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目覚めた彼女の目に最初に飛び込んだのはどこか見覚えのある、落ち着いた雰囲気の部屋だった。寝起きのせいか体を起こした少女は暫くの間、呆けたように動かずにいたかと思うと、突如ハッとしたようにベッドから飛び起きて周囲を見回した。
そうして自分の荷物にも、手元のお金にも目をくれず、探している姿がない事に目を見開いて、部屋を飛び出した。外に出て廊下をみれば、そこがつい先日宿泊した宿屋である事をすぐに思い出したが、そんなことはどうでもよかった。
けだるい体に鞭を打つようにソフィはもどかしく思いながら足を動かし、階下へと駆け下りる。
ちょうど人の少ない時間なのか、階下の食堂には太陽も高い時間から酔いつぶれた冒険者が数人と女主人のマギーの姿だけがあった。
息を荒げ、髪を振り乱し、きょろきょろと辺りを見回すソフィの姿を見つけたマギーはぎょっとしながら、皿洗いの手を止めて、彼女の元へと向かっていく。
「なんだいなんだい、慌てた様子で。というか、あんたもう起きて大丈夫なのかい?」
「あの、レスティは!?」
マギーの続く言葉を遮るように、焦りの色が濃く見える様子でソフィは聞いた。その剣幕に、争い事に場慣れした宿屋の女将もさすがに驚いた様子で、目を丸くしながら答える。
「あぁ、あの子なら――」
答えようとした矢先、宿屋の扉が軽い音を立てながら開く。
「おばさん、肉屋は明日お休みだから追加注文があったら夜までに手配して欲しいって……」
両手でようやく抱えられる位の紙袋を手に、頭からすっぽりと外套を被ったレスティが帰ってきたところだった。
「おばさんじゃなくて女将かマギーさんと呼べと言ってるでしょ。そんなことより、起きたわよ彼女」
マギーが悪態をつきながら親指でクイっとソフィの事を指す、レスティはそちらに視線をやって、驚いた顔のソフィを見てフンッと鼻を一つ鳴らしたかと思うと、何もいわずマギーに紙袋とおつりを手渡して、軽く世間話などとしていた。
「ど、どうして……」
ソフィの率直な、しかし、色々な意味の込められたその言葉。
聞きたい事が多すぎてとてもまとめきれず、その一言しか発することが出来ず、結局何も聞けていないのと変わらない。それでもソフィは二の句を告げず、呆然とレスティの事を見つめていた。
レスティはマギーとの会話を切り上げると、ソフィの方を向いて、ため息を一つ吐いて、いう。
「とりあえず、着替えたら?」
指摘されてソフィは始めて、自分が肌着しか身につけていないことに気付くと、駆け下りてきたときと同じように部屋へと大急ぎで帰っていった。
「それで、いったいどうなっているんですか?」
「何が?」
部屋に戻った二人はそれぞれのベッドの上に腰掛けて向かい合っていた。ソフィの方は着替えを済ませ、鎧以外は普段どおりの服装である。胸当てをつけていない彼女の体はレスティのそれと違い、それなりに肉付きがいいようだ。
対して、ソフィに買い与えられたはずの服を着ていないレスティは、外套だけを羽織るみすぼらしい貧相な格好へと逆戻りしてしまっていて、それもまたソフィの疑問の内の一つであったのだが、それよりも聞きたい事はいくらでもあった。
「そうですね、順を追って聞いていきます。僕の意識が途切れたあと、どうなったんですか?」
「どうもこうも、予定通り私があの魔物を倒して、そのまま貴方を担いで帰って、他に頼れそうな人もいなかったからここに来たってわけ。事情話したらおばさんがお金は後でいいって」
反射的に、ソフィは、最も聞きたい事を聞こうとして、その言葉を飲み込んだ。今は感情の話よりも、自分が寝ている間に何がおきたのか、それを把握する事のほうが先決だと、そう思ったからだ。
「僕はどれくらい寝ていたんですか?」
「丸々二日。そういえば、体の方は大丈夫なの?」
問われてソフィは、軽く拳を握り、開き。少しからだのダルさと空腹を感じるものの、特におかしな所がないのを確認すると頷いてかえす。
「えぇ、特に異常はないですね」
「そう、ま、なんにしろ体力は多少おちてるだろうし、暫く安静にしたほうがいいんじゃない?」
レスティの言葉に少し答えを返すの渋るような素振りをみせながらソフィはかすかに頷く。
「とりあえずなんとなく事情は察しました。マギーさんには改めて御礼を言っておかないと」
「そうね、あの人じゃなかったら私の話なんて聞いてくれなかっただろうし」
