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lost child  作者: 上城樹
10/18

かるい人

「やぁ! こんにちは!」

 夕刻、電気の付けられていない薄暗い部屋の中で、薄型テレビの上にヤンキー座りをした、全く面識のない男性に茶目っ気たっぷりな挨拶とウィンクを貰ったら貴方はどうしますか?


 負けずにウィンクし返す? 

 とっても社交的な対応ですね、私には無理です。


 どちら様ですか? と尋ねる?

 ありえないことですが、万が一の可能性で私が忘れている知り合いだった場合、気まずい空気になること間違いなしです。そんなのは嫌なので、尋ねられません。


 近くの人に助けを求める?

 正義感溢れる勇猛果敢な頼りがいのある方が近辺にいらっしゃらないので却下です。床に丸まってガタガタ震える男性は、逆に助けてって言われそうだから声を掛けたくありませんし、傍らにいらっしゃる雇い主様こと玖珂さんは我関せずという態度で、首から下がっている皮ひもの先端に下げられている二本ある内の金色の鍵を指で弄っており助けてくれる可能性は限りなく低いです。


 暫しの黙考(もっこう)

「あの、帰りたいのですが」

「ダメ」

「ですよね」

 視線を足元に落としたまま、そろりと、右手を挙げて雇い主様に自己主張してみるも、結果は、あっさりと拒否されてしまいました。

 こちらを凝視してくる液晶テレビの上にヤンキー座りした男性と視線を合わせないように細心の注意を払いながらゆっくり後ろに一歩下がりました。

 何この状態、勘弁してほしい。


 少しだけ時間を巻き戻します。

 減給の脅しに屈した私は、ラスボスの攻略を泣く泣くあきらめ事務所を出ました。

 玖珂さんの後に付いて到着したのは、どこにでもある二階建てのワンルームマンションの一室でした。そこまで美しくない外壁と階段手摺りが少し錆びていたので、築年数は五年から十年といったところでしょうか。

 室内には玄関入って直ぐにキッチンがお出迎え、向かって左手に毛先の痛んだ歯ブラシ、櫛、剃刀が無造作に置かれた洗面台と風呂場があり、その奥に正面と左に扉が一つずつありました。左の扉はお手洗いで、正面の扉を開けるとそこは八畳の部屋がありました。

 部屋は、一間分(ひとまぶん)のクローゼットと、深緑色のラグが敷かれ、その上には飲み物が少し入ったカップと口の開いたスナック菓子の袋が散らばっている小さな楕円形のちゃぶ台が一つ部屋の中央に置かれ、右壁際には、折り畳み式の黒いシングルベットが置かれ、反対側の左壁側には薄型の液晶テレビが設置されていました。目測ですが、あのテレビ五十型はありそうです。あのサイズでゲームしたら迫力満点で面白そうです。初給料で何を買おうか迷っていましたが、使わずに貯めて大型テレビを購入するのもありですね。

 いけません、話が逸れてしまいました。

 まぁ、玖珂さんに連れて来られたのは、ごく普通のワンルームアパートだった訳です。ガタガタ震える男性と、薄型テレビの上にヤンキー座りしている男性が室内に存在しなければの話ですが。


「ねぇー無視? 酷いなぁーボク、傷ついちゃう。ほら、挨拶は基本。基本は、だ い じ」

 だ い じ の言葉に合わせて顔の横でピンと立てた人差し指を楽しそうに振る男は、細見の体躯に黒いタンクトップその上に薄手のグレーのカーディガンをはおり、濃紺のジーパンを身に着け、何故か下駄を履き、黄金色に輝く金髪を赤い組み紐で無造作に束ねた短めのポニーテール――にしては髪が短いですね。無造作に縛られた髪をジッと見つめます。

 なんでしょう、何かに似ているような……あぁ、分かりました。あれは確か中学時代、残暑が厳しい九月のこと、ジリジリと肌を焦がす日射しを受けながら、中庭の掃除をしていた時に男子がやたら振り回して遊んでいたモノにソックリなのです。その名も竹箒。疑問が解消されてとてもスッキリしました。ポニーテール改め箒頭がアクセントのとてもチャラそうな男が、テレビの上でゆらゆらと揺れています。

