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ぼんやりとする意識の中、レスティは目を開いた。
いつの間に気を失っていたのか彼女には覚えはなかったが、右足に上手く力が入らないことに気付いて、すぐに自らが置かれた状況を思い出した。
あわててその足を見れば、傷はまだ治ってはいないようで、妙な熱と痺れる様な感覚だけがある、意識も半ばぼんやりとしていて、熱にうかされているようだ。
それでも――戦わなければ、と頭の中に言葉が浮かぶ。
はっきりとしないぼやけた視界、薄暗いさなかにレスティはソフィの姿をみつけた。
唇をかみ締め、綺麗だった服は汚れ、手足の所々から血が流れているのも見て取れる、千切れた衣服から覗く肌には裂傷と鞭でうたれたかのような痣。痛々しくて、目を背けてしまいたくなるような彼女の有様。
それでもソフィは退くことはなく、レスティと魔物の間に立って無様に、不恰好に必死に戦っていた。
戦いともいえない様な一方的な魔物の攻撃の数々を避けきれず、防ぎきれずその体に無数の傷を増やしていく。触手でうたれ、粘液から射出される小石に肌を裂かれ、それでも止まらず必死に食いついて、ソフィは戦う。
(なんで……)
レスティは疑問に思う。
(なんでこの人は、こんなに必死に戦っているのだろう……)
レスティを餌に逃げてしまえば、運がよければ逃げられただろう。
地上に出るまで魔物に会う危険性もゼロでないにしても、ここであの魔物を相手に戦うよりはよっぽどましな筈だ。もしかしたら通りかかった他の冒険者に助けて貰うことも出来たはずなのに。
彼女に何の力もなく、ただの一般人と変わらない戦闘能力しかないのは、見ていれば嫌でも分かる。
それでも彼女は戦っている。
そんなソフィの姿を見ていると、レスティの胸の奥に、ふつふつと、湧きあがるものがあった。
それは今まで一度として感じたことのない感情で、どこか苛立ちにも似て、力が体の奥底から溢れてくるような、熱い衝動を伴っていた。
(なんだって、いい……)
激情の正体はまったく分からない、ただ目の前で戦うソフィの姿をとても見ていられない、そんな気分。その気持ちが募るにつれて、体中に力が溢れていくのが分かる。
(戦える力があるのなら、それで、いい……!)
ゆらり、と、体を揺らしながらレスティはゆっくりと立ち上がった。
足の傷はいつの間にか完治し、色身を失っていた膝から下も元通りの血色になっている。
魔物が体の内部を波打たせ、ソフィの頭を狙い小石を射出しようとしているのが分かる、短剣を引き抜きながらレスティはそのままソフィの前へと飛び出す。
射出された小石はソフィでは知覚すらも追いつかない超高速の弾丸だ。
だが今のレスティにはその軌道がはっきりと見える。
あとは簡単だった、魔物の前に躍り出たレスティが振るった刃は寸分違わず小石の弾丸を叩き落し、さらにおまけとばかりに、打ちおろされかけていた数本の触手を切り飛ばし、魔物と再び対峙する。
「……動いて平気?」
「平気……あなたの方こそ、辛いんじゃないの?」
傷の塞がったレスティとは違い、普通の人間でしかないソフィはもう全身ボロボロで、肩で息をするのもやっと、という有様だ。
「そうだね……けど、休んでる暇も、なさそうだから」
二人の会話に魔物が気を使う道理などあるわけもなく、容赦なく触手による打撃が四方八方から加えられる。ソフィのお粗末な回避行動を手助けするようにレスティは回避しきれそうにないものだけを切り落とし、地に落としていく。その粘液は蠢きながら再び魔物の体へと寄り集まり、際限なく再生を繰り返す。
「逃げる……?」
その様子を見ながらレスティがソフィに聞く、がソフィは首を横に振る。
「多分だけど、倒せるはずだ」
「どうやって?」
斬撃も打撃も者ともしない相手を倒す手段などあるはずがない、レスティはそう思ういながら聞き返す。ソフィはしかし、その意図汲み取って、説明を返す。
「何度か試してみたけど、あの魔化した触媒、あそこへの攻撃をあいつは相当嫌がるみたいだから、あれを何とかすればきっと」
「なんとかって、さっき私が蹴った時も止められたし」
無理だとレスティが続けるよりも早く、ソフィの声がその言葉を遮った。
「君が蹴った時は、反応が遅かった、なのに僕の攻撃にはあいつは一瞬で反応したんだ。だから多分、奴が知覚するよりも早く攻撃できれば」
「倒せると?」
しっかりとした頷きを返すソフィの目をレスティはじっと見つめ、あきれた様にため息を吐く。
「わかった、やろう」
決意を込めたレスティの言葉。
「僕が囮になる、君はその隙に背後からやつの触媒を狙ってくれ」
「了解」
レスティの返事にソフィは頷きを一つ残して緩やかに突撃を開始する。
行く手を阻むように立ち上がる触手の群れの攻撃をいなし、かわし、時に切り落とし、時に打たれながら、それでも前へ進む。目指すのは触媒までもっとも近い、真っ直ぐに突き通せる真正面の位置だ。
距離が詰まるに連れて攻撃は苛烈さを増す。
それでも足を止めずソフィは渾身の一突きを全力で放つ。
予想通りというべきか、その一撃はあっさりと今までと同じように石によって受け止められていた。しかし、それだけではすまなかった。執拗なソフィの攻撃に対して、魔物も業を煮やしたのか、そのまま細い剣をたどる様に、粘液が走り、更にその後を細い粘液をガイドにして、波が崩れていくかのように、ソフィの体を覆いつくさんばかりの粘液がいっせいに襲い掛かってくる。
逃げようのないその攻撃、ソフィの体は粘液の中へと取り込まれ、その意識が一瞬で消え去る。
だが、その全身全霊の攻撃は同時に背後の粘液の壁を薄くすることとなる。その瞬間をレスティは逃さない。
地を蹴り天井を蹴り、人並みはずれた速さと体裁きで魔物の後ろ、それも天井の高さからレスティが壁を蹴り、一瞬で肉薄する。
勢いを乗せて突き出された短剣は緩やかな抵抗をものともせずその身を裂いて、一気に触媒を貫こうと進んでいく。
だが、わずか拳一つ分、あと少しで触媒を貫ける位置で、小さな小石にその一撃は受け止められた。
同時に、切り裂かれた粘液が蠢き始め断面を塞ぎレスティの腕を逃がすまいと捕らえようとして来る。咄嗟に腕を引き抜こうと短剣から手を離し、
(だめ……!)
