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猫が顔を洗った日  作者: 佐奈
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002

 ヴィルヘルムの見たことのない素材で構築された建物、意図の分からないオブジェに溢れた外界。綾子の部屋もそうであったが本当に異世界に渡ってきたのだと改めて実感をする。人の姿もちらほらと見えるが、皆が揃いもそろってヴィルヘルムのことを二度見していた。この世界、日本では珍しい髪色と瞳、美形に部類される容姿、そして中東かどこか中世を思わせる服装をしているからなのかもしれないが、それすらヴィルヘルムの目には入っていない。ヴィルヘルムの頭にあるのは綾子の元へ行くことのみ。

 入り組んだ迷路の様な道、ぶつかればひとたまりも無さそうな速度で走る見たこともない箱、周りの人の行動に合わせどうにか道を進んでゆくが魔法が使えればそればかりを考えてしまう。魔法を使い、綾子の居場所を探りそこまで移転をする、次元を渡った今、同じ次元内での移動ぐらい簡単に出来てしまいそうだった。だが、この魔力を一切感じない世界では無暗に魔法を使うことが出来ない。生まれ育った世界であれば消費した魔力は外から吸収し蓄積をしていたが、この世界ではそれをすることが出来ないのだ。二度目の次元渡りのことを考えれば魔力は一切の無駄遣いが出来ない。

「あそこだ」

 随分と走り目的と定めた場所が目視出来た。低い建物が立ち並ぶ中、背の高いレンガ造りの様にも見える建物がいくつか建った場所。大まかな位置しか特定をしていないが、その範囲程度であれば探し出せると自信があった。あの姿を目の前で失ってからヴィルヘルムにしてみれば十日程、こちらの世界ではどれ程の時間が流れているかは分からないが、無事に暮らしているだろうか、泣いていないだろうか、まだ覚えていてくれているだろうかそんな思いがこみ上げてくる。

 争いのないと言っても過言ではない国に生まれ、世界でも有数の魔力の持ち主であるヴィルヘルムは争いごとに巻き込まれようが、刺客を送り込まれようがその身に宿す魔力だけでもどうにかできるだけの実力を持っていた。だが、それだけでは駄目だと己を律し武にも精進をし身体は鍛えていたが、実際のところ一時間強の時間を走り続けていて息が上がっている。

 綾子の居場所を突き止める為に指定した範囲の縁まで辿りつくとそこで足を止めた。走ることを想定しない履物を履いていて足の裏が痛い、走ったり止まったり、坂道を下ったり上ったり、準備運動も無しに走った所為か脇腹にも疼くような痛みがある。だが、もうすぐそこに綾子の気配がある、それだけで回復するはずのない魔力が回復する様で苦笑がこぼれた。

「アヤ、もうす……」

 己を律することは幼いころから教え込まれている。

 喜びや楽しさといった正の感情であればまだいいが、憎悪や悲しみそういった負の感情には一層気をつけなさいと。負の感情に飲み込まれられたら小さな魔力を持つ者であれば対処し元の姿へ戻すことができるけれど、王族クラスの魔力を持つ者であればその命を絶つしか元に戻す方法は無い。だから己を律することをまず覚えなさいと。


「――アヤっ!」


 身につけている服は違うが、少しの間だけ共に過ごした人の姿をした綾子の姿がヴィルヘルムの視界の範囲にあった。それも、見知らぬ男に手首を掴まれ逃げようとしている姿。

 ――触るな

 醜い感情が心を支配する。駄目だとブレーキをかけようと試みる反面、感情の赴くままそこへ突っ込んでしまえばいいなんて考えてしまう。呼びなれた名前、思いのほかその声は大きくて辺りに居合わせた人々は思わず歩みを止めてしまう程であった。

 綾子の方もそんな声に気が付いたのだろう何かを探すように視線を彷徨わせ、そして正門あたりに立つヴィルヘルムの姿を見つけじっと見つめている。

 もしかしたら男は綾子の知り合いなのかもしれない、ただ少し喧嘩をしているのかもしれないそう荒れてしまいそうな心を落ち着けるようヴィルヘルムは幾つもの理由を思い浮かべ、急かす心とは裏腹にゆったりとした歩みで綾子の下へと近づいてゆく。