 関わり合いになりたくないランキング上位に余裕でランクインしていらっしゃる人種です。

 話しかけないで欲しいという私の願いは叶えられることはありませんでした。

「ひょっとして、ボク怖い? 大丈夫、安心して女性には優しいから」

 ニヤニヤと意地の悪い顔をしながら話しかけてきた男に、さぁ、おいでといわんばかりに両手を広げられました。

 変質者め、初対面の人間の腕の中に誰が飛びこみますか。そのまま体制を崩して後ろの壁で後頭部を強打すればいいのに。

 一歩後ろに下がり玖珂さんの後ろに隠れます。百八十センチ越えの背中はしっかりと変質者から私の姿を覆い隠してくれました。

 この安心感プライスレス。

「あれま、隠れちゃった」

 かわいいねぇー恥ずかしがり屋さんなのかなー大丈夫だよ、怖くないから出ておいでー、と弾んだ声が続きイラつきます。

 何がそんなに楽しいのか失礼な男です。足を踏み外して顔面からフローリングに突っ込んでしまえばいい。

「うーん、残念。玖珂くんの後輩ちゃんに嫌われちゃったかな?」

「三郎、煩い」

「玖珂さんの御知り合いですか?」

「他人以上知り合い以下」

 変質者の名前を呼んだ玖珂さんの背中に隠れたまま、服の裾を少しだけ引っ張り、振り返った彼に疑問を投げかけると、淡々とした口調で返事を返されました。

「そう……ですか」

 それは、また微妙なご関係ですこと。

「またまた、玖珂くんは照れ屋さんだなぁ。ボクと君は仲良しでしょ」

「……お前、ウザイ」

「ウザッ! 酷いっ。そういう玖珂くんは相変わらず毒舌だね! ボク以外に友達いないっしょ」

「……」

「あれれ、図星? もー、いつもそんな能面みたいな顔してるから友達できないんだよ。ほら、ボクみたいにニコーって笑ってみニコーって」

 口角を両手で引き揚げ満面の笑みを作って見せる相手に対して、絶対零度の視線を向ける玖珂さん。それでも彼はめげずに話しかけ続けます。

「無視よくないっ」

「……誰が誰の友達?」

「……ねぇ、ひょっとして今までずっとソレ考えてたの?」

「そうだ」

「ボクのありがたいアドバイス聞いてた?」

「――アドバイス?」

 首を傾げる玖珂さんに対し彼がボソリと呟いた「だよね。聞いてないよね。知ってた」の言葉は酷く哀愁(あいしゅう)をおびていました。

「で、誰が誰の友達だと?」

「ボクが! 玖珂くんの! 友達!」

「…………精神科行くか?」

「もー、酷いっ酷いよ玖珂くんのバーカ」

 真顔で精神科を進められた男は、酷い酷いと言いながらもケタケタと笑い声を上げています。貶されて笑うだなんて、この人ドМ?

「まっ、いいや、取りあえず後輩ちゃんに自己紹介しないとね」

 器用にテレビの上に立ち上がり、頬に手を添え本日二度目の軽やかなウィンク。

「死神№3260三郎です。愛と親しみを込めて、さぶちゃんって呼んでね。今後とも末永くよろしく!」

 クルリと一回転して、輝かしい笑顔と共にVサインを極めました。足場が不安定な場所でこのパーフォーマンス。凄いのでしょうが、今はその技量よりも着目すべき所があります。今、死神とおっしゃいました? 死神と? まさか、この人そっち系の人で? 「俺の右腕が疼くぜ!」とか「くっ、力が……抑えきれないっ」とか平然と口に出してしまうような人ですか?

「ちょい待って、自己紹介しているだけなのに、なーんで無言で後ろに下がんのかなー」

 無意識に後退りしていたようです。「怒っちゃうぞーぷんぷん」わざとらしく大げさに腕組みをしてムスッとした顔をしながら近づいてくる三郎さんに、二の腕にゾワリと鳥肌が立ちました。

 いまの、本気で、生理的に無理、受け付けない。

 取りあえず、早々に自己紹介を終えておきましょう。名前まで名乗りたくないので、苗字だけでいいですよね。

「城ヶ崎です。必要最低限のお付き合いを希望致します。あの、すみません。それ以上近づかないで下さい」

「え? ボクがかっこよすぎて、近くに居るのがツライ? もう、正直者だなぁー。うふふ、しかたないなぁーボクってば美形で美しいもんね。君も、そこそこ可愛いよ! でも、ごめん付き合えないなーほら、ボクみんなの三郎くんだから!」

 ダメだ。この人、日本語が通じない。

 この人と付き合いたいとは一ミクロンも思いませんが、私がフラれたかの様な言葉は、とても屈辱(くつじょく)的です。こんな人さん付けなんて必要ないですよね? 呼び捨てで行きましょう。

「君の気持に答えられないのは心苦しいけれど大丈夫! 君に似合った人がきっとあ――」


 ガァン


 酷く鈍い音が室内に響き渡りました。ペラペラと言葉を発していた口元を引きつらせ黙った三郎の視線の先には、元あった場所から少々――いえ大分ずれた所にある机と片足が不自然に上がった状態の玖珂さんがいました。

「話をしても」

「「どうぞ」」

 今まさに机を蹴り飛ばしたという体制のままの玖珂さんからの問いかけに、二人同時に首を縦に振りました。

「三郎、お前なん――」

「ひぃぃいぃ」

 今まで蹲ったままピクリとも動かなかった男性が玖珂さんの言葉を遮り奇声を上ながら顔を上げました。薄暗い室内に浮き上がるその表情は恐怖で染まっていました。違和感を感じて、ジッと男性の顔を凝視します。

はて、見覚えのある顔です。

「古沢さん?」

 蹲っていた男性は、つい数週間前、依頼人として〝リライト〟を訪れた古沢達三さんでした。彼は私の声が聞こえていないかのように窓際まで後退り、玖珂さんが蹴った机を凝視しています。

「……で…………くな……」

 ぶつぶつと何か呟く古沢さんは虚ろな目で何かを探す様に空中を彷徨わせており、とてもまともな状態には見えません。

「あの、救急車呼んだ方がいいのでは?」

「必要ない」

「そそっ、どうせ突然動いた机に驚いただけだって――気にしない気にしない」

 二人そろってそんな冷たい返答を。

「こんな状態の人をほっておくのは気が引けます私の良心が痛みます。もしもし古沢さん? 大丈夫ですか?」

「だーかーらーどうせ、あの男にはボク達の声も姿も見えていないし触れられないんだから心配するだけ無駄だって、ねっ」

 古沢さんの肩を叩こうと、伸ばしかけた私の手を掴んだ三郎はそのまま勢いよく古沢さんの肩ではなく腹部へと突っ込みました。

 本来なら、服の上でストップするはずの私と三郎の手は、そこに何も無いかのように、スムーズに肘辺りまで彼の腹部に吸い込まれていきました。

 人体を貫通(かんつう)する二本の腕。

「ひぃっ!」

 予想していなかったリアルホラー状態に、短い悲鳴が漏れます。

 ほら触れない、と得意げに笑う三郎に返事を返す余裕などありません。

「な、な、なにするんですか! 気持ちわるぅ」

「何って、実演(じつえん)。ザッキー全然、僕が言うこと信じてくれなかったしー」

「他の方法はなかったんですか! あと、触らないで下さい」

 掴まれていた手を振り払い、鳥肌のたった腕を擦ります。三郎をギロリと睨み付けますが、効果はゼロです。彼は悪びれることなく振り払われた手を流れるような動作で肩に回してきたので、今度は、遠慮なく強めに叩き落しました。

