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(今日はなんて運の悪い日だろう)


 陽はまだ高く、雲の少ないよく晴れた空。しかしその下に広がる街、迷宮王都ロヴィーネの住宅区に存在する貧民街には背の高い建物が密集し、昼間でも陽はあまりささず常に薄暗い。

 その狭く、圧迫感のある路地裏をひた走る少女の姿があった。

 ぼろ布のような外套を頭からすっぽりかぶっていても、その華奢な体躯と高くもない身長は隠しようがない。特別珍しいわけでもない、こんな街にはどこにでもいそうな少女。物珍しいところがあるとすれば、その手に握る鞘に収められた短剣と、少女の後を追う一人の男の姿があるくらいだろうか。


「待てコソ泥!」


 男の姿は少女と比べると随分と上等だ。そこそこがたいのいい体に物珍しくもない古着を着て、その上から篭手や胸当てをつけた、軽装の鎧姿。街中であれば珍しくもない格好ではあったが、この貧民街ではあまり見かけない人種である。


(待てと言われて待つやつなんていないよ、間抜け)


 少女は心の中でそんな毒を吐きながら、ちらと後ろを振り返っては狭く入り組んだ路地を右に左にと走り抜け、男を引き離そうと必死だった。

 すれ違う人をかわし打ち捨てられた廃材を飛び越え速度を落とすことなく少女は走り続ける。

 対して男の身も軽い。軽装とはいえ鎧を身に纏いながら土地勘のある少女からつかず離れずでついていくその運動能力が彼が只者ではないことを物語っている。


(いつもだったらこんな風にばれることもないし、とっくに振り切れてるはずなのに……)


 普段なら商人を狙って小銭を掏り取る程度が少女の生業であったが、欲を出してこの男に手を出したのが彼女の失敗であった。

 まだ余裕のある男とは違い、少女は息を荒げ、必死に走っていた。何度も後ろを振り替えるその様子から焦りが見て取れる。もう体力が限界に近いようだった。

 やがて二人の追いかけっこにも終止符が打たれる。

 奥まった路地の曲がり角、そこでついに少女が疲れからか足を踏み外した。少女の黒い瞳が見開かれるよりも早く、眼前に迫った地面にしたたかに身を打ちつけ、華奢なその全身に衝撃を受けながら地面を無様に転がった。


「手間かけさせやがって」


 容赦なく少女に馬乗りになった男は、まだその手に握られていた短剣を無理やり取り上げ、ふと、外套のめくれた少女の顔に目を向けた。

 泥やすすに汚れた少女の体は衛生面で言えば綺麗と言えるものではなかったが、その顔立ちはこのような貧民街では珍しい美しく整った顔をしていた。珍しい黒く大きな瞳と、同じ色の伸ばしっぱなしの髪。殺意の篭った瞳とあいまって獣のようなその美貌。そうしてその顔にぴたりとはまるような犬の耳がその毛髪の間からのぞいていた。


「お前……半魔か」


 その少女の姿を見た男は少しだけ驚いた顔をしながらも、すぐに下卑た笑みを浮かべた。


「だからどうしたの! もう短剣は返したでしょう!」


 少女は圧し掛かられているという不利な状況であってもお構いなしに男に言葉をぶつけるが、男はそんな威勢のいい少女の態度にますますその醜悪な笑みを深くする。


「自分の置かれた状況をわかってるのか?」

「どうしようもない変態に組み敷かれてるって事だけはわかるわ」


 男を挑発するような言動を取りながらも少女の体はかすかに震えていた。獣の耳が生えていようと少女の力は常人のそれと変わらない。その細い腕と足では男の下から逃げ出すことは困難だ。


「よくわかってるじゃないか。もちろんお前みたいな半端者に何したってこの国で罰せられる事はないってのも知ってるんだろ? 顔だけは悪かないし、具合さえよければ少しくらいは恵んでやらんこともないさ」

「そんな半端者相手にしか出来ない乳離れも出来ない坊やからお駄賃もらうなんてごめんだね」

「その威勢がどこまでもつかな」


 男はもはや少女の言葉など聴くまいとその口を大きな手で塞ぐと、ぼろ布のような外套に手をかけて力を込める。

 あっさりと少女の瑣末な衣装は剥ぎ取られ、未発達な痩せた肌が露出する。


(なんでこんなやつに、好き勝手されて……いつだって、ろくな事がなくて……)


