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声を発することができなければいかに魔法使いとはいえ、無力な年相応の少女でしかない。
「ドーラ!」
ソフィの叫びは届くこともなく、この場において、何の力も持たないソフィは歯がゆくその状況を見ていることしかできない。レスティはソフィを腕の中から離すとすぐさま立ち上がって剣を構えなおす。
だが、どう攻めるべきか、わからない。
以前はこの状態になる前に、奇襲を仕掛けてからソフィが取り込まれたこともあって、何とか核まで手を伸ばすことができた。だが今この状態では、うかつに動けばドーラの身が邪魔になり、最悪、迎撃手段にドーラが巻き込まれる可能性も十分にありえる。そもそも、はたしてクリムジェルが獲物を捕食するまでにどれだけの時間をかけるのか、それすらもわからない。
まずやるべきなのはドーラを助け出すこと。
レスティは歯噛みする。最初から自分の身をもって倒していればよかったと。だが後悔したところで状況がよくなるわけではない。ただ静かに目の前の敵を見据える。
ソフィもレスティと同様に考えていた、目の前のドーラを助けつつ魔物を倒す方法を、だが、そのためには、レスティを危険に晒す必要がある。それは果たして許される決断なのか。
つい先日自分がレスティに言ったばかりではないか、その身を大切にするべきだと。
そもそもにして、一人で闘えもしない自分にそんな判断を下す権利があるのか。ソフィは唇を強く噛みしめて必死に考えをめぐらせる。
「ソフィ、やるよ。私の力を使って、今がその時」
ソフィの憂いを吹き飛ばすようにレスティが強く言い切る。ソフィは、それでもこれ以上、レスティを傷つけていいのか、そんな判断を下していいのか、そんな思いをかき消すことはできない。
震えながらソフィは告げる、普通の人間に言えば自分の為に死んでくれと、そう言うのと変わらない命令を。
「やつの迎撃本能は前回の戦いからすると触媒周りでないとあまり機能していないようだった。だからそれを逆手に取る。僕がまず回りこんで後ろから触媒を狙う。やつが迎撃に手を割いている間に君はドーラを救出。うまくいくかはわからないけど、ドーラ自身の体は触媒から離れた位置にある、それほど反応は示さないはずだ。できるかい?」
「了解」
「それじゃあ、やるよ」
言葉とともにソフィが剣を抜いて踏み出す、レスティの一歩に比べれば緩やかで遅い足取り。そのまま奇妙に蠢くクリム・ジェルの背後に回ると。ソフィは躊躇いなく触媒をめがけて剣を突き入れる。
瞬間、クリム・ジェルがそれまでとは違う、圧倒的な反応速度を見せて突きこまれた剣を石で受け止めようとするが、その小石をソフィの剣は易々と切り裂いた。蟲型の魔物の固い体を切り裂く業物の前にその程度の防御は無意味だ。
予想外にまっすぐに突き入れられるその切っ先に恐れを成したのか、焦るように魔物はその体を蠢かせ、大量の小石を体に吸い上げると、剣をびっしりと覆うように小石を張り付かせる。いかに業物といえど、左右から圧力をかけられれば押し込むこともかなわない。
そのまま剣を砕こうというのか、無数の小石は徐々に回転を始めさせる。クリム・ジェルの得意とする迎撃攻撃。
その瞬間を、レスティは待っていた。二箇所同時に迎撃がくる、その可能性ないわけではない、もしかしたらドーラをそのまま殺されてしまうかもしれない。だが、躊躇って無為に時間を失っても結果は一緒だ。だったら。少しでも動く方がいい。
レスティは地を這うような低い姿勢で地面を蹴る。一瞬で魔物の前に肉薄するとその波打つ気色のわるい体内に両手を突っ込む。生暖かい気味の悪い粘液に腕が包まれる感覚。そんなものに構っていられない。伸ばした腕がドーラの両足をつかむ。
(よし!)
