かわいいは正義(?)1
翌日、緊急事態が発生しました。
これっぽっちも予測できない事が起こっていたのです。
「すぐに出来上がりますから、もう少し耐えてください!」
鉄のフライパンで野菜を炒めながら、台所から声を張り上げましたが、リビングのソファーに俯せで倒れている玖珂さんは、微動たりとも動きません。
空腹のあまり身体機能が停止している模様です。
昨日、心身共に疲弊していた私は、張り込み終了後すぐに自宅に帰宅し泥のように睡眠を貪りました。
出勤してきた私を迎えてくれたのは、ソファーに力尽き俯せに倒れた玖珂さんでした。
最後の力を振り絞り少しだけ上半身を持ち上げた玖珂さんは、掠れた声で現状を切実に訴えたのです「おなか……すいた」と。
哀れ、その言葉を最後に彼は、顔をソファーに埋め動かなくなりました。
誰が予想できるでしょうか、出勤早々飢えた上司に出迎えられるこの状態を。
「そんな、倒れる程の空腹だなんて、いったい何が……!」
慌てて駆け寄りはっと、気が付きます。
私、昨日玖珂さんの夕食を作ってない。
だって、張り込み現場からそのまま、自宅に帰宅しましたもん。
「わっ、すみません! すみません! すぐに食事作りますからっ、死なないでください! クビにもしないでくださいっ!」
平謝りしたのち、台所へ駆け込み調理を開始した訳であります。
時間短縮のため本日の食事は野菜たっぷりラーメンです。
お湯を沸かし、麺を茹でると同時進行でニンニクがたっぷり入った、ニラ、もやし、豚バラ肉を塩コショウで味付けした野菜炒めを作ります。
最後にラー油を二滴入れ、完成した野菜炒めを醤油ベースのスープの海に沈んだ少し固めに茹であがっている麺の上に山のように盛り付け、玖珂さんの元へ急いで届けます。
「ゔぅ」
「玖珂さん、しっかりして下さい。ほら、ご飯ですよ」
ラーメンの匂いにつられモゾモゾと芋虫のように動いた玖珂さんの肩を揺さぶり起こします。
「ご……はんっ!」
「うわっ」
残像が見える程の驚異的な速さで体を跳ね起こし、ラーメンに飛びついた玖珂さんは、一心不乱に麺を啜っています。
六分でラーメンを間食し、お腹がそこそこ満たされた彼は、すぐに紅茶を所望しました。
すっかり元気を取り戻したようでなによりです。
ティーポットにダージリンの茶葉と沸騰したお湯を注いで蒸らしティーカップ二つ載せたお盆に一緒にリビングに運び、ついでに、ラーメンを作る時に同時進行でオーブンに入れておいた、冷凍庫で保存していたクッキーの種が焼きあがったので、お皿に山のように盛り付けて机におきます。粗熱が取れていないのでほんのり温かいですが、気にしません。これはこれで美味しいのです。お皿に盛りきれなかったクッキーは、粗熱が取れるまで放置です。
「ところで、ご自分で何か作ろうとは思わなかったんですか?食材はあったはずですが」
「昔ボヤを起こしてから台所への出入りは、藤田に禁止された」
「ボヤを、ですか?」
「まぁ」
ダージリンを注いだティーカップを受け取った玖珂さんは、同時にクッキーにも手を伸ばし一度に三枚も口に含み、もごもごしながら少し気まずそうに頷きました。
「台所に入れないのなら、お腹がすいた時、今までどうしていたんですか?」
「藤田に頼んだ」
「藤田さんが、ここにいらっしゃらない時は?」
「文明の機器で呼んだ」
「あぁ」
すっと流れるような動作でズボンのポケットから取り出された文明の機器、黒いシンプルな携帯電話に思わず納得してしまいました。
なんと御可哀想な藤田さん、今まで玖珂さんが空腹になる度に呼び出されていたのですね。
道理でスカウトの時必至だったはずです。彼の苦労がしのばれます。
「では、昨日はどうして藤田さん呼ばなかったんですか?」
「ん」
「あの?」
差し出された携帯を反射的に受け取りながら首を傾げます。
「かけてみ」
「はい」
言われるがまま表示されていた発信履歴から藤田(下僕)と書かれた項目からリダイアルします。
なんでしょうね、この藤田(下僕)って……突っ込みませんけどね。私の項目には何と書かれているのやら。知りたいような、知りたくないような微妙な心境です。
表示された画面の一番古い履歴の日付は昨日でした。
昨日も藤田さんに電話していたようです。
プップップッ、プルルルル―― プルルルル――プルッ
毎度お馴染み電話の発信コールを数回繰り返しプツリとコールが途切れました。
「もしもし藤田さんで『おかけになった電話番号は電波の届かないところか電源をお切りになっており』すか――――」
耳元で、お決まりのセリフが人工音声により再生されました。
これは、まさか!