 少女は目頭が熱くなるのを感じて、歯を食いしばった。例えどんな事があってもこんな男の前で涙など見せてやるものかと、少女はそれでも強くあろうとした。男の方はむしろ、そんな少女の様子にさらに気をよくしていることも気付かず。

 震える少女の胸元に手が伸ばされようとしたところで、少女は目を瞑る。自分の体が男の好きにされるところなど見ていたくなどなかった。それでも覚悟だけは決めていた。気持ち悪さを嫌悪をしっかりと我慢して、反撃に打って出るその覚悟を。

 しかしいつまでたっても、男の指が少女の肌に触れる事はない。

 不思議に思った少女が恐る恐る目を開くと――鈍い鋼の色が視界を一杯に覆いつくしていた。

 少女の上に圧し掛かった男の喉元に、男の短剣が突き付けられている。

 いったい何が起きているのか。少女は不自由な首をなんとかめぐらせその短剣を握る相手を見上げた。

 短く揃えられた金色の髪に、緑の瞳、中性的な顔立ち。上等な仕立ての白を基調とした衣服。その上には男のものより上等な軽装の鎧。腰に下げられた細身の剣の鞘には細やかな意匠が見て取れる。胸当ての膨らみからようやく少女はその人物が女性である事に気付いた。


「あ、あんたいったい何なんだ」

「何と言われてもね、悪いがこの子は僕の待ち人なんだ」


 待ち人、と言われても少女にはそのような約束をした覚えはなく、どころかこの女性を見たのも初めてだった。この場にいて、自分が中心人物であったはずなのにいつの間にやら一人置いていかれている現状に少女は戸惑い、口を挟めずにいる。


「だからどうしたってんだ、この半魔が俺のを剣を盗みやがったんだ! 俺には制裁する権利がある」

「それは確かに問題だ、だがこの程度のナマクラ、君の首を突き通すくらいにしか使い道がなさそうだが」


 どこか芝居がかった台詞を吐いて彼女は手元の短剣を寝かせ少しだけ刃を突き出す。切っ先の触れた男の喉元に一筋、微かに血が流れ出し、男は情けない悲鳴を上げた。


「おっとすまない、思ったよりもいい切れ味じゃないか。よければこいつを彼女に譲ってはくれないだろうか?」


 空いている手で彼女は一枚の金色の硬貨を取り出した。それは男のなまくらな短剣とは比べるべくもない、人が一人遊んで暮らせるほどの価値がある金貨であった。


「いいのか?」

「聞いてるのは僕の方だと思ったんだけどね。どうだい譲ってもらえるかな?」


 男は目の前の人物の気が変わる前にと金貨を奪い取る用に乱暴に受け取ると、一目散にその場を走り去っていった。ようやく解放されて自由になった少女は痛む体を起こして彼女の方に向き直る。


「大丈夫かい? 怪我はないかな?」


 彼女が差し出した手を少女は取ることなく地べたに座り込んだまま鋭い視線を向けた。


「あんた何なの」


 自らの肌を隠し、体を守るように少女は短くそれだけの言葉を吐く。それはまるで餌を差し出す人間を警戒し、威嚇する獣のようにも見えた。


「失礼、僕の名前はソフィ・スパーダ。君の名前は?」


 聞かれて少女は一瞬だけ迷ったが、自身も名を告げる事にした。


「レスティ……聞きたかったのはそういうことじゃないんだけど」

「すまないね、どうにも僕は人の心の機敏に疎いようなんだ。君が何を聞きたかったのか教えてもらえるかな、レスティ」


 やはりどこか胡散臭さを感じる目の前の女性をレスティは警戒して睨み付ける。よく見ればレスティと然程歳は変わらないように見える、十九か、二十か、ソフィと名乗った彼女は、自らの外套をレスティに差し出しながら聞いた。

 レスティはその差し出された外套を受け取るべきか否か、少しだけ迷ってから何も言わず手に取り頭からすっぽりとかぶった。先ほどまでのそれとは違う上質な布のなめらかな肌触りはどこか居心地の悪さを彼女に感じさせた。


「いいわ、もう。ありがと」


 レスティは毒気を抜かれ礼を言って立ち上がると、ソフィを置いて一人歩き出す。下手に関わって面倒ごとに巻き込まれるよりも早くこの場を立ち去るほうが賢いとそう結論付けていた。

 今日の食い扶持だってさっきの失敗で稼げていない、昨日はなんとか暖かい食事にありつけたがその前は何も口に入れることが出来なかった。今日、明日はどうなかるもわからない、食べられるときに食べておかねば、いつ何がおきてもおかしくはない。それがレスティという半魔の少女の人生だった。