 本当にセクハラで訴えますよ。

「もう、我儘だなぁーそんなところも可愛いけど」

「我儘を言った覚えはありません。ごく一般的な意見だと思います。どんな仕掛けがあるかは知りませんが、ドッキリなら他の人でやってください! 私こういうの苦手で……ほら、見てくださいこの鳥肌!」

 沢山できた、ぶつぶつを御覧あれとばかりに、腕捲りをする私を、きょとんとした顔で見つめ首を傾げました。

「あれ? ひょっとして、玖珂くん何にも説明してないの?」

「実際に見た方が早いと思った」

 三郎と同じ方向に首を傾げ久我さんが言いました。

「してないのね?」

「実際に見た方が早いと思った」

「……少しも?」

「見た方が早いと思った」

 実に堂々とした受け答えでした。

「あぁ――うん、ごめんボクが悪かった。ちょー面倒臭がりの玖珂くんが、自分から説明とかするはずがないよねぇ。その程度予測しておかないと駄目だよねーふふふ」とありもしない己の非を三郎が認めてしまうほどには。

 三郎は、悪くないよ。と慰めて差し上げたいところですが、声をかけたが最後、二次災害的な何かが起こりそうな予感がするのでやめておきましょう。自分の身が一番大事です。

「三郎」

「なぁに、玖珂くん」

「後は任せた」

 つい数分前に自分が蹴り飛ばした机に腰掛けながら、三郎に向けてサムズアップを送る彼は、自分で説明する気は微塵の欠片もないようです。

 人はそれを職務(しょくむ)放棄(ほうき)と言います。

 必要なことは、きちんと事前に伝えて欲しかったです。報連相は大事なんですよ。突然に「後の事は、この人に一任するからよろしく」と言われたらどんな温厚な部下でも激怒すると思うのです。

「ザッキー」

 おいでおいで、と下駄を履いたまま床に胡坐をかいた少々お疲れ気味の三郎に手招きされました。彼の下駄をジッと見詰め一つ疑問がわきました。この家って土足厳禁ではないのでしょうか。

「はーやーくー」

すぐに行動しない私に痺れを切らした三郎が床を叩き傍に来るように催促しました。あまり近づきたくはありませんが、この不思議現象の種明かしをしてくれるようですから仕方ありません。少し距離を置き向かい合う形で床に腰を下ろします。

「では、玖珂くんに代わって三郎先生が講義を始めまーす。まず、どうしてアレに触れられなかったと思いますかー?」

 クイッと鼻先でメガネを持ち上げるようなジェスチャーをした三郎が、古沢さんを指差しながら尋ねました。

「手品ですよね」

 それ以外の理由を考えたくありません。

「ブッブー。ハズレー。残念でした」

 両手で大きくバッテンマークを作りながら馬鹿にしたように笑う彼にイラッとします。

「正解は、君らが今幽霊状態だからでーす。よく映画であるじゃん。幽霊は基本的にモノに触れませーん。つまり生きている人間にも触ることができませーん。だから今回生きているアレに君らは触れることができなかったのでーす」

「ゆうれい? なるほど?」

 幽霊とは、よく怪談で「うらめしや~」といいながら現れる死覇装を着ている夏の風物詩的な方々のことですよね。いったい、いつ死んだのでしょうか。自分が死んだ事にも気づけないとは、うっかり、うっかり、一生の不覚ですね。

 ――なんて、すんなりと受け入れると思ったら大間違いです。あまりにも突飛(とっぴ)な説明だったので脳が混乱して危うく納得してしまうところでした。

「そんな馬鹿な。さすがに死んだら自分でも分かりますよ。私死んでないですよ。生きていますから生者ですからね。不吉なこと言わないで下さい」

 ノンブレスで言い切りました。

 勝手に人を殺すなんて酷い人だと憤っていると、解っているから落ち着けというように三郎に頭を二度ポンポンと撫でられました。もちろん間髪入れずに払いのけます。

「いったっ。もう照れ隠しも程々にしないとモテないぞ! あぁ、うん、嘘ですごめんなさい。睨まないで下さい。あと、拳を下ろしてほしいなー」

 懲りずに額を小突こうとしたので、自己防衛のため無言で拳を振り上げたら素直に謝ってくれました。別に本気で物理攻撃を仕掛けようなんてこと思っていませんでしたよ。モテるとかモテないとか私全然興味ありませんし。モテないとかきにしてないし、彼氏とか必要に感じませんし……ほんと、これっぽっちも興味ありませんから。気にもとめていませんよ。あはははは。

「確かにザッキーは死んでいないよ。だから幽霊じゃなくてね幽霊みたいなものなんだって例えば――うん、あれだよ、あれ、心霊番組とか奇跡体験とかでよくあるでしょ? 幽体離脱! とか死後の世界から生還! ってやつ。それと似た様な状態だね今現在君らは、肉体なしの魂だけの状態なわけ。所謂(いわゆる)、霊体ってやつなの。だから人や物質には触れないの理解できた?」

「できません」

「……えぇー」

「今の説明で納得できる方が稀だと思いますよ」

「どのあたりが?」

「魂が人や物質に触れられないって言いましたよね」

「そうだよー」

「玖珂さん、先程おもいっきり机蹴っていましたよね」

「蹴ってたねぇー」

「玖珂さんも霊体なんですよね」

「うん、そーだよ」

「物質に触れていましたよね」

「触れてるねぇー」

「おかしくないですか?」

「あ――うん、どう説明すればいいかなぁ」

 疑問に思った所を追及していくと、三郎は人差し指で頬をかきながら「僕、頭あんまり良くないからなぁ」と困り顔で呟きました。

「ポルターガイストってあるじゃん?」

「物理的な原因がないのに物や家具が動いたり、音が鳴ったりする現象ですよね」

「そうそう、それも心霊現象――つまり霊が起こしたとされている。それと同じだよ!」

「はぁ」

 何がどう同じなのでしょう。

「てか、ザッキーこの部屋に入る時、玄関のドアすり抜けてたじゃん」

「え?」

「いや、え? って、もしかして無意識なの? 普通に突っ切ってたよ」

 まさかの新事実発覚。言われてみればドアを開けた記憶が……いやいやい、そんな、でもひょっとして……。

「だぁーっ、もう面倒臭いっ、久我くんくらいのレベルの魂は思いの力で結構なんでもできちゃうの! 理屈ない、感じるんだっ! てきな?」

 思考の迷路に迷い込んだ私に痺れを切らした三郎が拳を振り上げ高らかに叫びました。

そんな無茶な……と思いました。

「了解しました。感じればいいんですね」

「そう! こう心でガーッと、分かる?」

「はい」

「……本当に?」

「はい、バッチリです。ご説明ありがとうございました」

 嘘です。事実は全く理解できていませんが、これ以上聞いても埒が明かないと判断したので、話を打ち切ることにします。深々と頭を下げる私に訝しげな視線が向けられましたが、業務用の微笑みで華麗にかわします。