ばっと、顔を玖珂さんに向けると彼は神妙な面持ちで頷きました。
なるほど、繋がらなかったのですね電話。助けを呼ぼうにも、繋がらなかったら、どうしようもありませんから、空腹で倒れていても仕方がない。
スクロールしてみれば、発信履歴は全部藤田さん宛でした。短い間隔で通信記録が大量に残っています。
こわっ!
……ではなくて、ひょっとして、着信拒否じゃありませんかこれ。
着信拒否されるって、今まで、藤田さんにどれ程の無理難題を強いて生きたのですか貴方。いやいや、本当に電話に出れなかっただけかもしれません。着信拒否の時の音声ガイドなんて、知りませんしね。先走りは、よくない事です。落ち着きましょう。
携帯電話を玖珂さんに返そうとしたその時です。
ドゴッ
突如、鈍い音が室内に響きました。
漆黒の弾丸が飛び。
視界から消えました。
玖珂さんが。
端的過ぎて理解できない?
失礼いたしました。私も突然の出来事に動揺しておりまして……。
正しく説明致しますと、何処からともなく飛んできた黒い塊が弾丸の様な驚異的な速さで、玖珂さんの横腹に突っ込み、衝撃に耐えられなかった玖珂さんが、そのまま床に倒れこみ、私の視界から姿を消しました。
渡しそびれた携帯を机の上にそっと置きます。
何コレ敵襲?
「玖珂さ……」
「宗佑! あいつヒドイぞ! オイラのこと蹴りやがったっ!」
大丈夫ですか? と続くはずだった私の言葉は甲高い子供の声に見事に遮られました。
「なぁ、聞いてる? なぁ、そーすけ、なぁなぁ、そーすけ、そーすけってばっ――――」
発信源は黒い塊。子供の様な声は壊れたオーディオ機器のように玖珂さんの名前を繰り返し呼び続けています。
私はそっと耳を両手で塞ぎました。
甲高い子供の声って結構頭に響きますよね。
さて、数十秒間床に横たわったまま沈黙していた玖珂さんが、ゆっくりと上半身を起こしました。俯いているので表情は確認できませんが、おどろ恐ろしいオーラが全身から滲み出ております。効果音を付けるとすれば、某未来からやってきたアンドロイドが登場する時のあれですね。
彼は徐に黒い塊を摘み上げ、ボールか何かのように握り直し、投げました。
それは、それは、美しいフォームで思わず見惚れてしまうほどでした。座った状態での見事な投球です。
「ぎゃっ!」
勢いよく壁に衝突した黒い塊は、短く潰れた蛙の様な悲鳴を上げた後重力に従って床に落ちましたが、一瞬のうちに復活し再び甲高い声で叫びました。
「痛いぞ、この人でなし!」
玖珂さんは、無言無表情で、黒い塊に大股で近づくと躊躇なく塊を鷲掴みにしました。
「放せよ! このハゲッ! ボケッ!」
黒い塊……長いですね、短縮して塊さんと呼びましょう。
塊さん、塊さん。何故、そんな火に油を注ぐ様な事をおっしゃいます。
あぁほら、ミシミシという音が、メキメキにグレードアップしたじゃありませんか。玖珂さんの手に血管浮き出ていますよ。どれだけ力込めていらっしゃるのやら。
「うぎゃぁぁ――――いたい、いたい、いたいってば! うそうそ、うそだよ! ごめんなさぁぃ」
絶叫です。塊さんは、手足をバタバタと動かし激痛に悶絶しております。
……ん? 手足?
うん? あの塊さん何処かで見た気が……。
先程とかわらずメキメキと力を込めて塊さんの頭を鷲掴みにしている玖珂さんに恐る恐る近づき、近距離で塊さんを観察します。
生気の抜けかけたつぶらな瞳、四つの手足に付いたピンク色の肉球、短めの尻尾、悲鳴を上げ続ける半開き状態の口からは、可愛らしい白い牙が見え隠れして……って、塊さん初めてここに来た時に出会ったふわもこ黒子猫さんではありませぬか。
あれ? 猫って人間の言葉話せましたっけ?
