「気にしろ、俺の取り分が減る」
「はは、すみません」
縦に切れ目を入れたバケット(一本丸々)にバターをたっぷりと塗り、レタスとトマトの生ハムサラダを挟んだサンドイッチを片手に持ち、もう片手にマヨネーズを持った状態の玖珂さんが、半眼で藤田さんを睨みつけています。
ねぇ、スープの器では物足りないと、おっしゃるから丼に並々とカボチャスープを注いで差し上げたじゃありませんか、白身魚のムニエルだって特別二切れに増やしたというのに足りませんか。薄々感じていたことですが、この人エンゲル係数常人より高い。そして、日々食事の量が増えていっている気が……。
夢のバケット一本そのままボリューム満点サンドを男らしく頬張り、カボチャのスープを幸せそうに飲み干す玖珂さん。表情筋はほとんど機能していないため、無表情のままなのに、どうしてこんなに感情が読みやすいのでしょう。
白身魚のムニエルを一口で半分平らげる姿は、豪快な食事の仕方なのに下品には見えません。羨ましいかぎりです。
「あの、食事が終わりましたら会議を開きたいと思いますので紅茶をお願いしてもよろしいでしょうか」
「はい、わかりました」
「ありがとうございます。では、紅茶を三つと、皿に入れたミルク一つお願いします」
「わかりま……紅茶三つと、皿に入れたミルクですか?」
「はい、玖珂さん、堀ノ内さん、私の紅茶三つと、クロさんのミルクです」
一人ずつ指差し、最後に膝の上で、与えられた生ハムを夢中になって食べている子猫さんの背中をひと撫でして確認作業終了。
子猫さんの御名前を今更ながらに知りました。クロ、毛が黒いからクロ? 何て安易な――いえ、覚えやすくて素敵なお名前です。
これからは、クロさんとお呼びしましょう。
「会議ですよね」
「はい、会議ですよ」
「動物も会議に参加するのですか」
「何をおっしゃいます。クロさんは、可愛らしい外見を武器に人間に取り入り、ありとあらゆる情報を集めてくる、猫アレルギー、又は動物嫌いの人間以外に対してとても大きな功績を上げている、我がリライトの優秀な諜報人員、ではなくて諜報猫員ですよ」
「おう、オイラは超優秀だからな!」
自分で優秀とか言っちゃいますか。
不思議アイテムのお蔭とはいえ、流暢に日本語を話す猫を実際目の前にすると、関心してしまいます。
「新入り、分からないことが合ったらなんでも質問していいぞ」
クロさんは齧っていた生ハムから顔を上げ、得意げに言いました。
私、猫よりヒエラルキー下なんですかね。
「では、遠慮なく質問してもよろしいですか」
「おう!」
「お名前の由来は体毛ですか」
「仕事の質問じゃねーのかよっ!」
牙をむいて威嚇されました。
「仕事の質問は特に思い浮かばなかったものですから。で、どうなんですか? やっぱり体毛?」
「しつけーし、ちげーし、体毛から離れろって。名前の由来は、クロロホルムだよ。クロロホルムのクロ」
chloroformってあのクロロホルム? 麻酔作用があって、発癌性が疑われている、あのクロロホルムのことで?
薬品名が名前の由来ですか。
微妙な表情をしていたのか、クロさんは、頼んでもいないのに、名前の由来についてさらに詳しく説明を話しはじめました。
曰く。
「宗佑と初めて会ったとき、クロロホルムの瓶わっちゃってさー。その時『貴様はこれから、亡きクロロホルムの名を継ぎクロと名乗れ』って、頭蓋骨鷲掴みにしながら真顔で言われたからさー。怖いだろ? グスッ、従うしかねーじゃん?」
途中から、涙声で語るクロさんに対して、我関せず黙々とサンドイッチを頬張り続ける玖珂さんにチラリと視線を向けます。
名付け親、貴方でしたか。
なんといいますか、亡きクロロホルムって何ですか。薬品って生き物でしたっけ。生き死に関係ありませんよね。
疑問は尽きませんが、沈黙を貫きます。突っ込んだら負けな気がしますから。
未だスンスンと鼻を啜るクロさんの小さな頭を人差し指で「大丈夫ですよ。玖珂さんは大体全員にそんな感じですから私だって……」と己の身におきた不幸を曝け出し、慰める藤田さん。
藤田さん貴方、今慰めている相手に昨日顔面物理攻撃されていませんでしたか。もう気にしてないんですか。心広いですね尊敬します。
互いに慰めあう一人と一匹の美しい姿。昨日の敵は今日の友ですね。
強く生きてください。そのうち良いことありますよ。
心の中でそっとエールを送っておきました。
机の上には無数の調査資料。真剣な顔で議論を交わす二人と一匹、現実逃避をし、遠い目をしているのが一人。
お分かりかと存じますが、現実逃避しているのが私です。
大変失礼ですが、数分前まで、会議という名を借りた、お茶会を開くのだとばかり、思
っておりました。
誰が想像できるでしょう。毎日ゴロゴロしている人間と、早朝から二日酔いに苦しんでいた人間と、人ですらない子猫が白熱した議論を交わすなど。
「さぁ、仕事の時間ですよ。しっかりして下さいね」「ヤダ」「宗佑オイラが頑張って集めた情報無駄にするきかよ」「……」「無視ダメ不貞腐れても仕事はヤレよ」「あぁ、ほら今回の仕事が終わったら前に欲しがっていたケーキ買ってきますから」「ホール」「しかたありません。ホールで買いますから仕事してくださいね」「ん」
