28
最初から人が嫌いだったわけではない。
彼には唯一愛してくれた母親がいた。
親の顔を知る半魔は珍しい。
殆どは何らかの口外できぬ事情で身籠り生まれてくる半魔は親の顔も知らぬまま捨てられるのが定めであった。
そういう意味では彼は幸運だったのかもしれない。
当然であるが、だからと言ってそんな親子を認めてくれる場所などあるわけもなく、彼とその母は土地を転々とし、細々と暮らした。彼自身が虐げられることは苦ではなかったが、何の罪もない母が自らのせいで同じ人間たちに受け入れられないことが彼は悔しくて仕方がなかった。
やがて彼が一人で生きていける程度の歳になると、彼の母は静かに息を引き取った。
墓を建てることも許されず、その体はとある森の大きな木の下へと埋葬された。
それから彼は一人で細々と暮らした。辛うじて仕事に就くことが許された母とは違い、半魔である彼には就ける仕事はなく、流れ着いた王都の貧民街で盗みや詐欺といった事を繰り返しただ日々を繋いでいた。
相変わらず人からは迫害を受け、まともに言葉を交わすこともなかった。
そんなある日、彼は一人の人間の男と出会った。
その盗みの腕、身のこなしを買われて彼は迷宮へと潜ることとなった。任されるのは荷物持ちや雑用ばかりであったが、彼は人に認められて、仕事をできることが嬉しかったのだ。
だがやがて、彼が所属するクランは行き詰まりを見せた。
魔法使いがいないことによる行き詰まり。
冒険者にはよくある話だ。
そのうちクランは廃れ、やがて彼らは中途半端な階層でグレイブディガーを始めた。彼に渡される給金も減った。それでも彼は、自分は他の半魔とは違う、人に認められ働いているそれだけを誇りに必死に働いた。
ある日のことだった。
いつものように迷宮に潜った彼らであったが、お目当ての金目の物を身に着けた死体はまるで転がっていなかった。それは日常的によくあることだった。だがその帰り道、彼らは出会ってしまったのだ。
護衛も付けず、観光気分で迷宮へと潜る貴族の子供に。
金に飢えたクランのメンバーが考えることは皆一緒だった。
彼はその日初めて人を殺めた。それでも彼は仲間と信じた者たちのため、自分の居場所のために従い続けた。
そうしてグレイブディガーよりももっと楽に稼ぐ方法を見つけたそのクランは、彼に人を殺させ続けて、しばしの間金に溺れて暮らした。
だがそんな日々がいつまでも続くわけがなかった。
恨みを買った彼らは迷宮内で報復を受けた。彼らがしたのと同じように、迷宮内で起こったことは誰も関与できない。全員がつかまりそうして、彼を除いた仲間たちは口を合わせて、全ての罪を彼になすりつけた。
奇跡的に彼が一命を取り留めたのは半魔だったからか。それとも執念がそうさせたのか。
裏切られてようやく自分が利用され続けていたことを悟った。
最初から知っていて目を背けていただけだった。
半魔は人にはなれない、当たり前のことだ。
人は人同士でも争うのに。半魔が大切にされることなどありはしない。
彼は僅かながらの給金でためたお金でグレイブディガーを続けた。それ以外にもう稼ぐ術を知らなかった。
復讐を誓った彼には金が必要だった。だが、迷宮に潜るのにも金がかかる。
だからできるだけ長い時間を潜るようにした。迷宮の中で寝泊まりすることもざらであった。
そのうち戦闘にも慣れ、死体を漁る以外にも魔物も狩るようになり、滞在する時間はさらに伸びた。
気づいた時には彼の両目は魔化していた。
そのことを彼は落ち込むどころか喜んだ、この力があれば金がなくとも復讐ができると。
彼は魔人の力をもってしてクランの人間をあっさりと皆殺しにした。
自らを虐げてきた相手を殺すことは最高に気持ちがよかった。
彼はその日からジュラーレと名乗ることにした。半魔ですらなくなった自分に昔の名前は邪魔なだけだと思ったから。
それから目標のなくなった化け物は、死体を作り、日銭だけを稼いで、誰一人仲間のいない世界で細々と暮らしていた。
気絶していた時間はそれほど長くはなかったが、一度集中が切れると、もうレスティの体は動かなかった。
力を加えたところで、指先ひとつ動かせない。
ぼやけた視界にはジュラーレの姿が映りこんでいた。
「終わりだ」
レスティの腹にゆっくりと足が置かれる。そのままジュラーレが本気で踏み抜けばそこに風穴が開くだろう。しかしレスティにはもう反撃する力は残ってはいない。ただ、もうこれでいいとそう思っていた。