「ヴィリー、どうしてここに?」

 話す言葉は通じていたが、使われている文字はまったく違うものであった。文学に精通し、趣味も相まって古今東西問わずに読み漁り様々な言語に手を出している綾子でも知りえない文字を使用していた国。そして綾子の知る限り、歴史上のファンタジー要素とも言える魔法が当たり前の様に存在していた世界。それはまさしくこの地球上にはあり得ない場所であり、綾子の知る言葉で言えば異世界、パラレルワールドそんな言葉がしっくりくる場所だ。

 そんな世界に行く方法など綾子の生まれ育った世界では確立されていないし、あちらの世界でも確率はされていないはずである。もし方法が確立されているのであればヴィルヘルムのことだから綾子が望むのならこちらの世界に帰すこともできると提案ぐらいしてきそうだとそう思うからだ。

「アヤ、無事だったんだね。よかった」

 最後に見た時、とても驚いた顔をしていたし雨にも濡れていた姿が蘇る。泉の力によって連れてこられ連れて帰られたとはいえ、あの不安定な空間を渡らされたのだ何かあったらとずっと不安を抱えていた。だが今目の前にいる綾子は五体満足であるし、顔色もいい。

「は? 誰だお前、外人か」

 金髪に碧眼、アオザイの様な服装からすらりとした躯体だと分かるが決して華奢な訳ではない。見た目だけならそう判断するのだが操る言葉はとても流暢な日本語であった。

「アヤが嫌がっている。それに女性の手をそんなに力任せに掴むものではないと、僕は思うよ」

 と、やんわりとした所作ではあったが綾子の手首を掴んでいた男、仙道が表情をゆがめるほどの力を持ってその手は外された。

「俺はこいつと話してんだ、てめぇにゃ関係ねえだろう」

「アヤ、本当?」

 感情任せにわめいているそんなことが他人の機微に鋭くなくても分かる様な声であった。ヴィルヘルムは綾子を庇うように己の隣に立たせると本当かと尋ねる。綾子は無遠慮に痛みを覚えるほど掴まれ色が変わってしまった手首や感情任せの大きな声に籠もりの日最終日に襲われたことがフラッシュバックし思わずヴィルヘルムの腕にしがみついた。

 話しをしていたと言えば話していたが、綾子には会話を続ける意思は無かったのだ。本当は閉館ぎりぎりまで調べ物をしていたかったし、仙道がいなければもっと調べられる時間は確保できた。サークルの先輩でありただの他人と言うわけでもないから話しかけられれば受け答えはしていたが実際には邪魔をしないで欲しいそんな思いがずっとあった。仙道のことは好きだった、だが恋愛感情としての好きという感情ではなく本当にただサークルも学業も、バイトも様々なことを上手くこなし、コミュニケーション能力も高く凄いなと単純な憧れだったのだ。

 勝手にこんな人というイメージを持っていて、実際の人となりを垣間見て幻滅することは申し訳ないとは思うのだが、ここまで我を通そうとする人が綾子は苦手だった。

「違うとアヤは言っているよ。本当に、話をしていただけか怪しいね」

 話をするだけなら何処にこんな力いっぱい手首を掴む必要があるのだと、ヴィルヘルムの腕を掴む手を撫でた。ここまで相手を拘束しようとする理由は、手を放せば逃げられると分かっていたからだろう。

「てめえこそ、後からしゃしゃり出てきて何言ってやがんだ」

 片や友好関係が広く、構内には知り合いの多い仙道、この大学の学生ではないにしても目を引く容姿をした流暢な日本語を操る外国人、それだけでも目を引くと言うのにその場にいる三人の様子はどうも穏やかではない。三角関係か、修羅場かと野次馬と化した通行人たちが興味深そうにヴィルヘルムたちのことを遠巻きに見ていた。

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