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「アヤっ」
意識を取り戻したヴィルヘルムは彼のネコになる予定だった彼女の愛称を呼び飛び起きた。予想通りまだ平静は取り戻せておらず、幾重にも張られた結界でも吸収しきれなかった魔力が部屋の中に充満しヴィルヘルムより劣るとはいえ王族有数の魔力を保有しているアルノシュト夫妻でも圧迫感を覚える。
アルノシュトは魔方陣を展開させると結界の補強を行い他の者が部屋へ入ってきても大丈夫な様環境を整えた。
「どこへ行こうというんだ、ヴィルヘルム」
何処か遠くを見る目をしていたかと思えば、ベッドから飛び出し駆けだして行きそうなヴィルヘルムを止める。だが、その目はアルノシュトを見ていない。
「アヤがいないんだ」
肩に手をおき、ベッドへ腰かけるよう促せば抵抗はされず、大人しく腰を落とす。そうして、顔をのぞきこめばその目はうつろではあったが狂気は宿していなかった。ネコを失いはしたがまだ狂いきってはいない証拠だ。
もし、ヴィルヘルムが狂ってしまえば、それは国の脅威にしかなり得ない。王族としては国の脅威は退けなければならない、その脅威が王族から出たものであればなおさらに。だが、早くネコを得て心の拠り所が出来ればいいと思っていた弟がそうなるのは哀しい。
「なら、探そう。私も手伝う、皆ももう動きだしているはずだ」
失われた、そう表現されていて亡くなったとは言われていないなら死んでいないことを願うばかりだ。王族の力を持ってしても防げず失せたものを取り戻す手立てはそう簡単には見つからないだろうが、僅かな可能性でも今のヴィルヘルムには必要だ。
「そう……そうだ、探さないと、だって――」
アヤは手を必死に伸ばしていた。
そう、最後に見た綾子はヴィルヘルムに向かって手を伸ばしていたではないか。
ヴィルヘルムが茫然自失にはなりはしたが狂わなかった理由、それは綾子が最後までヴィルヘルムに手を伸ばし助けを求めていたからだった。綾子は望んで失せてしまったのではない、手が届けばこの世界に、この腕の中に留まっていたのだと言う希望があるからだ。もし、あの時別れを告げられていたらこうしてヴィルヘルムが目を開けることはもう無かったかもしれない。
「まずは、お前が平静を取り戻すことから始めよう。お前がその状態では近づける者が少なすぎる」
この状態のままではヴィルヘルムが移動するたびに結界を張るか、人払いをしなければならない。それに、何時までもこの状態でいることはヴィルヘルムにとっても好ましいことではないのだ。魔力は体内でつくられるものと、外部から補給されているものがあるが、八割がたは体内で作る魔力である。ヴィルヘルム程の魔力があればそう簡単に枯渇してしまう心配はないが、それでもいずれ供給が間に合わなくなり命を危険にさらす。
「……」
「冷静にならなければ見えるものも見えない、そうだろう」
ヴィルヘルムが生まれるまでは王位継承者として周りも自身も認識をして育ってきたアルノシュトは有能な教師としてヴィルヘルムへ様々なことを教えた。魔力や感情のコントロール、国のこと、政治のこと、そんなこともあり弟たちの中で一番付き合いがある。
「……わかっては、います」
一度落とされた意識は、少しだけ平静を取り戻していた。その少しできた余白はこれから何をすべきか、どうするのかといったことを考えさせる。兄が言う様に今の状態では何をやってもいい結果を生み出しはしないことは分かるが、それでも抑えられないのだ。
こんなことは生まれて初めてだと、引き裂かれる様な、もやもやした様な感覚のある胸を引き裂いてしまいたかった。
「そうですよ、貴方しか知りえない情報もあるのですからしっかりして頂かないと」
現れたのはジルベールだった。その後ろには宰相や評議会のメンバーの姿も見える。まとめられる面子を全て集めたそんな顔ぶれだ。
「神殿の書庫ひっくり返す用意は整っていますし、評議会も招集しました。他の手筈も整えつつあります」
「嗚呼、ジルベール。相変わらず仕事が早いね」
アルノシュトはこいつもヴィルヘルムが早くネコと巡り合えればいいと強く願っていた奴だったなと苦笑する。
良くも悪くも人を引き付ける存在で、王族は勿論、貴族から平民に至るまで次の王はヴィルヘルムであることに異論を抱く者はいなかった。中には次期王として認めるものの、その伴侶には貴族の娘の中から選ばれればいいとそう密かに考えている者もいるそうだがこの状況で次を見つけろとは言いだしはしないだろう。
「えぇ、急がねばならないことと判断をしましたので」
だから、アルノシュトの元へもっとも足の速い鬼神を送ったのだし、普段は振りかざさない神官長としての権力も振るった。後はヴィルヘルムの指揮があれば全て動かすことが出来ると視線を向ければ意志の戻りつつある目がジルベールを見返している。
このまま自棄になり全てを放棄することは簡単だ。だが、綾子は最後まであきらめずヴィルヘルムに手を伸ばしていた、兄や友人たちは失せたものを取り戻そうと手を差し伸べてくれている。
「……、アヤを」
泉の不可思議な力を前に絶望を味わったが、あの泉について全てを知っていたわけでもない。泉に対しては何か対処策があったのかもしれないし、不可思議な力は利用できるものだったかもしれないのだ。
広く知れ渡っているのは良いも悪いも失せさせ連れてくるということのみ、国全体に浸透するほど語り継がれた話であれば、過去実際に失せたものも連れてこられたものもあるということ。長きにわたり沈黙していた泉が再びその力を振るったのにも理由があるかもしれない、それら全てを調べつくすまで諦めるわけにはいかないと、ヴィルヘルムは強い意志を込めて言った。
「私のネコを取り戻すために力を貸して欲しい」