004
綾子の家へ向かう最中もやはりというかヴィルヘルムは注目の的だった。隣を歩いている綾子の姿を見てなんで隣にいるのがお前なのかそんな目で見てくる相手もいたぐらいだ。少し距離をとろうと歩く速度を遅くすればヴィルヘルムはすぐに気が付いてさりげないエスコートで綾子の手を引いて歩く速度を緩めてくる。
「アヤ、どうして後ろを歩こうとするの? そんな必要はないでしょう」
王族であるヴィルヘルムにとって後ろをついて歩く存在というのは護衛であったり家臣であったりと幼い頃から見てもいたし、自身にもつけられていたものでもあったから違和感というものはない。だが、綾子はそういった存在ではなくて隣に並び立つ相手として認識をしている。まだ答えをもらってはいないけれども、綾子でなければ今後一切、生涯を共に歩みたいと先を考えられるネコは現れないとそう確信をしていた。
「だって、なんだか周りの目が」
大学構内でもあんなに注目を浴びていたが、そことはまた質の違う視線に尻ごみをしてしまう。周りの目というのがあまり気にならない方だと綾子自身は思っていたのだがここまであからさまに見られたりだとか、睨まれるに近い目で見られたりするとやはりその視線が気になってしまうようだ。
「周り? あぁ、直接言ってこないのであれば、それは無いものと同じだよ」
注目を浴びることは往々にしてある、社交界へのお披露目、成人の儀を行う際の挨拶、無事終えた際の報告、誕生日やその他諸々の式典、祭典と王族が駆り出される場所は多かった。国として成り立ってから永きにわたり平和を保ってきた王族として民に慕われているが、それでもすべてを護りきってきたわけではないし、他国に逆恨みをされたこともあれば、豊かな土地を略奪しようと戦をしかけられたこともある。
そうして、憎しみや殺意のこもった目を向けられたこともがるがそんなものは気にするだけ無駄だとヴィルヘルムは学んだ。王族として民の声や国の状況そういったものに対しては敏感でなくてはならないが、全てに気を張り巡らせていてはいつか限界がきてしまう。そうならないためには多少鈍感な部分も故意に作りださねばならず、ヴィルヘルムはただ目だけで訴えてくる恨みや妬み、殺意それら負の感情に対して無いものとして扱うようになった。
「そ、そうは言っても」
「だって、言いたいことがあるのなら言えばいいし、殺したいと思うのであれば直接刃を向ければいい」
相手が関わってくるのであれば相手になるだろうし、簡単に殺されるつもりは無い。膨大な魔力を持っているからこそ無いものとして扱うことが出来るのだが、このことをそうした方がいいとヴィルヘルムに教えたのはいの一番に王位継承権を放棄したニの兄、イレネオだった。どこか飄々とした雰囲気を持った兄は自我を持ち始めてすぐに王位を継ぐことはないと両親に伝えたと聞く、そして王位を継がないからと留学をし見聞を広め多くの友を作り今では彼が得たネコと共に貿易を主軸とした商会を切り盛りしている。次元を渡るために多くの魔力が必要になるそう考えたヴィルヘルムが急遽上質の魔石を幾つも用意できたのはイレネオに無理を言ったからだ。
「それに、僕はアヤに隣にいて欲しい。以前は横を歩いてくれていたじゃないか」
横というよりもっぱらあなたの腕の中でしたと思わずヴェストラで過ごした日々が綾子の頭の中を過る。こちらの世界では時間は数十分ほどしか経過していなかったが、綾子がヴィルヘルムと過ごした時間は一か月ほど、それも出会いや事件と様々なことが起こっていて濃密な時間だっただろう。
「アヤ、お願い」
ヴィルヘルムへの想いを自覚した綾子にそのお願いを断ることが出来なかった。自然にさしだされている手に手を重ねれば周りも見惚れてしまう笑みを浮かべてヴィルヘルムは歩きだす。不思議な街並みでものも一杯溢れているけれど、星が見えないねとそう言ったヴィルヘルムに綾子は数日前に見た夜空を思い浮かべてそうだねと返していた。
*****
「本当にヴィリーなんだよね。まさかまた逢えるなんて思わなかった」
元の世界へ唐突に帰ってきて再びヴェストラへ行くための手がかりを探していたとはいえ、最初の時にどうやってあちらの世界に渡ったかもわからず、本当にわからないことだらけで探しものも明確な形やゴールなんてなくて闇雲に探しているようなもので心のどこかで自力であちらの世界へ渡ることはもう不可能ではないかと考えていた。
もう二度と逢えないその悔いた気持ちや、まだ二十年余りを過ごしてきたこの世界を離れる覚悟を完全にはできてはいないけれど、それでもどちらを選ぶのかその答えはもう出している。だが、あちらの世界をヴィルヘルムを選んだとしてこちらの世界で綾子の存在がどうなるのか分からないし、家族や友人たち、一人暮らしをしている家だとか大学のことだとか考えなければいけないことは山のようにあった。
それでも、どちらかを選ばなければならないのなら――
「――逢えて嬉しい」