 今日は運が悪かった、でも生き延びる事が出来た。それよかったとレスティは思っていたのだが、歩き出したレスティの後を、ニコニコとした顔でソフィがついて来ている。

 最初はたまたま目指す方向が同じなのかと思っていたが、試しにと、レスティが来た道を引き返すと同じように彼女も立ち止まりついてくる。厄介な事になったと空を見上げる。これでは仕事なんて出来ようはずもない。

 レスティは立ち止まり振り替えると、ソフィの方を向いた。


「まだ何かあるの?」

「忘れ物ですよお嬢さん」


 とぼけた態度のソフィが差し出してきたのはあの男から買い取った鋼の短剣であった。


「それはあんたが買ったものでしょ」

「はい、貴方の為に買い取ったものです」


 目を細め笑顔でそう答えるソフィの態度に、レスティは憤りを感じる。恵まれた者のちょっとした偽善の心を満たすためだけに同情され、施しを与えられる事ほど腹立たしい事はない。

 その日の食い扶持にも困るような彼女であったが、誰かにこびへつらい、同情を買い、それで生き延びようというのは、どうしても我慢ならなかった。それは彼女の中に寝る獣の血がそうさせるのか、或いは彼女自身が持つプライドなのか、それは定かではないが。


「いらない、そんな安い同情。あんたなんかに施しを請ける義理はないわ」


 大声で叫ぶレスティの言葉をしかし、ソフィの方は気にした様子もなく笑みを崩さないでいる。


「何も同情と言うわけでもないんですがね。待ち人だと言ったように、僕は君の事を待っていたんです」


 まるで知らない相手にそんな事を言われたところで何か裏があるのではないかと勘繰るのが普通と言うものだ。受け取ったら最後、骨の髄までしゃぶられて翌日には路上で冷たくなっているなんて話、この街にならいくらでも転がっている。

 どう反応を返すべきかとレスティが思考をめぐらせていると、ふと、視界の端、通りの曲がり角に人影を見つける。普通の人間であれば気付かない程度に距離が空いてはいたが、彼女の目は常人のそれより随分と遠くを見渡せる。体力や運動能力は人並みである彼女であったがその五感の鋭さだけは魔物の形質を受け継いだのか人の範疇を軽く超えていた。

 男のあの時と同じような下卑た笑みが通りを三つ挟んだ向こうでも見て取れた。大方、目の前のこの能天気な女を襲ってもっと貨幣を巻き上げようとそういう魂胆だろう。

 無視して一人で逃げたほうがレスティにしてみれば自分への被害は少なかっただろう。ただ、気に食わない相手とはいえ、一度は助けられた身として借りの一つでも返すのが礼儀と言うものだ。


「走って」


 短い言葉とともにレスティはソフィの手をとると再び狭い路地を走り出す、遠く離れた男も気付いて走り出すのが分かるが、これだけ距離が開いていればあの男がいくら健脚とはいえこの入り組んだ貧民街に身を隠すことはわけのないことだ。

 急に手をひかれた事に驚きながらもソフィはしっかりとレスティの後へと付いて来ている。


「急にどうしたんだい?」

「さっきの男あんたの財布を狙ってる」


 小声で言葉を交わすと、ソフィはなるほどと頷き黙ってレスティの後をついて走った。

 程なくしてレスティの五感の感知の外まで男を振り切って足を止める。


「ここまでくれば大丈夫……」


 二人とも肩で息をしながら、しんどそうにしている。レスティは握っていた手を離すと一つ息を吐いてソフィへと向き直った。


「これで借りは返したから、今度こそお別れね」


 そう言って何の気兼ねもなくこれで別れられると、意気揚々とその場を去ろうとしたレスティの肩を、ソフィの手が力強く掴んだ。


「なによ、もういいでしょう」


 鬱陶しく思ったその手を払いのけようと身をよじってもがっちりと掴まれた肩からソフィの指が離れる事はない。


「いえ、やはり君が僕の待ち人で間違いなかったようで」

「はぁ……? 新手の宗教ならよそでやって頂戴、こっちは神に祈りを捧げる時間も惜しいの」


 苛立った声を上げたところでソフィの指に込められた力は弱まることもなく、その顔に浮かぶ笑みも以前揺るがぬまま。


「僕と一緒にお金を稼ぎませんか?」


 ソフィのそんな言葉に、レスティは一瞬だけ驚いたように口を大きくあけた後、


「はっぁああ?」


 素っ頓狂な声を上げて見せた。

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