そういえば、最近のテレビで犬や猫の鳴き声や、喉の振動で何を言いたいのかわかる機械が開発されたとかされないとか……。存在を消せる魔法の帽子があるのですから、犬猫翻訳機能付きの首輪が存在してもおかしくは……ないですね。
私が自己完結している間にも頭を鷲掴みにされ続けていた塊さん改め子猫さんは、瀕死の状態でした。
「ちょっ、幼気な小動物に何てことを、放してあげて下さいっ」
子猫さんを、慌てて魔の手から救出します。
「幼気な小動物……どこに」
以外にすんなりと、子猫さんを解放してくれた魔王様、ではなくて玖珂さんは本当に分からないようで私の言葉に首を傾げております。
幼気な小動物こと子猫さんは、私の掌の上でしきりに頭を毛繕いしています。鷲掴みにされていましたもんね、そこ。
ひとしきり毛繕いして、満足したらしい子猫さんは、つぶらな瞳でこちらを見上げ。
「もっと早く止めろよな、グズッ!」
可愛らしい顔と声で、えらい暴言吐かれました。
まさかのグズ呼ばわり。
助けてあげたのに、この仕打ち。
視線を上げると次の瞬間、バッチリ玖珂さんと目が合いました。
「……すいません。気のせいでした。幼気な小動物存在しませんでした。どうぞ」
「理解を得られて幸いだ」
顔を見合わせ、互いに頷きあいます。
――この子腹立ちますね。
――だろう。
お勤めを開始して約二週間半、初めて雇い主である玖珂さんと、意見が一致した瞬間でした。
「うわぁ、ごっ、ごめんなさいすいませんオイラが悪かったからっ、あやまるから、ソイツにオイラを差し出すな! 宗佑も手を伸ばしてくるなぁ――――」
恐怖に毛を逆立て、手のひらからハイジャンプで逃げ出した子猫さんは部屋の片隅へと逃げていきました。
ソファーに腰を落ち着け、ぬるくなった紅茶を一口飲み、部屋の片隅でガタガタと震えている子猫さんを見詰め、玖珂さんが一言。
「返事がない、ただの屍のようだ」
それ、ダメなやつ。バッドエンドのナレーション。
特に害はなさそうだったので、子猫さんを放置しクッキーに手を伸ばします。
サクサクした触感、鼻に抜ける香ばしいアーモンドの香りと、程よい甘味が口一杯に広がります。
うん、なかなかの出来栄え。
もう一つ頂こうと伸ばした私の指先が、誰かの手の甲と触れ合いました。一瞬、玖珂さんかと思いましたが、彼は目の前で黙々とクッキーを消費しているので違います。第一玖珂さんは私の前に座っていますが、この手は私の隣から伸びています。
クッキーをつまみ、戻っていく手を視線で追います。
いつのまにか私の隣に腰を下ろしていた人は男性でした。清潔感漂う真っ白なシャツを身にまとった彼は、少し前に話題にあがっていた藤田さんでした。彼は一口クッキーを齧り。
「美味しいですね」
相も変わらず爽やかな笑顔を惜しげなく私に向けながら、クッキーの味を褒めてくださいました。
どこから湧いてきましたこの人。ドアが開く音とか、ソファーに人が据わる気配とか全くしなかったのですが?
……うん、本当に何でいるの藤田さん。そして、呑気にクッキー食べている場合じゃないと思いますよ、前見てください前。ほら、人ひとり殺してそうなくらい目が恐ろしく据わっている方が、
スコ――ン
小耳良い音を上げ携帯が藤田さんの額に直撃しました。結構な衝撃があったようで、彼の顔は大きく後ろに仰け反っております。
投げつけられた携帯は、藤田さんの額から上手く跳ね返り、持ち主である玖珂さんの手に何事もなかったかのように戻りました。
「ナイスコントロール」
素晴らしい制御力に賛辞の言葉を捧げます。
玖珂さんは、席を立ち未だに片隅で震えている子猫さんを親指と人差し指で器用に首後ろにある皮の部分を摘み上げ、左右にブラブラと揺らします。無論、揺らされた子猫さんは抵抗していましたが、彼が耳元で何かを囁くと、すぐに大人しくなりました。
何を言ったのかとても気になります。
玖珂さんは仰け反っていた顔を元の位置に戻した藤田さんの隣まで移動すると、力なく項垂れた子猫さんを、藤田さんの顔面すれすれに近づけ、尋問が開始されました。
「電話に出なかった理由を述べろ」
「いやぁ」
「出なかった理由を述べろ」
「えっと」
「理由を述べろ」
「あの」
「述べろ」
真顔で迫る玖珂さんに対して、言葉を濁し引きつった表情で視線を逸らす藤田さん。
なにこのカオス。
いつまでたってもハッキリしない藤田さんに、業を煮やした玖珂さんが子猫さんを軽く上下に一振り。するとどうでしょう、あら不思議、何処からともなく鋭い凶器が姿を現しました。
……嘘です。凶器は子猫さんの、ふにふにした肉球が魅力的な前足から普通に出てきました。
爪です。
キラリと輝く研ぎ澄まされた爪は、合図があれば何一つ躊躇わず藤田さんの顔面に襲い掛かること間違いなしです。
「理由を述べろ」
無表情な久我さんから藤田さんへ最終通告がなされました。