 久我くんクラスのレベルがとか、感じるんだ、といわれても何が? って感じですよね。これ理解できたら天才ですよ。

「ところで、先程から気になっていたのですが、ザッキーって何ですか」

「あっ、今聞くんだ。普通に返事してくれてたから気にならないのかと思ってたよ」

 私の問いかけに、三郎はきょとんと目を丸くし、不思議そうに首を傾げました。

「腕人体貫通事件の方が質問順位が上でしたので――、それで先ほどから気になっていいたのですがザッキーって何ですか」

「君のあだ名かわいいっしょ、城ヶ崎のザッキーってうぇっいっ」

 私を指差し得意げに話す三郎の人差し指をそっと握りしめ、ニッコリとお互いに微笑み合ったのち、勢いよく本来なら曲がる筈のない方向へ力を加え捻じ曲げて差し上げました。

「そのあだ名がかわいいかどうかは置いておいて、人を指差してはいけないと教わりませんでしたか?」

 意味をなさない言葉を発する三郎に首を傾げて尋ねます。

「すんませんっごめんって、謝るから、放してっ」

 必死に謝罪を繰り返すので、曲がる筈のない方向へ捻じ曲げていた手を放してあげました。

「まったく、ザッキーってば暴力的なんだから」

「……もう一度、指の柔軟体操しておきます?」

「や、大丈夫っす」

 手を差し出して意識して微笑むと、彼は青い顔をブンブンと首を勢いよく左右に振りました。失礼なそこまで怯えなくてもいいじゃないですか。

「ザッキーって呼ぶのはいいんだ」

「嫌だといったらやめてくれます?」

 三郎に問いかけると彼は「ヤダ」と真顔で即答しました。

「面倒臭くなりそうなので、諦めました。好きに呼んでください」

 私の答えに彼は、パッと表情を輝かせると「ザッキーザッキー」とあだ名を繰り返し何度も呼びました。そんなに嬉しいことでしょうか。

「ザッキーザッキーザッキッキー、ザッキーザッキーザッキッキー、ザッ」

「すみません不快ですので、連呼しないで下さい」

 何故かあだ名でリズムを取り歌い始めたので、わき腹を肘手一突きして強制終了させます。

 結構良い所に決まったらしく、三郎は「ゔっ」と低く唸り声を上げ、わき腹を両手で押さえながらよたよたと立ち上がり二、三歩後ろに後退し、そのままジリジリと玖珂さんの隣まで移動していきました。

「……ねぇ、君の後輩ちょーっと暴力的でない?」

「そうか、飯が美味いぞ」

「いやいや、飯の話しじゃなくて」

「特に、菓子が美味い」

「だから今、お菓子じゃなくて玖珂くんの後輩ちゃんの話してるんですけどぉー」

「焼き菓子が特に美味い」

「お菓子どうでもいいってばー」

「菓子は大事だぞ」

「いや、だからっ――玖珂くん、ワザと会話ずらしてなぁい」

 耳元付近で口元に手を添え、ごにょごにょと内緒話をしているつもりでしょうが、玖珂さんが音量を抑えることなく普通に話している上に室内は狭いので、まったく噛み合わないちぐはぐな会話はすべて私に筒抜けです。

 普段、美味しいともマズイとも言わない玖珂さんの思わぬ褒め言葉にカッと血が頭に上り顔が熱を持ちました。

 これは、嬉しいですが照れますね。

 パタパタと手で顔を仰いで籠った熱を冷まそうと頑張りますが、火照りは一向に収まりそうにありません。氷嚢(ひょうのう)が欲しい。


「……さて、話を戻すぞ」

 パンパンと手を叩き弛んだ空気を一掃した玖珂さんは、黒い鍵と金の鍵がついているネックレスから黒の鍵を外しながら口を開きました。

「三郎、お前何故ここにいる。しばらくこっちの仕事は入っていないはずだろう」

「あれっ、そうだっけ?おっかしーなぁースケジュール間違えちゃったかなぁ」

 後頭部をかきながら明後日へ視線を向ける三郎は、とてもわざとらしく演技下手でした。嘘が付けないタイプですね。

「……俺の仕事を邪魔するなよ」

「それは大丈夫。立場はわきまえてますって」

 ドンっと胸を拳で叩いて自信ありげに応じる三郎を半眼で睨む玖珂さん。

「もー信用ないなぁ」

「胸に手を当てて行動を振り返ってみろ」

「ふむ、――――うん、特に何も思い当たらないっすね」

 言われた通り胸に手を当て、瞳を閉じてから三十秒後、へらっと気の抜けた笑顔を浮かべながら三郎が、しれっと答えました。

「まぁまぁ、ボクに構わずお仕事して下さいな。ザッキーと一緒に見てるからさー」

「えっ」

 玖珂さんの仕事中、三郎と一緒に居なくてはならないですと。眉間にギュッと力が入り無意識に顰め面が出来上がります。

 嫌だ、と思いました。だってほら、三郎と二人って……ねぇ? とっても心労が溜まりそうじゃありませんか。

「そんな顔しないでよ。わかんないところは三郎お兄さんが説明してあげるから、じゃんじゃん質問してねっ! 僕先輩だから!」

「はぁ、どうも」

 何処かで聴いたことのあるセリフを言いながら、眉間をツンツンと突き、キラッと星でも出しそうなウィンクをする三郎から目を逸らします。なんて有難迷惑な気遣い、成人してますから別に一人で平気ですよ。と思いながらも返事を返します。

 巻きこまれるから、こっちにおいでと、座っている私の腕をグイグイ引き無理やり立ち上がらせ、部屋の隅っこへと移動させられました。

 巻きこまれるって何に? こんな狭い室内で暴れたりしませんよね?