二人が助かったのなら、それでいいと。
心に残る焦燥と不可思議な気持ちだけが心残りではあったけれど、もとより確かめようの無いもの、だったら気にするだけ無駄だろうと。レスティは目を閉じる。
そんなレスティの態度に、ジュラーレは舌打ちをする。面白くないとばかりに軽く踏みつけながら足をひねってみたところで、レスティの表情が苦悶にゆがむことは無い。
苛立たしく思い頭を蹴り上げて転がしても、レスティは泣き言も口にしない。
何の反応も返さない相手に、人の為に犠牲になるというその姿に、ジュラーレはの苛立ちは募るばかりだ。
ひたすらにその体を蹴りつけた後に、息を荒げ、ジュラーレはにぃっと笑ってみせる。
いいことを思いついた、と、悪戯を実行する子供のようなその笑みに、レスティの背筋にぞくりと悪寒が走る。
「こんだけ頑丈なら、手足切り取ってもまだ、生きてそうだなぁ」
そんなことを言いながら、ジュラーレは落ちていたレスティの短剣を拾い上げる。そんな些細なことが、レスティの精神を強く揺さぶる。両手、両足を切り落とされる恐怖に、ではなく、大切な初めてソフィがくれたものを、汚されるような気がして。
決して名刀ではない、冒険者崩れの名も知らぬ人間が持っていたただの短剣。けれど、全ての始まりであり、また短い間とはいえ、ともに戦ってきた、半身とも言えるそれを、ジュラーレに握られているということが我慢ならなかった。
「それに、触るな……」
かすれた弱々しい声でそう喋るだけで、体中に痛みが走り無様に咳き込む。レスティのその様子が気に入ったのか、ジュラーレはさらに楽しそうに手の中で短剣を弄りながらゆっくりとレスティに近づいてくる。
「そんなにこれが大切か? こんな安物が。どうせあいつに買い与えられたものなんだろうがな、こんな安物で命をはらされるなんて、やっぱりお前も使い捨ての半魔程度にしか見られてなかったんだよ。そうだろ? こうしてお前はここで一人取り残されて死ぬんだからなぁ。どうせあいつらはすぐにお前の事なんて忘れてまた新しいカモを見つけて迷宮に潜るんだろうよ。腹立たしくないのかお前は? 人間なんかろくなやつがいないって、思わないのか? 今からあいつらを追ってこの短剣であいつらを殺して来るってならお前の事助けてやってもいいんだぜ?」
よほど気分がいいのか、饒舌にべらべらとジュラーレは喋る。その内容が、言葉が、喋り方が、全てレスティの癪に障る。たとえ彼の喋ることが本当だったとして、レスティはそれでもいいとここで命を賭したのだ、今更自分の命を惜しんで二人を襲うなどという選択肢などあるはずもない。
「するわけないでしょ、そんなこと」
「そうか、そいつは残念だ」
言葉とは裏腹に、その声は酷く弾んで、楽しさを微塵も隠す気などないのは明白であった。
「じゃあ、仕方ない、お前をダルマにして、その後でゆっくりお前の目の前であの二人を殺してやるよ」
その言葉にレスティは言いようの無いさまざまな感情を抱き、それらを全て飲み込むような怒りの感情で、頭の中が真っ赤に染まる。
自らの体が思うように動かないのが悔しい。ここで死んで二人を逃がせれば本望などと、甘い考えではいけなかった。この場で、目の前の男を殺さねばならないと、そう思うのに。かすかに動くことすらもできない、力が無いのが悔しくて悔しくて仕方が無い。
脳裏に浮かぶのはやはりソフィの姿。彼女を守りたい、こんなやつに殺させはしたくない。
怒りに体が震え、奥歯をかみ締めながら、射殺さんばかりの視線でジュラーレをにらみ付ける。
それがさらに彼の興奮を、刺激する。
「そんなに嫌か、そうか、だったら、尚更実行しなきゃなぁ……? ほうら、ちょうど、のこのこ帰って来たみたいだぜ?」
ジュラーレの言葉にレスティはハッとする、普段より鈍っているその聴覚でもすぐ近くまで来ている彼女の足音ははっきりとわかった。
走ってきたのは、脳裏に思い浮かべた姿と同じ。
ソフィが剣を抜いてすぐ近くまで来ている。
見捨てずに自分を助けに来てくれた事がどうしようもなく嬉しい。彼女の為に捨てた命なのに、今更、どうしようもなく死ぬのが惜しくなる。
同時に絶望がレスティを襲う。
ジュラーレは笑いながら、既に走り出している。
間に合わない、どうしようもない。
守りたい、助けたい、生きたい。
「レスティ!」
名前を呼ばれる。
好きでもなんでもなかった名前。
彼女に呼ばれると、それだけで嬉しく思う。