ひきそうになる腕を、意思の力でその場に押さえつける。
(今退いたら、ソフィは、どうなるの……)
目の前で魔物の体内にとらわれる彼女の姿が目に映る。それだけで体が燃えるように熱く、一歩を踏み込む勇気が湧いてくる。
短剣を手放した腕をそのまま石の横へと突き入れる。
足の時と同じように腕にまとわりついてくる粘液とたくさんの小石。それらを振り切るように体重を乗せて腕を前に、触媒へと届けと、力のかぎり伸ばす。
ズッと腕が進む感覚、指が、掌が、触媒を掴む。力強くそれを握り締め、全力で腕を引き抜きにかかる。
同時に、今まで以上に強い付加が腕にかかる。それだけで腕の骨が折れてしまいそうな圧力に、悲鳴を上げそうになる。それだけですむはずもない、まとわりついた大量の小石たちがその腕の周囲を高速で回転し始める。
「がっぁ!? っあぁぁああ、らっぁああああ!」
痛みに耐えかねて少女の口から咆哮が漏れる。腕から血が吸いだされ、力が抜けそうになる。飛びそうになる意識を繋ぎ止め、歯を食いしばって、腕に最大限の力を込める。痛みの叫びをそのまま雄たけびにかえ、レスティは自分の腕が傷つくのも構わずに、そのまま触媒を魔物の体内から引きちぎるように抜き出した。
「っ、あああああぁあ!!」
最後はあっけないほどにあっさりと魔物の体内からその触媒は抜きとられ、瞬間、その粘液はまるで力をうしなったかのように床にビシャリと広がって、もう二度と動き出すことはなかった。
あとには血なまぐさい水溜りと、そこに倒れ付す男装の少女と、ボロボロの半魔の少女が残されているだけだった。
傷の再生を終えたレスティはふらふらと覚束ない足取りで立ち上がって、周囲を警戒する。音も匂いも、それらしき気配は感じられず、視界内にも動くものは何一つなかった。
ただ、それは、レスティの足元で地に横たわるソフィも同じで、魔物の体内に取り込まれてから彼女の意識が戻る事はなく、未だ動く気配はない。正確な時間はレスティはにはわからなかったが、傷の再生に要した時間はそれほど短い、ということはなかったはずだ。
(まさか、死んでないでしょうね……)
そんな不吉なことを考えながらレスティは屈んで横たわるソフィの様子を眺める。
そっとソフィの口元に当てた手に緩やかな呼吸が感じ取れ、胸も規則的に上下しているようだ。その事にレスティはなぜだか胸をなでおろして安堵した。
やはり目立った外傷らしきものはないようで、気絶の要因はまったくわからなかったが、調べ上げたところで何がわかるわけでもない。息を吐いてレスティが立ち上がろうとしたとき、ソフィの腰に下げた革袋がわずかに口をあけているのが目に映った。
そこには、金色に輝く貨幣が数枚無造作に放り込まれている。
レスティは思わず喉を鳴らした。
袋の口を解いて中を見たわけではないから、正確な枚数はわからないが、それでも今見えているだけの枚数があれば当分どころか、一年は贅沢に暮らせるのではないかと思うほどの金額。
おそらくはこの額には今日レスティが魔物を相手にして得た触媒の何倍もの価値があるのは、間違いないだろう。
(今なら……)
意識のないソフィの顔と革袋の間を忙しなくレスティの視線が行き来する。
一歩踏み出そうとした足が、何かに触れて、乾いた金属音を立てた。
視線をさげれば、それは先ほどの戦いの最中に手放した鈍色の鋼の短剣。微かに闇を照らし揺れる松明の明かりをうけて輝くそれは、まるでレスティにその存在を主張しているように見えた。
目の前にある多額の金、その持ち主は未だ目覚めず、手元には短剣が一本。
レスティは自分の心臓が怖いくらいに脈打っているのを感じる。
(今なら……全てを手に入れて、逃げる事が出来る……)
金持ちの娘が、興味本位の観光気分で迷宮へと潜り、運悪く魔物に殺されてしまった。
それで全て説明がつく。目撃者はいない、疑われたところで、確かめる術もない。それにズグロフ達が言っていた、迷宮内では何が起こっても、問題にはならないのだと。
躊躇う理由などないはずだった。
目の前にはずっと欲して来た全てがある。
手を伸ばせば届く位置に。
こんなチャンスはきっと二度と訪れない。
レスティの頭の中を記憶が、言葉が、ぐるぐると回る。
返り血と自らの血で染まった服がべっとりと肌にまとわりつく気持ちの悪い感覚がなぜだか妙に気に障って仕方がない。
少女は、意を決したように、短剣にゆっくりと手を伸ばした。