病院では静かにしましょう
今までの人生の中で経験したことの内容な濃厚な一日を過ごした翌日。勤め始めて二十八日目……私は清潔感溢れる白い壁に囲まれた比較的大きな空間にいました。もちろん肉体がないので幽霊状態です。誰にも私の姿は見えないので、悪戯し放題です。しませんけどね。
目の前に大勢の人々がおり、彼らは、椅子に座っていたり、落ち着きなく歩き回っていたり、カウンターでお金を払ったり、自分の腕と繋がっている点滴が落ちる様子をボーっと眺めていたりと、様々な行動をしていました。たまに、忙しそうに速足で歩く白衣の天使が目の前を横切って行きます。
ここは、とある私立病院の受付待合室です。隣には瞼が半分閉じかけ、立ったまま眠りかけている玖珂さんがいます。ちなみに何故か彼も幽霊状態です。肉体から出る姿もきちんと見せて頂きました。こう、着ぐるみを脱ぐ感じでにょっきって、背中ではなく腹部から出てきましたけど。リアル幽体離脱を生で見てしまいました。
「もしもし、玖珂さん。ここからどこに向かえばよろしいのですか?」
隣に佇む久我さんに尋ねました。
「…………」
返事は返ってきませんでした。首がカクンカクンと前後に揺れています。
睡眠中でした。
「玖珂さん」
「…………」
「玖珂さんやーい」
「…………」
どれだけ声を掛けようとも返事はありませんでした。無駄な努力だったようです。
そのうち、自力で起きるでしょうし、玖珂さんの意識を覚醒させるのを諦めることにしました。彼の手を引っ張ると、ふらふらしながらも素直について来たので、壁際に誘導し放置します。
十分経ちましたので、声をかけてみることにします。
「玖珂さん、玖珂さん」
「…………」
まだ、無理でした。
暇なので、人間観察をしてみます。
母親の首にしがみつき泣き続ける幼児。
――腕にパッドが貼ってあります。注射が怖かったんですね。
慣れない松葉杖に悪戦苦闘しながら歩く青年。
――初めての骨折ですか。大丈夫、松葉杖は3日もすればスムーズに扱えるようになりますよ。
お年寄りを支えながらゆっくり歩く中年の女性。
――付き添いですか。ご苦労さまです。
「××さん。××さん。お待たせいたしました。3番の診察室にお入りください」
人間観察にも飽きはじめたのでボーっとしていると、何度目かの館内放送がかかりました。ちょうど私の目の前の人が名前を呼ばれたらく何となく視線で追います。初老の男性はゆっくりと椅子から立ち上がり、3の番号がでかでかと書かれたドアの診察室へと入って行きました。すると、初老の男性の後ろで、長椅子にどっかり二人分の席を使い座っていた少々ぽっちゃり体系な五十代男性が不機嫌顔で立ち上がりました。そのまま、彼は受付の女性の元へ行くと、大きな声で「ふざけるな!」と怒鳴りました。
そして「俺は、朝早くから受け付けに来ていたのに一時間以上待たされたのに、後から来たやつの方が先に呼ばれていたのはどういうことだ!」と続けます。
受付の女性が、笑顔で対応しています。プロです。
「お待たせして申し訳ございません。本日は大変込み合っておりまして……前日に予約を取られた方から優先させていただいております。順番になりましたらお呼びいたしますので、もう少々お待ちください」
そう言って深々と頭を下げました。
まったくもって正論です。予約した人間が優先される事は当然です。そこで納得して大人しく謝罪して引き下がるのが良心ある大人と言うものです。しかし、五十代の男性――なんか腹が立つのでおっさんでいいですよね――おっさんは、引き下がることなく、顔を真っ赤に染めながら女性に噛みつきました。
「俺が死んでもいいってことか! ふざけるな! オマエなんかじゃ話にならん、責任者をだせっ!」
そんな、馬鹿な。
支離滅裂にも程があります。
おっさんの怒鳴り声に、辺りは一瞬静寂に包まれましたが、すぐにガヤガヤと話しはじめました。現代人は、面倒事にはかかわろうとしない人が多いのです。
困り顔の女性に対しギャーギャーと幼稚園児のように喚き散らかすおっさんを、冷めた目で眺めていると、黒い靄がおっさんの全身にまとわりつき始めました。
なにアレ気持ち悪い。
「あの黒い靄な……んですかぁ……」
玖珂さんに尋ねようと隣を仰ぎ見ると、そこには誰もいませんでした。誰にも見られることが無いと理解していても、ちょっと恥ずかしい。声が尻すぼみになります。
キョロキョロと辺りを見回し、姿を探します。見つけました。
今、まさに、女性に拳を振り下ろさんとしているおっさんに、後ろから膝かっくんを決めていました。
「あがっ!」