地面に倒れこんだ力の入らない姿勢ながらも、レスティはドーラの体をしっかりと捕らえた。迎撃はまだこない。腕を引きながら体勢を立て直し、地に足と尻を付いて、上体を倒す力で一気にドーラの体を引き寄せる。
ソフィが刀身の砕かれた剣を捨てるのが見えた。あちらの迎撃が終わったようだが、もう遅い。
勢いよく、ドーラの体が魔物の体内から飛び出し、その反動でレスティも倒れこむ。
「っ、はぁゴッホ、げっは、はぁ、いったい、わね! 頭打っちゃったじゃないの!」
咳き込みながらも、救出されたドーラは早速そんな悪態を付いてぜぇぜぇと肩で息をしている。
「それだけ喋れれば平気そうね」
「平気じゃないってば、特大のたんこぶができてるっての!」
魔物の体内でさらに魔力にあてられたのもあるだろうが、助かったその興奮からか、あるいは安堵からか、かすかに震える体でドーラは普段の口調など忘れてレスティにそんな理不尽な文句をぶつけている。
レスティはこんなことなら助けなくてもよかったかも、なんて思いながらも、元気にはしゃげるそのドーラの様子に内心ほっとする。
「二人とも、楽しいお喋りは後にしよう。まだ、終わったわけじゃない」
魔物を挟んだ向こう側から、ソフィがそう声をかける。
彼女の言うとおり、クリム・ジェルに有効打を与えたわけではないのだ。
当の魔物は獲物を奪われた事に怒っているのか、そもそもそのような感情があるのかどうかもわからないが、先ほどまでと比べると幾分か体を激しくうごめかしているように見えた。
「わかってる」
「はー、全身べとべとで最悪よ、あったまきたわもう」
レスティは徒手で構えをとり、ドーラは杖をしっかりと握る。前回、そして今のやり取りでクリムジェルの特性をソフィは理解しつつあった。
クリム・ジェルという魔物は高い防御力をもった魔物だと、そうソフィは思っていたが、そうではない。力が強いわけでもなければ、その体は所詮液体であり、簡単に攻撃を通してしまう、だからこそ、攻撃的な迎撃手段をその体内に備えたのだ。外に対する攻撃手段はソフィでもなんとか凌げる程度の攻撃しかなく、その攻略の鍵は迎撃にある。そうしてそれは裏を返せば、迎撃されない攻撃をもって触媒を粘液と切り離してしまえばそれで終わり、ということだ。
レスティのように傷を負っても躊躇いなく進む手もあれば、他にも物理的な手段で、破壊されない鋼鉄製のトングかなにかがあれば事足りてしまうかもしれない。
加えて、この魔物はそれほど頭がよくない。多方向からの同時攻撃には対処ができない程度のかなりの低脳ぶりだ、それさえわかっていれば後は簡単だ。
「ドーラ物理的な呪文は使えるかな?」
「あたしを誰だと思ってるの? 余裕よ」
「あいつの触媒めがけて、それを同時にいくつも打ち込んで、レスティ、あとは貴方のタイミングで」
ソフィの作戦を理解し、二人は頷いた。クリム・ジェルが、目の前の獲物が仕掛けてくる気配を感じたのか、その体をゆっくりと移動させ始める。
「荘厳なる大地の精よ――」
ドーラの詠唱を遮ろうかとするかのように、魔物が体内から小石を発射する。それを、横合いからレスティが抜いた左の剣で受け止める。
「鋭き刃を抜いて、その身を持ってその力、貫き通せ!」
躊躇わず、止める事のなかった詠唱が読み上げられる、ドーラの組み上げた魔法が顕現する。イメージするのは数十の軍勢。ぐるりと魔物の周囲を囲む、槍の壁。石畳から突如として彫り起こされた無数の岩の刃が展開し、その穂先を魔物の触媒へと向ける。会心の魔法の出来に、にぃっと口の端を吊り上げたドーラが杖を振るう。
炎の魔法も、氷の魔法も物ともしなかった魔物に対して、無数の岩の刃が降り注ぐ。ドーラにしてみれば低級な魔法であるそれは皮肉なことに、クリム・ジェルにはよく効いた。
迎撃の手が間に合わないクリム・ジェルは必死にその触媒を体内で揺らし、槍の軌道をそらし、避け、何とか猛攻を防いでいるが、槍に貫かれる度その体は弾けとび、触媒から切り離された体液が地面に力なく落ちる。
せめてもの反撃にとドーラへ向けて放たれた体液の触手が振るわれるより早く、レスティが動いている。
槍への対処に手間取っている今、その体内に手を伸ばすことなど容易く。槍の合間を縫うように接近したレスティの空の右手が、あっさりとクリム・ジェルの触媒を掴んだ。