 玖珂さんは、私達が隅っこへ移動したのを確認すると、ダンっと床を踏み鳴らしました。その音に反応してか古沢さんがさらに小さく縮こまりましたが、そんなものお構いなしです。彼はダンっともう一度床を踏み鳴らしました。

「迎えに来た。出てこい谷口」

 とても上から目線のお迎えです。玖珂さんもう少し腰を低く、下手に出ないと相手が怖がって出てきてくれないのではないでしょうか。

 呼びかけから十秒後、何の反応もないことを確認してから、彼は再度口を開きました。

谷口(たにぐち)沙織(さおり)、聞こえないのか」

 彼の言葉に答えるモノは、やはりありませんでした。薄暗い室内は静寂に包まれどんなに耳を澄ましても古沢さんの震える吐息以外、物音一つしません。

「ヤバイ! うけるっ」

 隣で三郎が肩を揺らし口元を押えながら笑っていました。

 確かに何もない空間に話しかける玖珂さんんの姿は酷く滑稽(こっけい)ではありますが大人しくしておかないと……。

「黙れ三郎。――いつまで隠れているつもりだ。俺は気が短い、さっさと出てこい。さもなくば強制的に引きずりだして地獄に落とすぞ」

 ほら、怒られた。

 僅か十秒で痺れを切らした玖珂さんの発する冷淡な声に反射的に身が竦みます。

 玖珂さんまで中二病みたいなことをおっしゃっている。

「あーあ、馬鹿だなぁ、素直に出てこればいいのに。玖珂くんガチギレじゃん」

「あの」

「なぁーに」

 胡坐をかいたまま器用に頬杖をつき、玖珂さんを傍観している三郎に話しかけると彼はコテンとそのまま首を傾げました。

「玖珂さん、一人で何をなさっておいででしょうか」

「あぁ、そっか何にも知らされてないんだっけ」

 一ミクロンも説明を受けていない私は、三郎の言葉に力強く頷きます。

「玖珂くんの仕事はさ、〝霊界の門番〟ってコッチでは呼ばれてる職業でね。その辺漂ってる浮遊霊とか、生きてる人間引きづり込もうとする地縛霊を門を開いてアッチに送るのが主なお仕事なんだけどさぁ。あ、さっきも言ったけどボクの職業は死神だよ! カッコイイでしょう!」

「はぁ」

「あと、アッチってあの世のことだからね」

「馬鹿じゃないので、それぐらい分かります」

 子供にでも言い聞かせるように話す三郎に、眉間に皺が寄り自然とキツイ言葉で返事を返します。そこまで理解力がないように見えますかそうですか。

「やっ、馬鹿にしてるつもりはないよ。一応、説明しとこみたいな感じだから」

「……すみません。続けてください」

「いえいえー、で普段の仕事とは別に霊界からの依頼があんの、恨みに捕らわれちゃって生きてる人間に憑りついて、アッチの世界に帰れなかったり、逆に生きている人間の念に捕らわれてアッチに帰れなかったり……。まぁ、色々なケースが沢山あるんだけどねー。今回は……」

「今回は何ですか」

「あー、うん玖珂くんが痺れ切らしちゃったみたい。実力行使にでるから、見てるといいよ。口で説明されるよりも断然理解しやすいしねー」

 そう言い彼が指差した先には、古沢さんの腹部あたりからピンク色の何かを引きずり出している玖珂さんが居ました。箱からテッシュを取る要領でズリズリと引きずり出されているその物体は必死に抵抗しているのか中々全て出てきません。

「何ですかアレ気持ち悪いんですけど」

「あっはー、君ってすごーい素直だねぇ。あれは谷口沙織だよ」

「アレが?」

 吃驚仰天です。半分ほど姿を現したピンク色の物体が玖珂さんが先程呼んでいた谷口沙織(仮)――まだ、本物かどうかわかりませんので(仮)を付けることにします――だとは……。彼女は狂ったようにスニーカーを履いた足をバタつかせ暴れていました。その暴れる足を要領よく捕らえ懐から取り出した太めの輪ゴムで手際よくまとめ上げ、大根や株を畑から引き抜くのと同じように両手で引っ張る玖珂さん。実にシュールな光景が目の前で繰り広げられています。

「そっ、アレが谷口沙織享年二十三歳、愛していた男との結婚を両親に認められず駆け落ちしたものの、その後旅行先の森で婚約者ともども遭難してポックリ逝っちゃった人で、現在生者に憑りついて悪霊化しかかっちゃってまーす。そして、彼女をあの世に連れて行くのが今回の玖珂くんのお仕事でーす」

「……それはまた、波瀾万丈人生を送っていらっしゃる。にしても、あの恰好……」

 四分の三ほど姿を現した谷口沙織(仮)をジッと見詰めます。

「なになに、質問?」

「いえ、そんな質問というものでは」

「えぇー、遠慮しないで、ほらほらぁ、お兄さんに聞いてごらんよ」

「幽霊って死覇装のイメージがあったもので、泥で汚れいていますけど随分現代的な服装だなぁと少し疑問に思っただけなですが」

 パッと表情を輝かせ、嬉しそうににじり寄ってくる三郎を腕で押しのけながら思ったことを口にすれば、彼はなるほどと頷く。

「あー、それはごもっともなご質問で……なんか死覇装のイメージ強いらしいけどさ、幽霊って結構な確率で死んだときの姿で現れることが多いんだよ。外見も死んだときのままの多いしぃ」