奇妙な悲鳴を上げおっさんが平らな床の上で豪快に転び尻もちをつきました。
玖珂さんの姿は普通の人間が視界にとらえることは、もちろんありません。なので、おっさんは何もない所で突然尻もちを付いたように見える訳です。
おっさんを助け起こそうとする人は、受け付けで待っている人の中には、誰一人いませんでした。まぁ、関わり合いになりたくない人種ですものね。仕方のないことです。自業自得です。
「だっ、大丈夫ですか!」
先程までおっさんに怒鳴られていたというのに、心優しい受付の女性がカウンター内から外に出てきて、おっさんに救いの手を差し伸べました。
なんと、お優しい女神か。彼女の行動に感動します。
「っ、貴様らがきちんと整備していないから、床で転んだんだ! 謝罪しろ! 訴えるぞ」
大勢の目の前で尻もちを付いたことが恥ずかしかったのかおっさんは顔を真っ赤にして再び女性に怒鳴ります。
いやいやいやいや、おっさんが転んだことと、お姉さんは無関係ですよ。
「申し訳ございません。御怪我は御座いませんか」
女性が優しく尋ねます。
「お怪我は御座いませんかだと、そんなもん見て分からんのか! こんな人間が働く病院なんてすぐに潰れるぞ!」
女性を掴もうとおっさんが手を伸ばしましたが、その手は途中で別の人物に腕を掴まれました。強い力で掴んでいるのか、必至に振り払おうと、おっさんが全力で暴れているのにびくともしません。
なんと、この状態で女性を助けに入るヒーローのような人がいるとは日本もまだまだ捨てたものではありません。彼は私がいる方に背を向けるようにおっさんと向き合っているので残念ながら顔を見ることはできませんでした。
「なんだ、お前も訴えるぞ!」
おっさんが腕を掴んでいる男性に向かって叫びました。すると、相手は開いている手で軽やかにスマートフォンを操り、耳元へと持っていき、
「もしもし、警察ですか? はい、●×病院で暴れている人が……はい、女性に暴力を振るおうとしていたもので……えぇ、私ではどうにも……はい、はい、よろしくお願い致します」
冷静に淡々と会話をしながら何もない所に向かってペコペコと頭を下げる男性。その姿よく見かけます。特に街中とかオフィス街などで。
「すぐに警察の方が来て下さるそうですので、場所を移して話し合いましょう。ね」
通話を終えた男性が、警察の単語が聞こえた時点で固まってしまったおっさんの肩に手を置き言いました。
「っ、もういいっ! 後で後悔してもしらんからなっ!」
肩に置かれていた手を払いのけ、下っ端の捨て台詞を吐きすて、おっさんは脂肪のたっぷり詰まった腹部をゆさゆさと揺らしながら走って逃げて行く後姿を、見送る彼の口元は口角が上がり弧をえがいています。よくアニメで悪者がニヤリっと笑うあの感じにソックリでした。
「大丈夫ですか」
床に座り込んだ女性に手を差出立ち上がらせる男性。
……うん?先程から気になっていたのですが、あの男の人の声なんだか聞き覚えがあるような。
男性へと視線を向けジッと見詰めると、立ち位置が変わり私からでも顔の全貌が分かるようになりました。
「あらまぁ」
以外な人物の登場にビックリです。
仕切りにお礼を言う女性に対応して和やかに対応しているその男性は、ダークブラウンの髪に穏やかな笑顔を浮かべお洒落スーツを着こなした藤田さんでした。
世間は狭いなぁ、いやいや、あの人玖珂さんのお目付け役ですし、こっそりと付いてきたのかもしれない頑張れ苦労人。と思いながらその様子を眺めていると、のろのろと藤田さんの悩みの種増幅機である玖珂さんが歩いてきたので労いの言葉をかけます。玖珂さんの膝かっくんが無かったら、もっと早く女性が殴られていたかもしれません。お手柄です。
「お帰りなさい。人助けお疲れ様でした」
「人助け?」
不思議そうに玖珂さんが首を傾げました。
「受付のお姉さんを助けたじゃないですか」
意味が本当に分からないようで、彼の眉間に皺が三本増えました。
「怒鳴り散らかして、かよわい受付のお姉さんに対して暴力を振るおうとしていたおっさんに膝かっくんしたじゃないですか」
「あぁ、そんな夢を見ていた気も……するような、しないような」
腕を組みしながら十秒程考え込んだ後
「……よし、行くぞ」
何事も無かったかのように、玖珂さんは踵を返し歩き出しました。
置いて行かれては困るので彼の背を追いかけながら、ボンヤリと考えを纏めました。
きっと、大事な睡眠を邪魔する騒音に、無意識に(寝ぼけながら)気持ち(怒り)を伝えていたのでしょう……だがしかし、本人の意識は無かったから覚えていなかったのだろうなと。
ここまで、読んでくださりありがとうございます。