005
ヴェストラでの食事風景を見てきた綾子は箸は使いづらいだろうとフォークとスプーンを用意していたが、綾子が使う箸が気になったのかじっと手元を見つめられたものだからヴィルヘルムにも使ってみるだろうかと箸を渡し持ち方や使い方を今までと立場が逆だなとそんなことを思いながら教えたのだが、最初こそうまく扱うことが出来なかったがやはり元々器用だったのだろう、ぎこちない部分を残しながらも綾子が並べた夕飯を完食してくれた。
フォークなどを使用しているだけあってヴェストラでは綾子の感覚からして洋食というか中東あたりというか異国情緒を感じるメニューが並んでいたため、純和食といった夕飯のラインナップは物珍しく口に合っただろうかと様子をうかがっていたが、見ていた限りでは大丈夫そうだ。食後に出した玄米茶もおいしそうに飲んでいる。
綾子はご相伴にあずかっていないが、仕事の合間だとかティータイムに飲んでいたのが紅茶のようなものだったので珈琲よりはなじみがあるだろうと選んでみたが正解だったようだと綾子はこれから話す内容のことからくる緊張で乾いた口の中を潤すため実家でも愛飲していた玄米茶を口に含んだ。
「ねえ、ヴィリー。色々と聞いていいかな?」
あちらの世界に行って、こちらに戻ってきた時には綾子自身は記憶や絆が増えただけでそれ以外はなにも変わっていないと思っていた。けれど、それは間違いだと気がついたのは今までの日常を繰り返している中でのこと。以前よりもまわりの気配に敏くなっただとか、未来予知とまで大それたことではないがスマホの鳴るタイミングがわかるとか曲道で誰かがくるのがわかるそんな小さなことかもしれないが、それでも変わったと自覚ができるほどのことではあった。
ヴィルヘルムたちが言う「ネコ」が綾子の認識している猫とは違うと生活をする中で理解している。それは彼等の言動からというよりもどこか本能的に感じ取っていたのかもしれない。だからこそ見極めなければと慎重になって名前を名乗ることを戸惑い先延ばしにしていたのだろう。なにも思っていなければヴィルヘルムが名乗った時にそれまで生きてきた中で対応していたように綾子も名乗り返していたはずなのだから。
「うん、いいよ」
ヴィルヘルムは綾子が目の前から消えて絶望しかけたが、取り戻す為に生死をかけて次元を渡ってきた。絶対に取り戻すそう強い意志を持って、単独で行動を起こし一つでも間違えれば死んでもおかしくない行動は王位を継ぐ者として現時点で自覚をもっていながらありえない振る舞いだっただろう。だが、そうまでしてヴィルヘルムにとって綾子は失えない存在になっていた。
自らの生まれた世界へ連れ帰る、その強い思いや感情は綾子を目の前にして、傍にいて、薄れていく。無理やり自ら生まれたあの世界へ連れて行くなんてできないと綾子の世界を見て、その肌で感じて、この小さな部屋の中からも感じられる綾子の家族からの愛や綾子の口から語られる思い出が全てヴィルヘルムから強い感情を奪い去っていくのだ。結局、ヴィルヘルムの血族は王族として在り続け国を護るという使命を背負いながらネコを犠牲にすることが出来ないほどにネコ馬鹿なのだと自覚をする。
過去にネコと国を天秤にかけなければならない王や王女はいたのか、ヴィルヘルムの知る限りではいなかったと記憶していた。だが、こうして時空を渡ることができたのであればヴィルヘルムの様に時空を渡り国から忽然と消えた王族がいたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。
「私がこの世界を去ったら、どうなるの?」
行方不明になるのか、死亡扱いになるのか、それともなかった存在とされるのか。できれば、家族や仲のいい友達が悲しまなければいいと思うけれど、忘れられることも寂しい。綾子がこの世界に戻ってくる切っ掛けとなったあの雨の日の出来事は力が強いとされているヴィルヘルムですら手も足も出なかったことから尋常ではない力が働いていたのだろう、ということはこの世界の移動は気安くできることではなく、次はないものと考えて間違ないはずだ。
「……正直なところわからない。前例がないんだ」
ヴィルヘルムの世界ではあの泉によって失せたものは忘れられもせず、死亡した扱いにもならず、失せたと認識がされていた。だが、あの泉によってもたらされたものがヴィルヘルムたちの世界と同じ扱いなのか、他の世界でどういう扱いになっていたかなどわかりもしない。
「そっか、ヴィリーでもわからないんだね。私がここに戻ってきた時、日付けが……ううん、時間も進んでいなかったの」