 あんな感じに、と三郎が掌でバスガイドのお姉さんのように掌で示した先には、所々破れ泥で汚れたピンクのウィンドブレイカー、ぼさぼさに乱れ、ぼたぼたと全身ありとあゆるところから水が滴るほどずぶ濡れ状態である髪の長い女性――古沢さんの腹部からいつの間にやら全身引きずり出された谷口沙織(仮)が床に腹ばい状態で倒れている姿がありました。

「うぅうぅぅうううううあぁあぁあ」

 腹ばいの状態からゆらりと立ち上がった彼女は、頭を抱えながら獣のような咆哮(ほうこう)を上げています。足を縛られたまま立ち上がるとは、見上げた根性をお持ちのようで。前方に垂れ下がった髪が邪魔で表情を窺い知ることはできませんでしたが、髪の隙間から理性の欠片も感じられないギラギラし鋭い目と目が合いました。

 大事な事なのでもう一度いいます。目が合いました。

 私、知っています。こういう場面によく似たホラー映画を。そして、この後の展開も予測できます。現場に居合わせた人達がみーんな呪われて奇怪現象に悩まされて最終的には御臨終(ごりんじゅう)なさるんですよ。

 死亡フラグ。人生終了のお知らせです。

「あぁあぁぁぁぁぁあぁ」

 髪を振り乱しながら到底人間とは思えない叫び声を上げ、鋭い眼光でこちらを睨みつけてくる谷口沙織(仮)

「ちょっ、あれ、あの人絶対いっちゃってますよっ! ダメな方にヤバイ方に危険な方にぃ!」

「そ~だねぇ、半分悪霊に足突っ込んじゃってるし危険だよねえぇえぇええぇぇぇ、あっ、やめっ、まっ、ちょ、首っ、締まってるからあぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 恐怖のあまり涙目になりながら三郎の胸ぐらを掴みあげ前後に激しく揺さぶりました。彼は必死に大声をだし首が閉まって苦しいことを訴えていたようですが、人はパニックに陥ると周囲の音が聞こえなくなったり見えなくなるものです。当然、彼の悲痛な叫びなどパニック状態である私の耳には届きませんでした。

「お前ら煩い」

 此方に向かってこようとしていた谷口沙織(仮)に躊躇いなく足払いし床に倒れこんだ所で、彼女の両手を足の時同様太めの輪ゴムで素早くまとめ上げ動きを封じた玖珂さんが、俺やりきった。といわんばかりに額の汗を豪快に腕で拭い、何処からともなく取り出したミニペットボトルのお茶をゴクリと飲みながら言いました。

 おかしい、なんであんなに落ち着いていられるんですか、この人。

 彼女の行動を封じてくれたことには感謝しますが、その後、放置はいただけません。ゆったりとした動作で机に腰を下ろし寛ぎ始めた玖珂さんに物申します。

「どうして、のんびりとお茶を飲んでいらっしゃるのでしょうか?」

「一仕事終えたから」

「終わっていませんよ! 全然終わっていませんよ! あれ、放置しないでください! 早く何とかしてください!」

「疲れた」

 手足をゴムで縛られた状態で、くねくねとまるで木につり下がり風に揺らされる蓑虫のように暴れる谷口沙織(仮)を指差し必至に訴えるも、彼はチラリと一瞥しただけで終わりました。

「大丈夫です。まだ頑張れるはずです。玖珂さんやればできる子ですから。お願いですからアレなんとかしてください!」

「……休憩中」

 重ねて訴えるも、プイッと顔を背けながら告げられた言葉に顔が引きつります。

 ここに私を連れてきた張本人だというに、玖珂さんに付いてこなければ今頃ゲームでラスボス倒して   ジュース片手にエンディングを優雅(ゆうが)に鑑賞していたはずなのに。

 おのれ、玖珂さんの鬼、悪魔、唯我独尊男、冷徹鉄仮面、甘党、綺麗好き、大食い、料理音痴……。

「……ざっきー」

 心の中で黙々と玖珂さんを罵っている途中、ふいに斜め下あたりから掠れた声で呼びかけられ、視線を手元に戻すと青白い顔で力なく項垂れている三郎と目が合いました。

そういえば、彼を解放した記憶がありません。どうやら胸ぐらを掴んだまま玖珂さんと会話していたようです。

無意識って恐ろしい。

「そろそろ、放してくれないと、ボク本気でヤバ……ヴッ」

「あっ、すみません」

 瀕死の状態での訴えに慌てて掴んでいた胸ぐらを放すと、彼は重力に逆らうことなく床へと落ちていきました。

 ゴンっと鈍い音が響きます。痛いと悲鳴を上げながらすぐに起き上ってくるだろうという予想に反し彼は倒れた体制のままピクリとも動きません。

「三郎?」

 心配になってきたので声をかけました――無反応です。

「さぶろうさーん」

 人差し指で恐る恐る無防備にさらされている脇腹を突きました――無反応です。

「さぶちゃーん」

 少し移動して、親指でぐりぐりと巷でお腹を下すと有名なツボ、旋毛を少しばかり力を込めて押しました――無反応です。

「惜しい人? を亡くしました」

 そっと目頭を押さえて呟くと、今までピクリとも反応しなかった三郎が勢いよく顔を上げマシンガンのように話し出しました。

「やめてっ、勝手に殺さないで! 下痢になるツボ押さないで! なんで惜しい人の所で疑問形にしたのさ! もっと心配してよ! 縋りついて涙をながすぐらい心配してよ! 三郎くんは、今現在進行形で優しさが不足してるんだよ! とーっても愛に飢えてるんだよぉぉぉぉぉ!」

 俯せの状態で床を拳で叩き付け咽び泣く成人男性は、直視できるものではありません。そっと視線を逸らします。

「なんで視線逸らすのっ! ママはそんな冷たい子に育てた覚えないわよっ」

 何故(なにゆえ)、女言葉?

