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ヴィルヘルムがいないことに気がついたのは書類を運んできた文官だった。休憩に出ているのであれば机の上は片付けられているはずなのにまだ書類は出たまま。ペンは直されているがインクの蓋は開いていて、すぐ戻ってくるような雰囲気ではあった。
だが、文官がしばらく部屋で待ってみたけれどヴィルヘルムは戻って来ず、部屋を出てすぐに見つけたメイドに尋ねてみれば、執務室の前の廊下を掃除し始めてから今までヴィルヘルムが外へ出てきたのを見ていないという答えが返ってきたのだ。そうなると、休憩を取るつもりではなく席をはずして随分な時間ヴィルヘルムは戻ってきていないことになる。
誰かのもとを訪ね話が長引いているのかと考えたが、仕事を多く抱えているヴィルヘルムが出向き政務に関わる話し合いをすることはまず無い。書類に不備があれば猶予のあるものであれば送り返されるし、猶予が無ければ呼び出されヴィルヘルムの執務室で詰め直される。
ならば何処へ行ってしまったのか、普段政務から逃げ出すことも無く課された仕事はこなしていて突如姿を晦ますなど一度だってなかった。ネコを得そうになってからも公私は分け、時折休憩時間が延びたりはしていたがそれでも何も告げず、席をはずすことは無かったのだ。
文官だけでは判断できない状況で、これはもしかしたら良くないことの前触れなのかもしれないと上へ報告するために伝令を飛ばす。魔法はむやみに多用しないようと言われているが、今は使うべき状況だと判断したからだ。
そこから、情報が伝わるのは早く、ヴィルヘルムの不在は瞬く間に王城に広がり突発の会議が開かれたわけでも、誰かの下での話し合いが長引いているわけでもないことが分かり、随分と前に慌てた様子で廊下を走るヴィルヘルムの姿が目撃された証言が出てきたのは、文官が初めに伝令を飛ばしてから三十分ほど経過してからのことだった。
王族が急ぐ用件といえば、国に関わることか、ネコに関わること。国に関わることであれば今ままでヴィルヘルムの不在が知れなかったことがおかしい。ならばネコのことかと、ヴィルヘルムの私室を訪ねたがそこはもぬけの殻。ネコの姿になった綾子はこの部屋で静養をしていたはずだがその姿が無く、ヴィルヘルムの不在はネコに関することだと確信され捜索の伝令が直ちに発令された。
過去、王族が名前の交換をネコに持ち掛け断られたという前例は実は無い。それは王族が相手を見極める目を持っているということ、ただ感情だけではなく互いの凹凸が上手く噛みあいぴたりとはまる魂の片割れとも言われる存在を見つける嗅覚に優れていることが挙げられる。
王族の中にも相手を見初める者もいれば、何度も逢瀬を重ねる者もいた。相手を選んだ理由は相性がいいだとか、意見が合うだとか、様々な理由が上げられる中、一つ共通して誰もが言うことがある。過去の王族の夫婦の中には反発しあいながらも寄り添う夫婦もいた様だがその夫婦ですら言っていた。
この人でなければならない、そう内側から訴えてくる思いは自らの意思でコントロールできるものではなく反発しようにもできない思いで、体験した者にしか分からないものだと。
王族に備わった相手を見つける嗅覚、そして互いが互いを引き寄せる魂の因果、それらが合わさり引き寄せられた者たちが結ばれない方がおかしいのかもしれない。
そして、名前を交換した彼らは魂の契約を結ぶ。契約を結べば互いの魂を縛られることになるのだから、王族が相手に先立たれ次のネコを選ぶということもないのだ。そこからネコは王族の唯一であり無二であると言われている。
だから、ヴィルヘルムが見初めた綾子がまだヴィルヘルムに名前を告げていなかったとしても、ヴィルヘルムの対となるのは綾子であり、綾子以外ではあり得ないのだと城の誰もが認識をしていた。
ネコを失った王族がどうなるのか、それは火を見るよりも明らかであり、過去にも外遊に出かけた国王夫妻が盗賊に襲われ王妃を人質として取られた国王が魔力を暴走させ辺り一面を焦土にしてしまったという歴史も書きしるされている。
神殿への侵入事件が起きてからまだ日も浅い、そんな中でまた綾子に何かがあればあの沈着冷静で広い視野を持つと言われてきたヴィルヘルムでも何をしでかすか分かったものではない。
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魔力の感知とは己よりも下位の者に対して行えるものであり、現在この国で一番の魔力を誇るのは国王であり、その対である王妃だ。そして、その後に続くのがヴィルヘルムであると言われている。ヴィルヘルムに見初められた綾子も同等か似た程度の魔力を持つのだろうがまだその量は未知数であった。
魔力を感知して居場所を探そうにも、ヴィルヘルムの魔力を感知できる国王夫妻は外遊で不在、ならば幾つもの目を飛ばして探せとなり鬼神を使役している者たちは鬼神を飛ばし、その間にも人海戦術を駆使しヴィルヘルムそして綾子の居場所を探したのだ。
そして、鬼神が先に見つけたのはヴィルヘルムであり、その場所があの曰くつきの泉であり、見つけた鬼神が破壊され異界に戻ったと知った時、幾人かは眉をひそめた。だが今はそんな曰くを気にしている余裕はないと万が一に備えその場へは魔力に覚えのある者が招集され向かう。
「ヴィルヘルム様っ」
泉の縁でうずくまった状態のヴィルヘルムに慌てた声が背後からかけられた。鬼神が破壊されたと知った時に、その場はヴィルヘルムの魔力によって支配されているのだと予想された為、えり抜きの者たちを集めたにも関わらず顔色を悪くした者もいる。
「どうされたんですか、何が――」
ジルベールはそんな中、少し表情をしかめてはいるがどうにか荒れ狂う魔力の中心へと近づくと膝をつき様子をうかがった。だが、答えは返ってくることはなく、そこにはうつろな表情をし、なんで、どうしてと誰に問うでもなく繰り返し呟くヴィルヘルムの姿。
何かがあった、それはヴィルヘルムの様子を見て分かる。ならばその何かはどんなことなのかはネコに関わることだろう。この場所、ヴィルヘルムの様子、悪い予感しかジルベールにはしなかった。
何か状況を判断できるものは無いのかと視線を彷徨わせてみつけたのは、泉の水面に浮かぶ見たことのある首輪……