少しだけ嬉しそうにそういうレスティの顔に、ソフィもまた心が温かくなるような、嬉しさを感じていた。
「最後にもう一ついいですか?」
「何?」
ソフィはどうしても聞きたくて仕方がない事を聞くべきか迷っていた。
それを聞くのはなんだか、とても恥ずかしいような、お互いにとってよろしくないような、そんな気持ちがあった。けれど聞かずにはいられない。だから、躊躇いながらも、おずおずとその疑問を口に出す。
「どうして、僕を置いて、最悪殺して全て奪っていく事も出来たのにそうしなかったんですか?」
問われて、レスティは苦虫を噛み潰したような顔で自らの耳を撫でるような仕草を取る。
顔つきは先ほどまではわかりやすいほどに変わっていて、やはり聞いてはいけないことだっただろうかとソフィは後悔しながらも、レスティの言葉をゆっくりと、待った。
「別に、服や鎧だけじゃなくて、食べ物も散々世話になって、恩を仇で返すような事をしたくなかった、それだけよ」
レスティはいいながら、自分でしきりに頷くような、そんな態度を見せていた。
それが本心なのか、それとも他に何か意図があるのかソフィにはわからなかったが、ただ一つ言える事が確かにあった。
「僕は貴方と出会えて本当によかったと思います」
臆面もなくそう言葉にするソフィに、レスティは目をむいてぎょっとしながら少しだけ頬を染めて恥ずかしそうにしている。
「なにかしこまってるのよいきなり。あんたが無理やり誘ったんでしょ」
「ですが貴方は逃げずに残ってくれた。僕はそのことが嬉しい」
ソフィはそこで言葉を区切り、レスティの顔をジッと見つめる。
レスティはレスティで、なぜだか顔が熱くなるのを感じて、目を逸らす。
「やはり僕はレスティ、君に、僕の剣になって欲しい。駄目、だろうか?」
差し出されたソフィの手をレスティは、頬を染めながらみつめた。
「後悔しても、しらないけど……」
「後悔なんてしないさ」
レスティは差し出された手に手を伸ばそうとして、それからすぐに引っ込めてしまった。
「もう少しだけ考えさせて」
そう言うとベッドから立ち上がって困ったように頬をかくソフィの顔を見ないように目をそらしてから言葉を続けた。
「お腹すいてるんでしょ? おばさんに何か作ってきてもらう」
それだけ言い残すと、早足でレスティは部屋を出て行ってしまう。
殆ど心は決まっていても長く人と触れ合わなかったせいか、気恥ずかしさや照れといったものが彼女に素直な返事をさせなかった。
ソフィはそんなレスティのいなくなった部屋を見回して軽くため息を吐いた。
ソフィが荷物を整理して階下に下りると時刻は既に夕刻に近く、食堂には一日の仕事を終えた商人や冒険者達の喧騒で大いに賑わっていた。周囲を見回してみて、レスティの姿がないのに首をかしげながらソフィはカウンター席へとつく。
「もう大丈夫なのかい? まったく若いのに無茶して死にいそいじゃだめじゃないの。よっぽどの事情があるっていったって死んだら元も子もないんだから。命あってのものだねってやつだよ。冒険者が迷宮で一番に優先すべきものは金よりも命さ、例え入場料が賄えないほど不作な日でも決して無理はしちゃ行けないのさ」
ソフィが席についたところで、カウンター越しにやってきたマギーがそんな説教を流暢に語り始める。唐突な事に面食らいながらもソフィは律儀にその言葉を聞いてかみ締めていく。
ソフィは自分に力がないことは重々承知している。
「肝に銘じておきます」
「今回はあの子に運良く助けられたみたいでよかったね、いい相方をみつけたよあんたは。運だけは本当にいいんじゃないかい? 冒険者としては、類稀なる才能だよそれは。ただ過信しちゃぁいけないよ。本来頼るべきは、自分の腕と仲間への信頼さ」
マギーの言葉を神妙な面持ちで聞いていたソフィは、少しだけ苦い顔をして落ち込んでいる。そんな彼女の方をマギーは軽く陽気に叩いてみせる。
「ほらほらしょげてないで、反省して、あとは次に繋げればいいのさ。そのためにもほら、食べるんだよ、たくさん食べて体力をつけて、元気をださないとね。気分が沈んだまま迷宮なんかに潜っちまったら、陰気に飲まれて参っちまうってもんだよ」
言うが早いか、あらかじめ用意されていたらしい大皿の料理がこれでもか、とソフィの前にドンドンと並べられていく。その量は尋常ではないくらいの山盛りで到底一人では食べきれないような、とてつもない量であった。
「まだ、注文した覚えはないのですが……」