 膝を斜めに崩し女の子座りの状態で、キーっとハンカチを噛む真似をしている三郎に、冷めた目を向けてしまうのは仕方がないことだと思います。

「奇遇ですね。私も三郎から生まれた覚えも育てられた覚えはとんとありませんよ」

 そもそも、彼とは本日が初対面です。

「もー、ノリ悪いっすよ。そこは『ごめんなさいお母様っ! 私が間違っていました! これからは心を入れ替えて生きていきますわ!』ぐらい言ってくれなきゃ」

「イヤです」

 両手でバツ印を作り、激しく顔を横に振り全力で拒否。

「え~」

 両頬に空気を入れハムスターのように膨らませ、分かりやすく怒っていますアピールをする三郎。その行動、成人男性がやると気持ち悪いだけのはずなんですけどね、顔が整っているから似合っています違和感ゼロ。何となく腹が立ったので旋毛をもう一度押してやろうと思ったその時でした。


 ブチッ


 何かが千切れる音が聞こえました。

 とても不吉な予感です。

 横目で二人の様子を伺います。

 玖珂さんは、通常道理無表情でした。

 三郎は「あっちゃー、やっちまったぜっ、まいったねこりゃ」とでも言いたそうな微妙な表情でした。

 背後で、ベチャリ、ズルリと何か湿った物が床を這いずる音がしました。

 現在この部屋で物音をたてられるのは、玖珂さん、三郎、古沢さん、私、谷口沙織(仮)の五人ですが、卓袱台(ちゃぶだい)に腰掛け寛いでいた玖珂さん、そして床に女の子座りをしている三郎、そして私も動いていないので除外。古沢さんは相変わらず窓際で放心状態なので彼も除外。残るは、谷口沙織(仮)ただ一人。

「ボクは、振り返らない方がいいと思うなぁー」

 私の両頬を両手挟み固定したまま三郎が言いました。

 怖いモノ見たさで振り返ろうとしていたことはお見通しだったようです。

「あの」

「んー、なぁに?」

「すごく嫌な感じがします」

「大丈夫、大丈夫、たいしたことないよ。怒りに我を忘れた獣を押えてた首輪が壊れちゃっただけだから」

 あはは、と軽く笑う三郎の言葉に私の脳内で連想ゲームのような図式が浮かび上がりました。

 内容は以下の通りです。



 怒り狂った獣=谷口沙織(仮)

 谷口沙織(仮)=黒髪幽霊

 黒髪幽霊=目がイッてしまっている色々ヤバイ人

 首輪が壊れた=両手両足を拘束していた太目の輪ゴムが切れた=目がイッてしまっている色々ヤバイ人が自由の身になった



 さて、ここで問題です。

 怒り狂った獣の拘束器具が解かれ自由の身となった場合、その獣はどのような行動をとるでしょう。

 答えは簡単「近場にいる人間を襲う」です。怒り狂った獣は大変危険です。皆さん近づかないようにしましょう。……なんて、呑気に解説している場合ではありません。

「三郎のアホっ! それって全然全くこれっぽっちも大丈夫じゃないじゃないですか」

「大丈夫だってば、まだ足の拘束は解かれてないから、腕で這いずってこっちに来ようとしてるだけだから心配はいらないぞ」

「絶対嘘です!」

 そんな言葉で安心できるか。


 

 ところで皆様ご存じでしょうか。森でクマに出会った時の対処法。

まず、なによりも落ち着くことがとても大切です。冷静な判断をできなければ死亡率が格段に上がります。また、クマは素早く動くものに反応する習性をもっているので背を向け走って逃げたりすると、追いかけてくる可能性大です。最大時速六十㎞ともいわれているクマに追いかけられたら人は、一溜りもありません背を向けた瞬間九割の確率でジ・エンドです。もしも出会ってしまったら、クマから目を離さずに静かにゆっくりとその場を離れましょう。万が一、熊が近づいてくるようであればクマ撃退スプレーを噴射すると効果的。だそうですよ。

 それを初めて知った時クマを目の前に冷静な対応とか絶対無理でしょう。クマ撃退スプレーって一般人絶対持ってないから。どこで使うの、その知識……とか思っていました。でも、考え方改めます。そうですよね、人生何時何処で何が起こるかなんて誰にも予測できませんよね。山々の開発事業が進む現代、餌を求め人里へと降りてきたクマと突如遭遇することだってありますよね。

 謝りましょう。

 すみません、ごめんなさい、心の底から反省します。

 ですから、対『(くま)遭遇(そうぐう)対処法(たいしょほう)』ではなく対『精神レッドゾーン突入(とつにゅう)状態(じょうたい)危険(きけん)幽霊(ゆうれい)遭遇(そうぐう)()有効(ゆうこう)撃退法(げきたいほう)』を教えてください。

 実践しますから。

 今、すぐに。

「おのれぇえぇぇええぇぇええ、あのひとをかえせぇえぇぇぇぇ」

 ボロボロの衣服、ボサボサの髪、全体的に腐りかけている皮膚。顔の右半分は大きく皮膚が抉られ本来目があるべき所は陥没し奥には闇が広がり、残っている左目は血走り此方を鋭く睨み付けています。おかしな方向へ折れ曲がっている右足ではバランスがとりにくいのかゆっくりと、辺りを水で濡らしながら此方に向かって近づいてくるそのさまは、某ホラー映画とかゲームに出てくるゾンビのよう。

 素早く玖珂さんの後ろに隠れ彼女を視界に入れないようにします。

 私ホラーは苦手なんですってば。

 足の拘束? そんなものとっくの昔に引き千切られましたよ。

「……あのですねぇ、あの人って誰のことですか」

「おまえのせぇでぇぇぇゆるさないぃころしぃてやぁるうぅうううう」

 勇気を振り絞った質問を無視された上に、まったく身に覚えがないのに殺してやる発言頂きました。免罪です。無実です。訴えたら完全勝利です。

「いやいやいや、私、貴方と初対面ですからね!絶対人違いですからっ」

 机に腰を下ろし足を組んだ状態のまま微動だにしない玖珂さんの背後から、谷口沙織(仮)に対して全力で叫びました。すると今まで、石像のように固まっていた玖珂さんが眉間に皺を寄せて耳を塞ぎました。そうとう煩かったようです。

