5
迷宮王都ロヴィーネ。
その東の端に存在するのがこの街を、国を支える広大な地下迷宮だ。はるか昔はむき出しで存在したその場所は今は巨大な半球状の建築物が覆っている。
その迷宮の存在する王都の東区、通称迷宮区には冒険者やその物珍しい建物を一目見ようとやってきた観光客、さらにそれらの人々を相手に商売をしようとやってきた行商人、さまざまな人間が集まりひしめき合っている。
地下迷宮へと繋がる大通りは特に人が多く、道の左右には出店が所狭しと並びあちこちで商人たちが客の呼び込みに必死になったり、取っ組み合いの喧嘩を始めている通行人まで多種多様な人が見て取れた。
そんななんともいえない日常の喧騒にレスティは顔を顰めている。その理由は人が多いから、というだけではない、危険な場所だと散々聞いていたわりにこの周囲のお祭り騒ぎに緊張していた自分が馬鹿のように思えたからだ。
(こんなことならもっと美味しく朝食をたべればよかった)
後悔したところで今再び目の前に朝食が並ぶ事もなければ、美味しく食べられなかった今朝の記憶が書き換わるわけでもない。後悔に何の意味もない事をレスティは知っている。そんな無駄な事をしている暇があれば今か、あるいは先の事を考えたほうが有益と言うものだ。
かといって、先の事を考えたからといってやはり、事態がよくなるなどと言う保障もないのだが。
「人混みはやっぱり嫌いかな?」
暗い顔をしたレスティを見かねたのか、ソフィが聞きながら果物屋の前で足を止める。
「祭りみたいに馬鹿みたいに騒いでるのが面白くないだけ」
小さく吐き捨てるように返したレスティの言葉にソフィは小さく笑いながら、林檎二つと白銅貨一枚を交換し、一方をレスティに放ってそのまま齧り付く。
「実際他人の人生なんて自分には関係ないお祭りみたいなものさ。吟遊詩人の歌う英雄譚も悲劇も一緒さ。他人事だから楽しめる」
りんごを受け取ったレスティは小さく「ありがとう」と呟くとソフィの真似をしてそのまま齧り付く。初めて口にする果実の甘さと瑞々しさに目を丸くしながら、朝食を満足に味わえなかったのを惜しむかのようにゆっくりと味わいながらかみ締め租借し嚥下する。
「僕は嫌いじゃないよ、確かに危機感が足りない気もするけどね、悪い事ばかりじゃない」
二人は林檎を片手に商店を足はやに巡っていく。
松明、水入りの皮袋、ロープ、干し肉、細々とした迷宮に潜るのにあれば便利なものを買い揃えていく様をレスティはただじっと見つめていた。もはやソフィがいったいいくらのお金を使ったのか考えるのをやめていた。価値観の違いにいちいち打ちのめされてなどいられない。
「こういった細々としたものは毎回ここで買っていくほうが手間も省けるし忘れ物も少なくてすむからね、便利なのにこしたことはないと思うよ」
ソフィの買った荷物の半分を受け取り身に着けていけば、レスティの服装はいつの間にやら立派な冒険者のそれと遜色のないものになっていた。
自分のそんな格好をまじまじと見下ろしながらレスティは呟く。
「まだ迷宮に潜った事もないのに、詳しいのね。耳年間な子供みたい」
ほんの少しだけ皮肉を込めたその言葉を聞いてもソフィは眉一つ動かすことなく小さく頷いた。
「ずっと待っていたからね、この時を……」
感慨の篭ったその短い言葉を茶化す気にはレスティもなれず、手もちぶさたにもう随分減ってしまった林檎を口に含んだ。
大通りをまっすぐに進み二人が足を止めたのは迷宮への入り口、大通りに面した迷宮への正門だ。迷宮内へ入るための門は他にも幾つかあったが、対外冒険者が利用するのは移動距離がもっとも少なくなるここである。
半球状の建築物を四角く切り取って貼り付けられたかのような鋼鉄製の門は巨大で、大の大人を縦に二人、横に寝かせて三人程の大きさである。有事の際兵器を運び入れるための措置なのだろう。
しかし冒険者が行き来するたびにこの扉を開いていたのでは手間がかかりすぎるため、基本的にはその隣にある普通の家屋程度のサイズの、こちらもやはり鋼鉄製の扉で行き来をしている。
大門の前には警備兵が二人、扉の前には一人の兵がついていて、内部と外部にはそれぞれ詰め所が用意されている。その詰所には常に兵を十人以上待機させ厳重に警備体制は整えられていた。