とても大事な物に思える。
心の中でもやもやとしていた物が形をなしていくのがわかる。
この気持ちが、きっと、ドーラの言っていた愛、なのだろう。
動かない体に動けと、命令する。
どうなってもいいから、目の前の敵に勝ちたいと。
視界が薄紫に、染まる。
くらくらと揺れる。揺れる。
体が熱くなる。
動かなかったはずの体が応える。
レスティの意思よりも俊敏に。
それはこの迷宮に彼女が足を踏み入れた時に感じたものと同じ感覚。だが、それよりも、感覚の剥離が圧倒的に激しい。
レスティは体中がざわつくのを感じる。
魔力が体内に流れ込み、傷を癒していく。外傷だけでなく、体の内側の損傷までもを瞬時に治癒し元の状態に戻る、だけでは留まらない。体中、ありとあらゆる部分が自分の物とは別の、もっと強い物へと置き換わっていくような感覚。
それはレスティの内部だけなく、表面にも変化を起こしていく。
獣の耳が一回り大きくなる、ぼろぼろの外套から、獣の尾が生える。五感が研ぎ澄まされていく。体中に力がみなぎっていく。
地を掻いて獣のように四つん這いになると、レスティは両手と両足で迷宮の石畳を蹴った。
驚くほどに体が軽い。
今まさにソフィの顔に切りかかろうとするその体に飛びつき地面に組み伏せる。
「なっぁ!?」
圧倒的優位に立っていた筈の自分が襲われる理由がわからないジュラーレは驚愕の声を上げて、振り返ろうとするが、それよりも先にレスティがそのうなじに容赦なく噛みつく。
ジュラーレの叫びが迷宮内に木霊する。
「ど、どうなってるのよこれ!」
引き返したソフィの後を必死に追ってきたドーラが目の前の光景に驚愕する、ソフィはすぐ目の前で起きた事を認識すらできず、ただ目を白黒とさせている。
噛みつかれたジュラーレはたまらず体を振り回しレスティを跳ね除ける。レスティの膂力も魔力を体に取り込んだ事であがってはいたが、単純な力ではジュラーレが上回っている。
跳ね飛ばされたレスティは四足で着地したかと思うと、先ほどの一瞬でジュラーレが手放した短剣と、足元に落ちてたもう一本の剣を拾い上げ、両手に構え、冷徹な狩りをする獣の目で目の前のジュラーレを見つめている。
対して、うなじからあふれる血を手で止めながらジュラーレは目を見開く。
「なんだ、おい、どうしてこうなってんだ!? 何をしたんだよおい、その格好はよ!」
圧倒的な狩人の立場から一転、狩られる側として認識されることに、ジュラーレは焦りと恐怖を感じていた。それは彼の記憶に刻み込まれた性。長く退けられ続けた半魔という淘汰されていく種としての本能に近いものだった。
「さぁ、私もわからないけど――わかるよ、今の私はあなたより、強い」
レスティの本能が、そう告げている。確かに目の前の相手を倒すだけの力を自分が持っていると確信してそういえる。魔物と対峙したときと同じ、目の前の相手はもはや半魔ですらない、魔人と呼ばれる種族。それすらも今の自分は超えていると実感できる。
「なんだ! 何が違う、お前と俺と! なぜお前のほうが全て持っていくんだ! 同じ、同じはずなのに!」
その叫びの意味はレスティにも痛いほどわかる。
同じ半魔、同じ種族。なのにそのあまりにも違う境遇。
レスティも人に対して同じ様に思った事は一度や二度ではない、それは恐らく目の前のジュラーレも同じだろう。
人と半魔、何が違うというのか。生まれが特殊なだけで何かを思い、話し合い、意思の疎通を交わせると言うのに、見た目や種族の違いでなぜこれほどまでに虐げられればならないのか。
ただ、こうして迷宮に潜るようになって、わかった。怖がられるのは仕方の無いことだと。魔物を恐れない人間などそうはいないだろう。その血を引いた半魔も同じ事だ。会話ができようとも、姿形がどれだけ似通っていようとも、本能的な恐怖を隠すことなどできるわけがない。
人はそういう風にできている、半魔だって同じ。
つい先ほどまで、目の前の敵を怖がっていたのと同じ事。
人間同士ですら言葉交わせても、意思の疎通ができても争いが耐える事はない。
それでも、わかり合える人はいる。
手を差し伸べてくれる人は少なからずいる。
それが、レスティとジュラーレの違いだった。
神様なんてレスティは信じてはいないが、神の気まぐれとしか言いようがない。この世界は理不尽だとレスティはよく知っている。自分がソフィに出会えたのは運がよかっただけに過ぎない。本当に本当の幸運。だからこそ、大切にしなければと思う。この幸運を、愛すべき人を。