 耳元で叫んでごめんなさい。でも非常事態なので許して下さいね。

 玖珂さんの鼓膜へのダメージは効果抜群だった私の叫びは、肝心の彼女に対しての効果はいま一つだったようで「ころすころすころすころすころす」と物騒な言葉をエンドレス。

 唯一の救いは彼女の移動スピードがありえないほど鈍足な所です。ナメクジといい勝負できる感じです。数センチ進んではバランスを立て直すために数分間要しているのが主な原因だと思われます。

「うぅうぅうぅぅぅおまぇのせぃでぇ」

 だから人違いだって言っているではありませんか。聞いてくださいよ。腐りかけ取れ欠けギリギリ顔側面にへばり付いて頑張っている可哀想なその耳で。

 ツンツンと肩を突かれ、顔を上げると、

「これまた、ずいぶんとまぁ恨まれちゃっていますなぁー。なぁに、あの人の恋人奪っちゃったりしたの? うふふ、痴情の縺れ? 泥沼ずぶずぶ?」

「しませんから! 濡れ衣です! 完全なるとばっちりですよ!」

 口角をキュッと引き上げ「以外に悪女?」それはもう実に面白そうに笑いながら言われた三郎の言葉に対し ぶんぶんと首を激しく横に振りながら否定します。

 人様の恋人に惚れた上に奪う? ないです、ないです。そんな精神に負担がかかりそうなことを面倒事大嫌いな私が自発的に行うとか、ありえません。

「だよねー知ってた。そんな度胸なさそうだしねぇ。まぁ、理性の理の字も見当たらない、感情だけで動いてる悪霊擬き相手には話し合いで平和的に解決しましょう。なーんて、方法通じるわけなし、今はアノ男の肉体から引きづり出されたばかりだし、玖珂くんと挌闘して体力消耗してるから動き鈍いけどそのうち速くなるよ? なんか知らないけど恨まれてるっぽいしーザッキーなんてすぐ捕まえられちゃうよ。どうする?」

 なんですと。

 確かに、改めてジックリ谷口沙織(仮)を観察してみると三郎の言うとおり、ナメクジと同等だったスピードが芋虫レベルになっているような。あれ、本当に少しずつ速度上がっている?

「玖珂さん、玖珂さん、貴方が引きずり出したのですから動きが鈍いうちに何とかしてください。貴方の仕事ですよね?」

 藁にもすがる思いで玖珂さんのシャツの裾を引っ張ると、彼は「えー」と酷く面倒臭そうな返事をくださいました。

 …………私が「えー」と言いたいですよ。


 キュルルルーギューグルルルルル


 何とも気の抜ける音が室内に響き渡りました。

「……はら……へった」

 キァルキュルと切なげな悲鳴を上げ続ける腹を擦りながらボソリと彼は呟きました。

 あぁ、音の発信源玖珂さんのお腹でしたか。

 右手を私に向かって差し出した彼は無表情のまま「オヤツ」の一言。

 そんな無茶な。いきなりここに連れてこられたのにどうして私がオヤツを持っていると思うのか。

 どんな時でもぶれることのないその姿勢に感服――している場合ではありません。

「……現状を打破してくれるのであれば帰ってからなんだって作って差し上げるのですがね」

「なんでもっ」

 ぼそり、と呟いたその言葉に思いのほか玖珂さんが素早い反応を示しました。

 食いしん坊か。

「はい、何でも作りますよ! リクエスト限定受付中です!」

 この気を逃がす訳にはいきません。たたみかけるように言葉を紡ぎます。

 玖珂さんは「何でも、リクエスト、期間限定」と下を向いて呟いたあと、勢いよく顔を上げるとビシッと指をさして普段よりも二割増しキリッとした声を上げました。

「三郎」

「はいなl」

「取り押さえろ」

「あいさー」

 一瞬の出来事でした。玖珂さんの命令に軽いノリで敬礼を返した三郎の姿に、ノイズがはしり煙の様に消えると次の瞬間、彼は谷口沙織(仮)を捕獲した状態でにこやかに笑い「任務完了」と言いながら私達に向かって手を振っていました。

 敬礼から捕獲までに掛かった時間、なんと僅か2秒。人間業ではありません。

「ザッキー、どうだった僕の活躍! すごいっしょ? ちょーすごいっしょ!」

「そうですね。すごかったですよ」

 無邪気に話かけてくる三郎に引きつった笑顔を浮かべながら手を振りかえします。

 ……あぁ、そういえば彼、自称死神でしたね。人外が人間を超越した行動をしても何もおかしくありません。うん、おかしくない、おかしくない。普通、普通。

 自分自身に暗示をかけていると、手首を掴まれました。

「なんでしょうか。玖珂さん」

「餃子沢山チャーハン特盛サバラン沢山ヨーグルトムースケーキワンホール」

「はい、はーいっ! 僕も、僕も! ザッキー僕も餃子食べたーい、あと卵スープ欲しいなぁ!」

「はいはい、作りますよ。作りますから、ソレちゃんと何とかしてくださいね」

 瞳の奥をキラキラと期待に輝かせながら食べたいものを、つらつらとあげていく玖珂さんに便乗して追加注文をする三郎に了承の返事をします。

 なにやら、意外なほどあっさり事が進んでゆきます。先程までの私の頑張りはいったいなんだったのでしょうか。

 次からは、この手を使おう。と思いました。

 谷口沙織(仮)を捕獲したまま「餃子楽しみだなぁー」とはしゃぐ三郎と机に腰掛けボーっとしている玖珂さんを見て、ふと気づいたことが一つ。

 玖珂さん貴方、命令しかしていないじゃないですか、ほぼ三郎に丸投げって、そんな馬鹿な。

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