魔物への対策はもちろん、不正に迷宮内へと侵入する人間を取り締まるためだ。
レスティとソフィは暫くその巨大な建築物を感心して眺めた後、扉の前えと進み出る。ちょうど他に冒険者がいないせいか、全身重厚な鎧に身を包んだ警備兵がすぐに近づいてくる二人に気がつくと、声をかけてくる。
「待たれよ、ここは国が管理する地下迷宮、許可がないものの立ち入りは禁じられている。探索に必要なクラン証明をもっているか?」
「ええ、こちらに」
問われてすぐさまソフィが取り出したのは硬貨のような銀印であった。そこには反転文字で昨日ソフィが登録した『スクリットーレ・オンブラ』の名が刻まれている。
「聞かぬ名だな、新入りか」
「昨日登録をすませたクラン長のソフィ・スパーダと申します、こちらは同じクランのレスティです」
紹介されてレスティはさっと目を逸らすが警備兵の方はむしろそんなレスティの様子に興味を示したのか、外套の中を覗き込むかのように腰を曲げてその顔をまじまじと見つめる。
「没落貴族の譲ちゃんに、半魔か。珍しい組み合わせだ」
鎧を着ていても男が可笑しそうに体を震わせているのがはた目からでもわかる。
「なにか問題が?」
「いや、なにも問題はないさ、何がどうあってそのような星の巡り合わせになったのかは知らないが、せいぜいがんばってくれ、お前達が持ち帰った触媒がこの国の礎となる。なんにしろ、今日が始めてだというならあまり無茶はしないことだ、顔がよくても魔物は手加減などしてくれないし、半魔の体が丈夫だろうとやつらは生きたままの餌ですら構わず食らうぞ」
「肝に銘じておきます」
もっと小ばかにされると思っていた二人は兵士の態度に若干驚きながら小さく頭を下げた。
「入場料は二人で銀貨一枚だ。しっかり元をとってくるといい」
ソフィが銀貨を男に渡すと、ゆっくりと扉が開かれる。ソフィはじっとその様子をみつめて、扉が開ききると、ゆっくりと一歩を踏みしめた。
レスティもその後にすぐに続こうとして、警備兵を見上げる。
「なんで……」
なぜ半魔などにそのような注意をわざわざ言って聞かせるのかと、レスティは短い言葉でそう聞いた。返事は期待していなかった、そもそもこれほどの短い言葉の意味を読み取れるなどとは思ってはいなかった。それは独り言のような呟きだった。
だが、男は聡く、耳が良かったのかこちらも誰に聞かせるでもない小さな声で期待のしていなかった答えが返った。
「長いことここにいるとな、二度とここに来なくなるやつや、そもそも迷宮から出てこないやつなんていくらでも見かけちまう。その癖名前なんか覚えちまうからどうにも夢見がわるくていけねぇ。お前もせいぜい俺の明日の目覚めをよくさせてくれよ」
男は言葉とともにレスティの背を軽く押してそのまま扉を閉めてしまう。
(変なやつ……)
硬く閉じた扉をじっと睨んでそんなふうに思い、すぐにソフィが先に進んでいる事に気付いてレスティはあわててその後ろ姿を追いかける。
巨大な半球の建築物の内部は明り取りの窓もないのに辺りを見回すのに支障のない明るさがあった。
地面は鈍色の金属で覆われており、その金属には幾重にも複雑な幾何学模様が描かれている。どうやら封印や、建築物内の明りとしての役割をこの金属が行っているようであった。
内部には警備兵の詰め所以外にも荷物の預かり所や休憩のための簡易的な宿が用意されていて。どちらもそれなりに利用者で賑わっている。二人はそんな人々を横目にまっすぐにその空間の中心へと向かっていく。
そこに建っているのはぼろぼろの四角い崩れかけの箱のような建物だ。外観からするともしかすればかつては城のような建物だったのかもしれないが、今残っているのは一階部分に相当する部分だけであり、なかなかに滑稽な見た目となってしまっている。
扉も窓も取り払われたその建物に二人はゆっくりと踏み入っていく。
内部は大きなロビーのようになっていてその中央にはぽっかりと大きな暗闇が口をあけていた。暗闇には古びた、しかし頑丈そうな石造りの階段が見て取れ、それは地下深くまで続いている。
レスティとソフィは思わず息を呑む。
説明などされなくともこの先が魔物の住むという地下迷宮であることはその不気味な空気と肌の感覚で分かった。ソフィが取り出した松明に火をつける、その手が微かに震えているのにレスティは気がついていたが、彼女自身もまた、足が震えていたため、その姿を笑うことなど出来るはずもない。