猫がどういった存在なのか明確にまだ説明を受けていないが、綾子が過ごした中で感じ取ったのは王族にとって猫は唯一無二であり、人から猫の姿になった時点で王族の婚約者候補になるのだということ。現国王の妻であり猫である王妃だったり、ヴィルヘルムの弟など既に自身の猫だと紹介をしてくれたりもしていて王族が猫にたいしてどのような態度をとっているかを知っている。
ヴィルヘルムだってそうだった、甘やかすだけではなかったけれど綾子のことをとても大切に慈しんで接してくれた。名前を教えて、名前を呼んでとずっと笑顔であったけれどその目は真剣で懇願にすら聞こえていたのは気の所為で無いのだろう。
「アヤ?」
「お腹、空いてない? 簡単なもの作るから少し待ってて」
名前を尋ねられてそれに応えるかどうか答えを先延ばしにしていたのは綾子だ。答えを出せばどちらかを選択し、選択しなかった方を捨てることになると、もう二度と会うことができないのだと知りたいと考えていながら答えを遠ざけていた。
ヴィルヘルムの加護のもと過ごしていた日々の中で家族や友達のことを思いだすことは確かにあったがこちらの世界に戻ってきてヴィルヘルムにもう一度逢いたいと充てられる時間を可能な限り使って砂漠の中から砂金一粒を探しだすような確率の探しものをする程の熱を持っていたかと尋ねられれば答えは否だ。
冷蔵庫の中を確認しながら綾子は薄情な娘だと表情を少し歪める。先日、母親から送られてきたのは米や野菜といった食料、それから綾子が好きな母親お手製の甘めの味付けをされた肉じゃがや他のおかずに比べて濃い味付けをされたサバの味噌煮が一緒に入っていてまだその残りが冷蔵庫には入っていた。
ご飯は冷凍をしていたものおかずもメインは肉じゃがで、他はと下ゆでをして凍らしておいたホウレンソウと卵を取りだしてシンクの前に立つ。後ろから視線を感じるけれど、話しを途中で終わらせた様な態度を咎めるというよりは物珍しいものを見るような視線だった。
一人暮らしをしているから食器はあまりそろっていないが、それでも遊びに来た友達に食事を振る舞うこともあったので二人分の食事をよそう食器はちぐはぐな感じは否めないが準備はできる。一人暮らしをする際に母から持って行きなさいと渡されたエプロンはベースは既製品だったが綾子の体型に合わせてサイズ直しやポケットの改良などがされていてお気に入り。
鍋に水と粉末出汁を入れてコンロにかけ沸騰させる、その間に冷凍ご飯をレンジで解凍させて必要な調味料をシンクの上に準備する。解凍終了の合図が鳴ればヴィルヘルムが驚いた顔をしていたが、あちらの世界ではこんなけたたましい音を聞いたことが無かったなとくすりと笑えばヴィルヘルムの頬がうっすらと赤くなった気がした。
解凍したご飯は茶椀に盛りつけて、つづいて肉じゃがを器によそってラップをかけてレンジの中へ。ボールへ卵を割り入れてある程度溶いていれば鍋の中味が沸きつつあるのであと少しとレンジの前へ移動、中を覗き込めば湯気が立ちこめていて十分あったまっていそうだったので少し早いがと取りだして傍に置いていたご飯とともに先に机の上に並べておくことにした。
「おいしそうな匂いだね」
ヴィルヘルムからしてみれば物珍しいものばかりで埋め尽くされた世界。だがその物珍しいものを綾子はあって当たり前といった様子でこちらが綾子の世界なのだと見せつけられているようだった。この部屋の中は綾子の気配が染みついているがそれでも不思議な音を鳴らす物体や、食材がしまわれていた箱など見たことのない物で溢れている。
「これね、私のお母さんが作ったものなんだ。ちゃんと料理してるのって送ってきてくれたの」
料理やお菓子作りは母親の影響で小さなころから好きだった。惣菜を買ったりコンビニにお世話になるのもいいけれど、それだと栄養が偏ってしまうかもしれないから自炊もしなさいと言われたこともあって綾子はできるだけ自炊をするようにしていたが、課題が重なってしまったり、試験期間中はどうしても手抜きになってしまう。長期休暇中に帰省した際にやっぱりお母さんのご飯が美味しいなんてしみじみこぼしたのがこうして母親手製のおかずが届けられるようになった切っ掛けだろう。
「……アヤの母上」
「そう、うちのお母さん料理上手なんだよ」
父親もめったに寄り道をせずにまっすぐ家に帰ってきていたのは母親の手料理が目的なんだなんて茶化して言ったことがあったが、そうだとしっかりと頷かれてのろけられた時には娘としてどう対応したものかと困惑したものだ。
「そうか、とてもいい母上なのだろうね」
ふわりと笑ってそう言ってくれたけれど、その笑みはどこか寂しさを感じさせるものでどうしたのかと問いかけようとしたがシンクの方から吹きこぼれた音がして綾子は慌てて火を止める為に走りだして聞きそびれてしまった。
沸騰した鍋の中に凍ったままのホウレンソウを入れていい具合に解凍されれば火を止めて味噌を溶かし溶いていた卵を流しいれ再び火をつけて卵が固まればみそ汁の出来上がり。器に盛りつけて、箸やフォークにスプーンなどもお盆に乗せて戻ればヴィルヘルムは先ほど感じた寂しさなど微塵も残していなくて見間違えだったのかなと聞きそびれたことを口に出すことがはばかられた。