「あの子があんたが降りてきてやったら料理を出してやってほしいって、先に注文しといたんだよ。丸々二日何もくってないんだ、これくらい全部胃にはいるだろ?」
苦笑しながら、頬をかいてごまかしながら、ソフィは聞く。
「そういえば、レスティはどこに?」
「洗濯物の取り込みを頼んでるのさ。あの子はホンと素直になんでもやってくれて冒険者にしとくのはもったいないね。体力もあるし、うちの店の男集よりもよっぽど使い物になるよ」
マギーの大きな声に、厨房の方からドッと笑いが漏れ聞こえる。そんな光景にソフィは不思議に思いながら、料理に手を付け始める、
マギーはゆっくりと食事を始めたソフィの様子を満足気にニコニコと眺めている。
そんなソフィの嬉しそうな顔を逆にソフィもまたチラと見つめかえし、疑問に思っている事を素直に聞くことにした。
「この宿の人達は、半魔に偏見がないのですか?」
食事の手を止めて、レスティは少しだけ躊躇うように、ゆっくりとその質問を投げかける。
本来なら半魔は国の取り決めによって、人としての扱いを受けていない。人並みに働いているものも、ごく稀に存在するがその殆どは魔物と大差ない下等で、邪悪で、危険な種族だと、認識されている。だから半魔の殆どは、迫害を受け暴力をうけ、時に使い潰しの奴隷とされ、見世物にされ、不吉な、腫れ物のように扱われることが大半だ。
「あんたはまぁ倒れてたから知ってるわけないんだがね……」
マギーはそこで一度言葉を切ると、ふっと視線を食堂の入り口、大きな両開きのドアを見つめながら続ける。
「あんた達が出ていった日の、もう陽も落ちて真っ暗になった頃さ、あんた達が戻ってこないもんだから、あたしゃぁ、やっぱり無理にでも止めるべきだったんじゃないかって少し後悔し始めてたんだよ。一度顔をあわせただけの一見の客だろうとね、死んだとあっちゃ、やっぱりいい気はしないからね。
そんな風に思ってた所であの扉が勢いよく開いたわけさ」
ソフィはその時の情景を想像するように振り替える。
きっと今と同じように、たくさんの人達がこうして、各々食事をしながら盛り上がっていた時の事だろう。
「血まみれの服で、あんたを背負ったあの子が、頭の耳を隠すのも忘れて、息を荒げながら入ってきたんだよ。店中そりゃギョッとしたね。そんな全員の視線を受けながらあの子は頭を下げた言ったのさ、どうか助けて欲しいって、金はどんな事をしてでも払う、ただ働きでもいいから、医者を呼んでくれ、ここしか頼れるところをしらないからってね。そっから店中てんやわんやさ。何事かと乗り出す奴もいれば、面倒事はごめんだと逃げ出す奴もいたし、医者を呼びにいったやつもいたよ。
長年ここで店をやってるがね、あんな必死な様子は、馬鹿みたいな額の借金つくって迷宮行かざるを得なくなった切羽詰った冒険者でも見た事がなかったね。だって、半魔が自分の正体も隠すのも忘れてこんな人の多い所に来るんだ、そりゃ一大事だってすぐにわかったよ」
「てっきり殺人事件にでも巻き込まれたのかと思ったぜ」
「乱闘騒ぎとかな」
「中には悪魔召喚の儀式だ、なんていう奴もいたぜ」
ちょうどその時、その場に居合わせていたらしい周囲の客達が口々にそう言って、当時を思い出すように大笑いする。よほどその場は混乱していたらしい。
「そんでもって、医者がやってきて診断を下してみたら、眠ってるだけだってきたもんだからね、そりゃ笑い話にもなるさ。もしウチの店の奴が倒れて医者を呼んできたら寝てるだけ、なんていわれたら、あたしゃ怒り狂って叩き起こしちまうだろうね。
だけどあの子は、素直に、よかったって、それだけ言ったのさ。それで、信用してみようと思ったのさあの子の事を。今時、追いはぎみたいな真似をしてる冒険者だっているって言うのに、よっぽど人より人らしいあの子の行動に、絆されちまったんだろうね。結局人でも半魔でも、そいつしだいって事だよ」
「そんなことが……」
ソフィは目を伏せて呟くと、薄く笑みを浮かべた。
「あの子のこと大事にしてやんなよ。きっと、あんたにとってかけがえのない子になる。もしないがしろにするようなら、うちの店員にしちまうからね」
「そうならないように、がんばります」
笑いながら返すソフィが食事を再開すると、ちょうど裏口から、レスティが帰ってきた所だった。マギーと事務的なやり取りをかわすと、マギーの方はウィンクをソフィへと残して、カウンターの奥、厨房の方へとむかっていった。レスティの方は、まっすぐにソフィの方へとやってきてその隣に腰掛けた。