意を決したようにソフィが一歩階段へと踏み出す、レスティもそれに続いて長い階段を下り始める。
二人分の足音がどこまでも続いているのではないかと思うほど長い階段に反響して不気味に響く。次第にはやるソフィの歩調に比べてレスティのそれはどこか恐る恐るといった感じで、ついていくのがやっと、という有様であった。
長い長い階段を下り続けた時間は一体どれほどだったのか、暗闇と代わり映えのしない景色に、階段が終わる頃には二人の時間の感覚はすっかりとおかしくなっていた。
階段の途切れた先は少しだけ開けた空間で、足元も天井も壁も岩をくりぬいて作られた洞窟とでもいうべき体裁だ。その空間からは人が三人は手を広げて通れそうな道がそれぞれ三方向に伸びている。
「さて、どちらへいこうか」
緊張した声色ながら、ソフィの顔にはいつもの薄い笑みがあり、その事にレスティはどこかほっとしながら、右の道を指差した。
「根拠はなにかあるかな?」
「なんとなく……ただこっちの気がする」
本人が言うとおり、レスティは特に根拠があるわけでもなく右の道を選んだ。
ただ、なんとなく、この空間に降り立ってから、不思議と懐かしいような、そんな感覚がレスティの中にはあった。
「吉とでるか凶とでるか、いってみようか」
「うん……」
ゆれる松明の明かりだけを頼りに二人はゆっくりと歩を進めていく。時折洞窟内には骨や肉片、血痕といった戦闘の跡が見て取れ、それらを見つけるたびに二人は小さく息を呑んだ。
どれくらいそうして暗い道を進んだだろうか。やがて、道の途中でレスティがその足を止める。
「待って」
小さく搾り出すような声にソフィも何かを察したのか、その足を止めてレスティのそばへと寄る。
「どうかしたかい?」
「何か、いる」
頭にかかっていた外套を下ろし、レスティはその耳に手を当て、薄く目を閉じてその獣の耳に意識を集中する。先ほど微かに聞こえた自分たちのものではない物音。それは今まさに自分たちが歩いてきた方向から近づいてくるようだった。
足音から察するに、四速歩行、数は一。そんな情報がはっきりと読み取れたことにレスティは内心驚いた。そもそもいつもならこれほど離れた距離の感知は出来ていなかったはずだ。
しかし驚いている暇はない、人間が歩く速度より早くその足音は近づいてきている。
レスティは黙って腰の短剣に手を伸ばす。
「来る……」
小さな呟きにソフィもまた頷きながら松明を持っていないほうの手を腰に下げた剣へかける。すぐにその足音はソフィの耳にも届くほどに大きく響き始め、二人はじっとその闇を眺めていた。
やがて闇から勢いよく飛び出してきたそれは、二人の姿を見つけると、ぴたりと地にその足を止めた。
それは毛並みの黒い立派な犬であった。
少々体躯が大きいが、見たところこれといって変哲のない、犬。
二人は大きく息を吐いて脱力する。そんな心情を知ってか知らずかだらしなく口から舌を出した犬は息を荒げて二人の様子をしげしげと見つめていた。
「なんだ犬か……でもなんでこんな……」
瞬間、レスティはその背に薄ら寒い感覚が走るのを確かに感じた。考えるよりも先に体が動いている。屈む様に体を沈め、寸前まで彼女の喉があった空間を犬の大きく開かれた口が、通り過ぎていた。
「こいつ……!」
すぐさま体制を建て直し後ろを振り向けば、犬の方は綺麗に着地して再び地を蹴ろうとしていた。その瞳は不気味な紫の光を宿し、もとより大きかったその体は更に一回り巨大化し、立ち上がればレスティの身長を超えてしまいそうなほどだ。
「無事ですか!?」
「大丈夫、それよりまた来る!」
不思議と研ぎ澄まされた五感で目の前の敵が仕掛けて来るタイミングレスティには分かった。抜き放った短剣を構え、敵を迎え撃とうとするが、その動きは俊敏で、来るのがわかっていても、避けられない、それがわかってしまう。
地を蹴った犬はまっすぐ飛び込むと見せかけて、斜めに飛び、そこから更に迷宮の壁を蹴って加速しこちらへと向かってくるつもりだ。
その攻撃を避けるすべはない。
レスティの脳裏にに浮かぶのは喉笛を噛み千切られて悶える自分の姿。
(冗談じゃ、ない!)
