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この国の民であれば誰もが王城の敷地にある泉についての言伝えを知っていた。書物に記され口伝で伝えられてきたその言伝えではあるが、実際に泉が何か失せさせたりつれてきたりしたところを見たというものは今はいない。
言伝えはただのお伽噺で子供が泉に落ちないための防衛策かと思っている者もいた。だが、幾つもの書物に記され、根強く国に染みついた言伝え何も無いという証拠も無く泉へ近づくことを皆敬遠していたのだ。そして、泉にまつわる言伝えはただの昔話でも事実の誇張でもなく、後世にその不可思議な現象を引き起こすものであると伝える為のものだったのだと認識させられた。
両手で数えられる程度の人数で向かったが、ヴィルヘルムの魔力に当てられて半数程は使える状態ではない。ジルベールはまだ動ける者に指示を出し生気を失った状態のヴィルヘルムを城へ帰す。そして、その場にとどまった魔力を掃うと顔を青ざめさせてはいるが再び立ち上がった者たちはまずは体力と気力の回復を優先させるように言い、ジルベールは泉に浮かんでいたヴィルヘルムの紋章の刻まれた首輪を回収した後、念のため泉の中の捜索を行ったが何も見つかりはしなかった。
もし泉の中に綾子が沈んだのであればヴィルヘルムが助け出しているはずだから何も見つからないことは当然だ。だが、これで綾子はこの世界から失せたのだと一分も疑う余地も無く確信させられた。
泉から魔力は感じられず、捜索をした時には呪いを発動するような装置も見当たらなかった、なら何が綾子を失せさせたのか。ジルベールは周囲にも探るよう魔力を張り巡らせるがそれらしきものは引っかからない。この国の頂点とも言えるヴィルヘルムをして太刀打ちできなかったこと、それに神官長を務めているとはいえジルベールが太刀打ちできるわけもなく、ただ何か手掛かりがつかめればいいと思っての検索だ。
「しばらく、立ち入り禁止とすべきですね」
原因もわからない、王族でも対処できないのなら不用意に近づいてはまた何かが失せてしまうかもしれない。元々、好んで近づく者はいないのだからさして困ることにはならないはずだ。
ヴィルヘルムがあのまま折れてしまうとは考えられないが、それでも少しでも早く取り戻さなければならない。ヴィルヘルムにとって唯一の相手でもあるが、国の将来にとっても大切な存在だ。
過去がそうだからといって、ヴィルヘルムもそうであるとは言い切れないが、綾子を見つけてからのヴィルヘルムの様子を聞けば次のネコを選ぶとは思えなかった。否、ジルベールはヴィルヘルムから直接綾子に対する想いを聞いているからこそ最悪の結果を思い浮かべてしまうのだ。何も知らない、権力に魅入られた能無しを筆頭とする周りが綾子のことは諦め別のネコをと強制したとしてもヴィルヘルムは頷かないだろうし、むしろ国からヴィルヘルムを失う切っ掛けともなりかねない。
独自にも調査は進めるが、本格的に進めるにはヴィルヘルムの回復を待つことになる。それまでに何が出来るか、何を用意しておくべきか……神殿警備の案件に通常業務、やることは山積みだがこれから優先すべきはネコの捜索になるのだろう。
「簡単なもので構いません、結界を張っておいて下さい。それが終わったら通常業務へ戻って頂いて構いません」
評議会にまず話を通し、国王夫妻にも連絡をいれなければならない、ヴィルヘルムの様子も見て、綾子の身につけていた衣裳は不思議な素材で知らぬ縫製で仕立てられていたと聞く、そこにも何か手掛かりがあるかもしれない、ジルベールは頭をフル回転させながら誰に何を指示すべきか、頼むか組み立ててゆく。
*****
ヴィルヘルムはジルベールにより気絶させられていて、すぐさま自室へと運びこまれベッドへと横たえられた。指示された通り医者の手配をし目を覚ました時に再び魔力を暴走させない為に結界を幾重にも張り巡らす。
「ヴィルヘルムがネコを失ったというのは本当かっ!?」
無遠慮に開けられた扉から入ってきたのは、遠方に領地を拝領し公爵の爵位を得た一の兄と伴侶のネコだった。
「アルノシュト様、まだ確定したわけではありませんが……その可能性が高いかと」
状況からしてネコを失ってしまったのだとあの場にいた誰もが確信しているがまだ結論がなされたわけではない。
「そうか、だがその線が濃厚なのだろうな、この様子では」
ヴィルヘルムの纏う魔力はひどく不安定だ、そして部屋に張られた幾重もの結界が物語っている。幼い頃から誰よりも魔力の扱いに長けていたヴィルヘルムがここまで魔力を乱すことは珍しい。
「この子の様子は私が見ておく、君たちは別にやることがあるのだろう。そっちへ向かってくれ」
伝令がきた時に大まかなことも伝えられており、時期に別の兄弟たちも戻ってくることだろう。神官たちが部屋から退出するとアルノシュトたちはヴィルヘルムの様子をうかがりため息を吐く。
最近、ようやくヴィルヘルムがネコを得そうだという連絡を聞いて喜んだばかりだと言うのに、こんなことになるとは考えもしなかった。他の国であれば嫡男、もしくは長子が王位を継ぐことになるが、この国では魔力の高い者が王位を継ぐ。魔力は成長と共に増加することもあるのだが、王族は子が生まれた時にその子が将来自分を凌ぐ魔力を得るかどうかを無意識のうちに判断し、自分よりも魔力を持つだろう子が生まれた時に王位継承の放棄を申し出る。
ヴィルヘルムが生まれるまではアルノシュトが王位継承権を持っていたが、本当に生まれてすぐに弟だと紹介されて一目見ただけでこの子が王になるのだという思いが天啓の様にアルノシュトの中にストンと落ちてきた。
物分かりが良く、妹やすぐ下の弟よりも手のかからなかった弟。早くにネコを見つけるかと思われていたが今になるまでネコを得ず、今か今かと待ちわびていたのは家族だけではない。手のかからない弟であったが誰かに甘えるということがひどく苦手だった印象もある。そんな弟が得ようとしたネコ、その喜びは一入だったに違いない。
攫われた、ではなくて失われたと表現されたということは二度とヴィルヘルムの元へ戻って来ないという可能性があるということだ。
「そんなこと、させてなるものか」
唸る様に言えば、隣に立っていたアルノシュトのネコ、アマーリエが握りしめられた手に手を添えて同意する様に頷いた。