「疲れた、人使いあらいったらないわこの店」
「お疲れ様、随分気に入られたみたいだね」
「いい迷惑よ」
ため息を吐きながらやれやれといった感じで両手を挙げてみせるレスティだったか、その表情は迷惑といった感情など微塵も感じさせない、むしろ嬉しそうに微笑んでいた。
「あんまり食べてないのね、食欲がないなら私が食べちゃうけど」
テーブルの上のまだ随分と量が残っている皿を眺めてレスティがそういう。もともとそれほど食が太いわけでもなく、ソフィ一人ではとても食べ切れない量だ。
「遠慮なく食べるといい。僕一人じゃとても食べきれないから」
そう言って頷くと、レスティは言葉どおり、遠慮などする気もなく、豪快に料理を食べ始める。その様子に、周りの客も、きもちいい食べっぷりだと、賞賛を送り、自分達もと酒や料理を追加で注文して行く。その気持ちもわからないでもないくらいに、本当に美味しそうにレスティはご飯を食べる。
ソフィもそんな様子に感化されるかのように、食事に手を付ける。
珍しくその日、ソフィは少し苦しくなるくらいまでご飯を食べ過ぎてしまった。
マギーの手伝いを終えたレスティが部屋に戻る頃にはもうすっかり辺りは暗くなっていて、部屋の中をランプのゆったりとした柔らかい光が満たしていた。その部屋の中、テーブルに向かって座っていたソフィがレスティが戻ってきた事に気付いて顔を上げた。
「おかえり、遅かったね?」
「ちょっと厨房の手伝いにはいってから、これ、もらってきたけど、飲む?」
そういって彼女がかるく掲げて見せたのは、湯気の立ち上るホットミルクの入ったコップだった。先ほどまでの厨房の手伝いの駄賃として二人分マギーがくれたのだ。
「ホットミルクか、いただくよ」
ソフィはありがとうと返しながら、それを受け取る。レスティはもう片方のコップに早速口を付けながら向かいの席に座った。
「甘い……」
驚いたようにレスティがそう呟いたのを見てソフィもまだ暖かいそれを口に含んだ。
「蜂蜜入りなんて贅沢だね。甘いのは嫌い?」
「うぅん、美味しい」
取られるのを警戒するかの用にさっとコップを胸元に抱くようにしたレスティの仕草にソフィは苦笑する。暫くの間レスティはコップの中のその液体をまじまじと見つめながらゆっくりゆっくりと飲み干して、最後の一口を飲みおえると、名残惜しそうに空っぽになったそれを見つめてからコップを静かに置いた。
そうして、ふとテーブルの上に置かれた紙とペンの存在に気付く。
「何かしてたの?」
「ちょっと書きものをね」
ソフィはコップを置きながら、再びペンを手に取るとインクを付け、紙面に軽くペンを走らせて行く。流暢なその動きとまるで綺麗な模様のような文字にレスティは感心をするものの、その内容はやはり読めない。
「これ、何を書いているの?」
ペンの動きから目を離さないまま問うレスティと同じように、ソフィもまたペンを走らせる手は止めず、少しだけ考えるように間をおいてから言葉を返す。
「詩だよ、ちょっとした曲も付けて披露できるような、冒険譚を書いているんだ」
「へぇ、そんなに簡単に書けるものなの?」
素直に感心したようにレスティは声を上げた。
彼女も詩曲くらいは聞いた事がある。なんせ流れの吟遊詩人の詩であれば、いくら聞いてもお金は減らない。
周りの人達がわざわざおひねりを投げるのを見て、不思議に思うこともあったが、確かに彼らの歌う英雄譚や過去にあったとされる悲恋の詩などは聞いていて、素直に面白いとおもえた。
自分とは住む世界の違うその詩の世界を夢想した事もある。
「僕はあった出来事を綴るだけだからね、完全に創作の英雄譚を書くわけじゃないし大した労力でもないよ。それに楽しいしね」
そう言って笑うソフィの顔は本当に心底楽しそうで、そんな表情にレスティはなぜだか頬が熱くなるのを感じた。つられて自らも笑みを浮かべてしまいそうになるそんな笑みからレスティは慌てるように視線を外す。
「そ、そう? まぁ、病み上がりなんだから、適当なところで切り上げて寝たほうがいいと、思う」
「そうだね、きりのいい所まで書いたらそうしよう」
顔を上げて答えながらもレスティの手は止まらない。あふれ出る物語を止められない、とでもいうかのようにソフィはひたすらに文字を書き連ねていく。
レスティもまた飽くこともなくその様子をただジッと目で追っていた。
結局ソフィが全てを書き終えるまで二人が眠る事はなかった。