「私は運がよかっただけだよ。まともな日々を歩んできたとはいえないけど、たまたま、幸運な出会いに恵まれた。それだけのことだよ」
「そんな、そんな理由で納得できるかよ!」
大きく吼えたジュラーレが一歩を踏み出す。レスティも前傾姿勢から、鋭く地を蹴った。
ジュラーレの繰り出す顔を狙った拳をレスティは半歩体をずらして避ける。そのまま直進を続け、すれ違いざまに足をかけようとするが、ジュラーレの足はまるで地に根をはる大木のようにびくともしない。
その隙を逃すまいと襟首をつかもうと伸ばされた手をかがむ様に転がりながらレスティは回避する。二人の位置が入れ替わり、再び、睨み合う。
先に動いたのはまたしてもジュラーレであったが、その行動にレスティは意表をつかれる。
唐突に背を向けたジュラーレは、一目散にソフィとドーラの方へと向かって走り出す。
二人の戦いをほぼ認識できていない彼女達に、ジュラーレが迫る。
だが、速さで勝るレスティがそれを易々と許すはずが無い。
容赦なく背後からその肩に飛びつき地面に蹴倒すと、のしかかったまま背中から剣を力の限り突き刺して、その体を地面に縫いとめる。
「ガッ、ぁあああ!?」
苦悶の叫びを上げ、のたうち回るジュラーレであったが、下手に動けば突き刺さった剣が体内をさらに傷つけ、激痛が体を駆け抜ける。半魔のジュラーレとはいえ、そのような痛みは味わった事がない。我慢ができるわけも無くさらにもがけばもがくほど、体に痛みが走る悪循環を繰り返す。
レスティのように超回復力も無いジュラーレは、体とうなじからどくどくと血があふれていく度に少しずつ、自らの体が熱を失っていくのを感じた。それは懐かしい寒さだった。まだ名前すらも無かったころ、貧民街の路地裏で毛布も無く寒々と夜を耐え凌いだのと同じ寒さのように感じられた。
そのころからずっといい事のない日々ばかりで、盗みや詐欺、生きるために必死でなんでもやって、旨い話につられて迷宮へと潜るようになったのが運の尽きだった。そうして初めて人を殺した。
こうして迷宮内で死んでいくのも、お似合いだとジュラーレはいつかし痛みを感じなくなり、そう思っていた。
「ぁあちくしょう……もっと……」
後に続く言葉をジュラーレは続けられなかった。
自分はもっと、何をしたかったのだろう。
復讐と言う名の八つ当たりも今になってみればたいした面白みも無かった事に気づく。自分を利用したクランメンバー達を殺したときはあまりの歓喜と開放感に涙を流して喜んだ。その事だけははっきりと覚えている。ただ、それだけだったのだろうか。当時の自分の事などもう思い出せない、その時の事をかき消すように罪を重ねていった。初めての時の感覚は終ぞ味わうことはなかった。
縫い付けられたジュラーレを眺めていたレスティが屈み、その顔を覗き込む。
「もっと、なんだったんの?」
問われ、再び考え、小さくジュラーレは呟く。
「もっと、面白い人生がよかったな」
それはきっと心からの言葉だっただろう。
ジュラーレは獣の姿へと近くなっているレスティを霞行く視界で見つめる。
人とは明らかに違うその姿。どれほどの傷を負っても再生し、人間以上の膂力と、鋭敏な感覚を持つその五感。人間を超えたその存在を美しいと思い、また怖くも思う。
「いずれお前はまた、迫害を受ける。人間は自分達を脅かすものを叩いて、締め出して、淘汰する。あいつらだってすぐにお前の事を怖がって、いなくなる。そうしてお前らが狩られる事になった時は、どんな名前がつくだろうな……半魔として処理されるのか、それともなにか別の化け物か」
ジュラーレの脳裏には自分と同じように孤独に再び舞い戻る少女の姿が目に浮かぶ。
だが、レスティはそんな呪詛のような言葉を跳ね除けるようにはっきりと告げる。
「私がたとえなんであろうと、ソフィ・スパーダの為に戦う剣であることに変わりは無い。これから先ずっと」
「そうかよ……まったく、俺もそんなに信頼できるやつがいりゃ、ちったぁ……」
ジュラーレが大きく咳き込み、その血が迷宮の石畳を汚す。
あっけない幕切れが訪れ、夜の迷宮には静寂が戻ってきた。
レスティは剣を引き抜くと、血を払い鞘に収める。急に体から力が抜けて、手をつくこともできずに地面に倒れこむ。体中から力の源が消えていくのを感じる。
心配そうに駆け寄ってくる二人の少女に、ニコリと笑いかけて、レスティの意識はそこで途切れた。