せめて少しでも敵の攻撃を逸らせればと構えた短剣を突き出そうと腕を振り、そこでレスティは気付く。握りこんだ短剣が妙に軽く、突き出す自分の腕が早く、鋭い事に。
苦し紛れに放った筈の一撃は犬の体の脇を深く切り裂き、たまらず犬は悲鳴を上げながら地面を転がり、血と臓物を振りまきながら立ち上がる。
あまり直視したい光景ではなかったが、目の前の敵はこんな状態でもまだ戦意を失っていない。目を逸らせば先ほど脳裏に浮かべた映像の通りに喉笛をやすやすと噛み砕かれる事だろう。
「そいつの弱点は頭! 頭部を砕くか、首を切り落とすかしない限り、這ってでも攻撃を繰り返します!」
ソフィの叫びを頭の片隅に入れてレスティは今度は自分から飛び掛る。先ほどの腕の動きから、自分の体に何らかの変化があったのは確かだった。それを確かめる意味で防御を捨てて攻勢に転じる。
地を蹴る足は軽く、普段とは比べ物にならない速度で犬との距離が縮まる。
すれ違い様、逆手に握った短剣を敵の首を撫でるように振り切ると、犬の形をした魔物の頭は悲鳴を上げる魔もなく地面をごろごろと転がっていった。
その場に残った体から吹き出る返り血を浴びながら、しかし、気にする余裕もないほど、レスティの息は上がっていた。
戦闘の疲れというよりも、そこから来る興奮状態による作用が大きかった。短剣の血を振り払い、顔に付着した血をぬぐいながら、レスティは呆然と地面に転がる魔物の頭を眺めていた。
「お見事……僕の目に迷いはなかった、かな?」
剣を収め近づいてきたソフィは呟きながらレスティの顔を覗き込む。そこでようやく魔物の頭部から目を離したレスティは、自身の体に起きている異常に違和感を感じて拳を握り、開き、体が自由に動くことを確認する。確かに体は自分の意思で動いてくれているのに、その出力だけが昨日、いや迷宮に入るまでとは著しく変わっている。
「知っていたの……?」
不安そうな声で呟くレスティの問いにソフィは首を傾げた。
「なにを?」
「私の体、なにかおかしい。迷宮に入ってから五感も、体も、自分のものじゃないみたい」
はっきりと知覚してしまった今、レスティには自分の体の状態が手に取るように分かる。有り余る力と体中をめぐる活力。地上にいたときの弱い自分とは比べ物にならない、戦うだけの力を持つ体。
その言葉にソフィは唇に指を当て、考えるような仕草を見せる。
「魔力、の影響かな。僕には詳しいことは分からないけど」
「魔力……」
レスティでも魔力については知っている、この迷宮に溢れる魔法の力。また魔物を生み出す温床でもある不可思議な力。それは少なからず人間の中にもあるとされ、それらを自在に操り超常的な力、魔法を行使するのが魔法使いであるとされる。
では自分には魔法の才覚があったのだと、そういうことなのだろうかとレスティは首をひねるが、魔法など使った覚えはなかった。
「魔物はその場の魔力が濃いほどにその力を増すと言われ、その依存度が強いほど魔力のない場所では活動が出来ないと聞く。
半分人間で半分魔物たる貴方にとって、地上は活動出来ない事はないまでも本来の力を出し切れない場所なのかな、逆に魔力が濃い迷宮内であればあなたの中の半分の魔物の力を行使することができる、と言ったところでしょうか。推測にすぎませんが。
つまり、貴方の体質はこの迷宮探索という冒険者の目的にあたって、非常に適している、といえる」
「私が……」
レスティは自らのその細い腕をじっと見つめる。今までなにも掴む事もなかった、自分を守ることも満足に出来なかったこの腕が、ことこの迷宮という場所においては、なにものにもかえがたい武器になるということ。
にわかには信じられなかった。長い間虐げられてきた彼女にしてみれば自分にそんな才能があるなど夢にも思わなかったこと。つい昨日まで何も持たなかった少女の手の中に、今は沢山のものがあった。
それらを全て与えてくれた目の前のこの少女を、信じていいのか。
この手の中にあるものに手を伸ばしていいのか。
レスティはまだ決められずにいた。
もし手に入れる事が叶ったとして、再び何も持たぬ身となった時のことを考えるとどうしても躊躇いが生まれてしまう。
「昨晩もいった通り、僕は君を僕の剣として迎え入れたい。ただ、迷いがあるのなら返事をせかすつもりもない。ただ迷うにしても、この迷宮内ではやめておこう。油断がいつ死に繋がるともわからない」
ソフィの言葉にレスティは頷いて返し、頭を大きく振った。
今考えるべきはそう、これからの事でもこれまでの事でもなく、今目の前を必死に生き残ることだ。ずっとそうしてきたように、考えても答えが出ないことよりも目の前の問題を片付けていかなければならない。
「とりあえず、僕らの始めての記念だ」
喋りながら屈みこんだソフィは血に汚れるのも構わず、淀みなく地に転がる犬の頭から牙を切り落とす。それは昨日見せてもらった触媒と同じように紫色の宝石のような牙であった。
「これでいくらになるかは分からないけど、僕らの仕事はこの触媒を集めることだ。最低でも入場に使った銀貨一枚分、ね」
「わかった」
紫色の牙が松明の光を受けて鈍く輝く。それを見つめながら力強く頷いたレスティの目に曇りはなかった。