……あ、違った。議論で白熱はしていませんでした。
自堕落人間に仕事をさせようとして、一人と一匹が奮闘していた模様です。
私、ここで働いていて大丈夫ですかね。再就職先探したほうがよさそうでしょうか、ちょっぴり不安になります。やめませんけどね待遇いいですし。
ティーカップを片手に晴れ渡った青空が美しい窓外の景色を眺めます。
もう、私必要ないと思いますし、ゲームで遊んでいてもいいですかね。掃除をしていた時に発見された、 誰の物かも分からない最新ゲーム機は早々私の私物化しております。あと少しでラスボス倒せるし、早くエンディング見たいのですが。
ぼけーっとしていると、後頭部に何かで叩かれたような軽い衝撃を受けました。
「痛いです」
実際はそんなに痛くありませんでしたが、条件反射のように口から言葉が零れ落ちました。
衝撃を受けた後頭部を両手で守るようにして抱え込むと、玖珂さんが、私の目の前に薄い紙の束を突き付けました。
「仕事しろ」
絶対これで私の後頭部叩いた。
手渡されたのであろう紙の束を受け取りながら、暴言が飛び出してこないように、素早く口を一文字に結びました。
貴方にだけは言われたくない言葉ですよ、それ。
だいたい、仕事しろと言われても、説明もない状態でどうしろと。
渡された紙の束は資料でしたので、おそらく読めということでしょう。
資料の内容は、複数の女性の名前と簡単な経歴が書かれ、お亡くなりになられた日時まで記載されていました。
名前、生年月日、卒業した学校、就職した会社、結婚履歴、死亡日時……皆様ずいぶん若くしてお亡くなりになられているようです。
あれ、おかしいな、個人情報ってこんなに簡単に手に入るものでしたっけ。
二枚目の資料を読み終わり、三枚目の資料を捲ったところで、手を止めました。
見間違えた可能性も考え、前の資料に戻ります。
「あらまぁ」
「どうしました」
いつの間にか隣に座っていた藤田さんが首を傾げます。
「ここなんですが」
三枚目の資料に書いてある小森純一の名前が記載されている所を指差します。
「結婚相手の名前が全部同じなのですが」
「さすが、堀ノ内さん。すぐにそこに気づくとは、お目が高い」
笑顔です。ものすごい笑顔で藤田さんに褒められました。
普通に気が付くと思います。
「記入ミスですか」
「いいえ、間違っていませんよ。皆さん同じ方と結婚して早期にお亡くなりになられているのです。そして、その小森という男は多額の保険金を受け取っています」
「あの」
「はい」
「それって、保険金殺人的な?」
「的なではなく、保険金殺人そのものですね」
涼しい顔であっさりと肯定。
「今も昔も金目当ての殺人って多いよなー物欲ってヤツ? 欲で人殺せるとかーオイラ怖いー」
右へ左へ、床をゴロゴロと転がるクロさんに棒読みで言われても全然怖がっているようには見えません。
「ひょっとして、この犯人を捕まえるのが次の依頼ですか?」
よくある二時間サスペンスドラマ。探偵が人質を連れて逃げる犯人を崖の上へと追いつめているシーンが、脳内再生されました。探偵の立ち位置を自分に置き換えてみます。「お前の犯した数々の所業はすべて暴かれました。無駄な抵抗はやめましょう」「ちきしょう! もう少しだったのに!」「これ以上罪を重ねるのは無意味です。さぁ人質をこちらに」「うるせぇっ、てめぇも道連れだぁ!」足場の悪い崖の上で人質を突き飛ばしナイフを構え私に向かって猛然と攻めかかる犯人。そんな相手の初手の攻撃を華麗にかわし、背中を蹴り倒し地面に押さえつける私……。
やだ、かっこいい。
この事件を切っ掛けに探偵デビューとか素敵ではありませんか。
「いえ、犯人は二年前に富士の樹海でミイラ化した死体で見つかりましたので、事件は解決済みとなっているようですよ」
無情にも告げられた藤田さんの一言で夢は木端微塵に打ち砕かれました。
現実は、とても厳しいものです。
「ご質問よろしいですか」
「どうぞ」
「解決済みである、この資料を私が読んだ意味ってあったんですか?」
「……この紅茶、とっても美味しいですね」
ふふふ、と笑いながら紅茶を啜る藤田さん。
笑って誤魔化すとは、なんて典型的なことをする人でしょう。もっと他にも方法は色々あったでしょうに。
「玖珂さんは、どうしてこの資料を渡したんですか?」
資料を渡した当事者に直接疑問を投げかけました。すると、彼は不思議そうに小首を傾げてから、
「おまえの頭叩く時に近くにあったから」
「左様で」
至極当然のように返された返答に脱力しました。
つまり、適当に掴んでそのまま渡したと、読む必要もなかったと。そうですよね「読め」とは一言も口に出されていなかったですし、単なる私の早とちりだった訳ですね。
無駄な労力を使ったことに対して項垂れていると、足元からよじ登ってきたクロさんが右肩に腰を下ろしました。
彼はそっぽを向いたまま暫くの沈黙の後こう告げました。
「落ちこむなよ。無駄にならないって……多分」
慰めるように緩々と頬を撫でる尻尾は暖かく、ふわふわしてとても和みます。別に対して落ち込んでいなかったのですが、この心地よさをすぐに手放すのは、惜しいのでもう少しだけ落ち込んでいることにしておきましょう。