ヴィルヘルムと過ごした一か月ほどの時間、同じぐらいの時間が経っていると思っていたのに正確な時間など覚えていなかったがもしかすれば一秒たりとも時間は進んでいなかったのかもしれない。綾子がこの世界にいない間、この世界の時間が止まってしまうのか、もしくはあちらの世界から戻ってくる時に必ず世界を移動した時間に戻ってしまうのか。一か月程度では綾子自身の髪が伸びたとか年をとることもなく見た目でわかる変化はなかったが、侵入者との騒動で壊れた時計やまだうっすらと残っていた傷跡はそのままだったことから綾子の身体はあちらの世界で過ごした時間が無かったことになっていなかったのだろう。
「それは僕の世界と時間の流れが違うのか、それとも移動する時間軸が移動した時点に固定をされているのか、なのだろうけれどこればかりは実験や研究を進めないと答えを出せない」
事実、ヴィルヘルムもこうしている最中にも元の世界がどうなっているのかなんて一かけらだってわからない。もし、帰れたとして綾子と同じように時間の進んでいない元の世界に帰るのか、それとも次期国王とされるヴィルヘルムが消え騒ぎとなっているだろう中へ帰るのか。次元ではなく同一世界の中で行われた実験では対象物の存在が瞬間的に消え、唐突に離れた場所に姿を現した。瞬きをするような短い間ではあったが、確かに対象物は世界の中から消えていて、その消えた瞬間どこに存在していたのかはまだ誰も説明ができていない。
同じ現象がこの時空を渡る際にも起こるのだとしたら、ヴィルヘルムの存在は魔力を辿ることもできず消えたと判断されているだろう。神官長かもしくは魔術師長であれば次元渡りに気がついて痕跡を追うことができているかもしれないが。
「ねえ、ヴィリーは、……帰れるの?」
自身がヴィルヘルムを選ぶための質問をしていたが、返ってくる答えに綾子は今、目の前にヴィルヘルムがいること自体が奇跡なのではとぎゅっと膝の上で手を握った。ヴィルヘルムが現れた目的は綾子を迎えにというよりは助けにきたと言ったところだろう。別れ際、綾子は助けを求める様にヴィルヘルムに手を伸ばしていた、声は届いていなかったかもしれないが名前を呼んで、ずっとその目を見つめていたのだ。最後に見えていたのは感情を剥きだしにして見えない壁に両の手を打ちつけているヴィルヘルムの必死な様子。
「どうだろう、良くて半々といったところだろうね」
安心させるようなそんな笑みを浮かべてゆったりと言葉を紡がれたけれど、その笑みが余計に綾子の心をえぐる。半々と言いつつも良くてなんて表現をするということは無事に帰れる見込みなんて少ないということだ。大国の王太子で、周りの人たちからも慕われていたヴィルヘルム、まだ学生身分の綾子よりも重圧や責任をその肩に乗せて平然としているような人だった。父親である国王、それを支える母の話、兄や姉、下の弟妹たちのこと、国の行く末や隣国のこと、綾子が尋ねた話もあったがヴィルヘルムからは色々な話を聞いてこんな人が人たちが治める国ならばとてもいい国なんだろうとそう感じていたのに、その未来を刈り取ってしまった感覚に陥る。
「そんな顔をしないで、アヤ」
握り閉めていた手が痛くて涙が滲みそうだが、けれどそれ以上に泣けてくるのは自身の不甲斐なさだ。答えは本当はもう出ていた、ただ選べなかったのは覚悟がなかっただけ。家族や友人、生きてきた世界を選ぶ選ばないではない、ただヴィルヘルムの横に並び立つ覚悟がなかった。
「……だって」
「王太子として褒められた行動ではないことは僕自身がよく解っている。でも、この状況で動かないのも王族としておかしい。皆、わかっているさ」
ネコのためにその身を滅ぼした王族はさかのぼれば何人か名前があがる。王妃として資質のあった令嬢が実際に王太子のネコとして選ばれ王妃としての教育を受ける中で心が折れ王太子共々、国から姿を消してしまったことがあった。既に王位継承権を放棄した中でも盗賊などに襲われ感情の制御のできなくなった者もいたと聞く。
「それに、今ここにいるのは僕の判断であって、アヤにはなにも責任はないよ」
「それでもっ、私がちゃんと答えを出していたらヴィリーは危ないことしなくてもよかったんでしょう?」
答えは出ていても、それを口に出す勇気はなかった。ウィルヘルムが危険を冒してまで行動を起こして再び出会えた今でもまだその手を取ることへの戸惑いが拭い切れないでいる。
両親に読んでもらった絵本や童話、自ら手を伸ばしたフィクション、ノンフィクションなどの多ジャンルの小説に漫画、授業でふれた古文や現代文、今まできっと人よりも多くの文学に触れてきた。その中で夢を見るような恋もあればドロドロとした人の醜さが浮き彫りとなった恋の話、全ての恋が実ったわけではなくて綾子の様に二の足を踏んで希望も夢も全て失った物語、もし自身がそんな立場になったのならそんな妄想をしたことがある。
――主人公たちと同じ行動を取るのか、それとも選ばなかった選択肢を選ぶのか。
綾子は自分の心を落ち着けるようゆっくりと息を吸いこむと、伏せていた視線をしっかりとヴィルヘルムへと向けた。
「ヴィルヘルム、お願いがあるの」