瞬間、クリムジェルの体が大きく震え、迎撃の準備を取ろうとするが、もう、遅い。
そのままレスティが腕を引き抜くと、クリム・ジェルの体を構成する粘液は力なく迷宮の地面へと広がった。
同時に、レスティとドーラの二人は石畳の上に身を投げ出した。極度の緊張が解け、しばらくは体を動かす気にもなれないのはどちらも同じで、不意に、どちらともなく笑いだすと、発作のように笑いがあとからあとからもれてとまらない。魔力に当てられるのは酒に酔うのに似ているといったかつての魔法使いの言葉は言いえて妙だ。
「二人とも、お疲れ様」
ソフィが二人に声をかけながら、あたりに軽い結界を張って火を起こし始める。
「もうくたくたよ。早くかえってお風呂に入りたいわ。体中べとべとで最悪よ」
「私も同意」
ドーラもレスティも二人ともとてもではないが、人前に出られるような格好ではなかった。全身から血のよなにおいをさせる、べどべどの粘液を滴らせるドーラと、血で染まった穴だらけの服を身に着けているレスティ。どちらもひどい有様だ。
「いろいろ考えるべき事はあるけど、帰ってからだね」
ソフィは三人分のお茶を用意して二人に配る。
「ありがと」
「ありがとう」
静かに三人はコップを傾けて、迷宮内とは思えない穏やかな時間がゆっくりと流れていく。誰一人口を開かないまま、時間が過ぎていく。誰もが誰も、各々に思うところがあり。何も口に出せないまま、お茶を飲み干してしまう。ソフィはそれをわかっていて、ただ何も言わず荷物を片付けていく。
「それじゃ、帰ろうか。転移の魔法は使えそうかな?」
「それくらいならなんとか」
「頼むよ、ドーラ」
ドーラとレスティも自分たちの荷物を抱えると立ち上がって三人はドーラを中心に集まる。長い長い詠唱の後、その場から三人の少女が消えて、迷宮内には静寂と戦いの後だけが残っていた。
三人が去ってから数時間後、迷宮の四階層。大蜘蛛が巣をはっていた空間には一人の人影が立っていた。ボロ布のような外套を頭からすっぽり被り、表情の見えないその男は明かりをともすこともなく真っ暗な迷宮内を見回していた。男の紫色に光る両の目に暗視の効果でもあるのか、男はほとんど跡形のないクリム・ジェルの死骸を足でこすり、小さくため息を吐いた。
「この低階層でこいつをやれるような奴がそういうとは思えない。あいつらか」
男が頭に思い浮かべるのは、黒髪に白い肌、頭頂に獣の耳を持った一人の半魔の少女の姿。忌々しい、などと思うことはない。むしろ彼女の成長は男にとっては喜ぶべき事ではあったが、こう短期間で頻繁に手駒を消費させられると少々厄介だ。今までは目撃者事態を魔物が消してくれていたが、本来いないはずの同種の魔物が短期間に同じ低階層に現れたとなれば、いくら低脳なギルドの連中もそろそろ動き始める頃だ。
(しばらく大人しくしててもいいが……どうせならあいつらと遊んでからのほうがいいかもな)
嗜虐的な笑みを浮かべて男は、あたりに残ったままの死体を適当に見て回る。あらかた金目の物は奪った後であったが、新しい死体のひとつでもないかと念のために調べているのだが、特にこれといった実入りはなさそうだ。
舌打ちをひとつして、男はぶらぶらと歩き始める。広間から通路へと戻ろうとした彼の行く道を塞ぐように、一匹の蜘蛛がその道を塞いでいた。辺りに転がっている大蜘蛛の仲間か子供か、レスティが倒したものよりは幾分か小さい固体のようであったが、武器も鎧も持たぬ男では到底かないそうにないものと見えた。
しかし男のほうは蜘蛛の存在などまるで意に介した様子もなくそのわきを抜けようとする。当然魔物が目の前の獲物を逃がすわけがない、大蜘蛛は上体をあげて、男へと飛びかかろうとする。
それを制するように、男の首がぐりんと魔物の方へと曲げられ、大蜘蛛と男の視線がぴたりと合う。瞬間、男の紫の光を宿す目が怪しく光る。
「伏せてろ、雑魚が」
男の言葉が発せられた瞬間、大蜘蛛はまるで犬のようにすごすごと引っ込んで足をたたんで、地面に体を伏せて大人しくその場に鎮座した。
「たまには真面目に下まで行くのも、考えてみるか」
そうして男は、そんな独り言を残して迷宮の闇のなかへとすたすたと歩いて消えて言った。
あとに残された蜘蛛はしばらくの間ずっとそうしてその場にとどまっていた。




