008
綾子がこの世界にきてから五日、特に喋れる様になったとか、何か身の回りで変なことがおこっただとか、そんな特異なことはなく平穏に過ぎ去っていった。
この五日で綾子がこの世界に対して理解したことは、ヴィルヘルムが話して聞かせてくれたこと、それから自分の目で見たことだ。少し窮屈だけれどと言って取り付けられた首輪にはヴィルヘルム固有の紋章が刻まれているらしく、城の何処を訪れても綾子の存在を咎めるものはおらず自由に過ごさせてもらっていた。だからこそ、メイドたちが話すことや、庭師や料理長たちの他愛のない話からもこの世界のことを知ることが出来ている。
まず、この世界はやはり綾子の予想通り綾子が生まれてこのかた育ってきた地球には存在しない場所であって、こちらの世界の地図にも日本はおろか別の国の名前も無かった。言葉に関してはやはり皆が喋る言葉は理解できるのだが、小さな子供が最初に習う文字でも綾子には理解が出来ず未だ意志の疎通を取ることに苦労している。
不幸中の幸いだが、何故か皆綾子が言葉を理解していることは知っているので、頷いたり首を振ったり、それから手で指し示すなどの動作でどうにか意志の疎通ははかれていた。
そして、この世界には電気やガスといったものはなく、綾子が生活する上で触れていた文明の機器と呼ばれるものは何一つなかった。だが、その替わりといってはなんだが、魔法が発達し国民全員が何らかの魔法を日常的に使っている。その中でも王族の持つ魔力は強く、その魔力をもってしてこの国に結界を張り、国のメインとなるライフラインを補っていると聞いた。
なんてファンタジーと驚き、まさかと思っていたが、綾子の視線に気がついたヴィルヘルムが目の前で簡単な魔法を見せてくれていたので、魔法の存在は否定できないものとなっている。そんな世界だから、猫が喋れてもおかしくないのかと思ったが、時折ベランダに飛んでくる鳥は喋らないし、散歩がてらによった馬小屋では馬は綾子の知る様な馬しかいなかったのだ。
それに、ただ王子のお気に入りであって、珍しい猫であるからと言っても、綾子は自分が丁重にもてなされすぎていると感じていた。寝る場所は一日二日は抵抗してみせたものの、ヴィルヘルムの懇願やら他の場所へ行っても結局ヴィルヘルムの元へ連れ戻されてしまうことから諦めているが、ヴィルヘルムのベッドで眠っている。食事も王子と一緒に食事をとっていいのかと思ったが、当然のように用意されるのだからそれでいいのだろうと気にしないことにした。
ランドリー室に迷い込んでも、手入れの行き届いた庭を訪れても、調理場に行っても、誰も綾子を咎めはしない。王子のお気に入りであったとして、綾子が言葉を理解していると知っているからとして、そんなにも寛大に応対されるとどこか気持ちが悪い。これはやはり、この国の人と綾子との間で猫に対する認識のずれが言葉以外にもあるのだと、教えられた気分だった。
綾子はこの三日で定位置となりつつあるバルコニーで日向ぼっこをしている。ぱたぱたと尻尾を振って考えごとにふけっているのだ。
今考えていることは言葉が喋れたらいいのに、ということ。そうすれば意志の疎通も簡単になるし、何よりもヴィルヘルムの願いを叶えることが出来る。ヴィルヘルムはやはり綾子が喋り出すことを諦められないのか、今でもまだ喋れないかと尋ねていた。何故そこまでして名前を知りたいのか、その理由をヴィルヘルムは話していない。もしかしたら話すほどの理由では無いと思っているのかもしれないが、意図的に隠しているのかもしれないと地面を叩いていた尻尾が空に円を描く。
綾子から質問を投げかけることはできないから、必然的にヴィルヘルムが語ることしか聞けないのだが、その話題の中には猫のことも、何故名前を尋ねるのかと言うことも一度だって出てこない。ヴィルヘルムに教えてもらったことはこの国や世界のことと、魔法についてのこと。そして、自分が次期国王であるということだった。
意図的に隠しているのなら、ヴィルヘルムの願いを叶えたいと言う思いだけで言葉が喋られるようになって名前を明かすのは危険だろう。だが、只単に名前を知りたいという理由だけだったら教えても構わないはずだ。
そう、これから仲良くしようとする相手に名前を尋ねることはおかしなことでは無い。現にヴィルヘルムは最初に名乗っているし、庭で偶然であった王妃からも自己紹介されている。それはこの世界でも相手に名を名乗ることが普通だとそう教えられているようだった。
けれど、言葉を喋れること、それは重要なことだ。今の綾子にとって相手に伝えられることはイエスかノーかそれだけなのだ。だから聞きたいことも聞けないし、詳しく聞きたくても話を掘り下げることすらできない。
言葉を喋られるようになったらきっとヴィルヘルムは名を今まで以上に尋ねて来るだろう、これは予想ではなく確証を持って言えること。だが、目的を明かすまで名前を告げなければいいのだ。
名を告げるか告げないか、それはきちんと知りたいことを尋ね、教えてもらってから結論をだしても遅くは無い。だって、もしかしたら名前を教える代償はとても大きなものかもしれないのだから。大きな代償があるのなら、綾子が疑問を覚えるほどの丁重な扱いにも頷ける。
綾子はヴィルヘルムに一目ぼれをしたのかもしれない。だって初めて顔を合わせた時よりも今の方がヴィルヘルムと顔を合わせると確実に綾子の心臓は早鐘を打つようになっていた。だからといって、この世界をとるか、生きてきた世界をとるか、それを直ぐに決められるほど綾子の気持ちはまだ傾いていない。
尋ねなければと思っていることはいっぱいある。それらをすべて尋ねて答えを得てからでなければ綾子は動くことが出来ないと考えていた。感情だけで突っ走れるほどもう若くないとそこまで考えて……学生の綾子が羨ましいと言っていた姉が聞いたら怒りそうだとくすりと笑う。
何故この世界にいるのか、どうやってこの世界に来たのか、帰る術はあるのか、元の世界はどうなっているのか、今思いつくだけでも聞かなければならないことが次々と思い浮かぶ。気がついたらこの世界にいた綾子にとっては、どうして異世界へと来てしまったのか、そこから知らなければならないのだ。
それに、こういった異世界トリップでのセオリー的に魔力を使って戻る術があったとしても、その消費魔力は膨大なものになるのだろう。ならば、大きな魔力を持っていると言う王族の手を借りなければならないし、最悪ライフラインや結界を張る為に消費されている魔力を綾子の為に使ってもらわなければならない。
その影響と代償はどれ程のものだろうかと、想像するだけでもため息をつきたくなる。そして、そんな大きな代償を払ってまで元の世界に戻してもらえるかもわからない。
もしかしたら……否、そこまで考えて綾子はゆらゆらと動いていた尻尾を地面に下ろした。