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猫が顔を洗った日  作者: 佐奈
転章
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a-002

 異世界から元の世界へ帰ってきたと分かった日、泣いて、頭が痛くなるぐらい泣いて、起きた時には外出が出来ないと思うぐらい酷い顔をしていた。けれど、どんなに哀しいと思っていて考えることを拒否しようとしていてもこの世界では綾子にはやらなければならないことがある。義務ではないが、自ら選び親に高い学費を払ってもらっているのだから適当なことはできない。

「……今日の講義、なんだっけ」

 出席必須の講義は無かったはずだ、小テストをすると言われた講義もない、今抱えている提出物の期日が今日のものもない。休もうと思えば休める日だとベッドの上で上半身を起こす。

 この世界に帰ってきて、泣いている間に眠ってしまった様であちらの世界の寝間着のままだった。上質の絹を使ったその寝間着は肌触りがとても心地よいものだ。だが、初めて着るタイプの寝間着で何度か城内で見かけた姫たち様に作られたものなのだろうか、フリルもふんだんに使われていて気恥ずかしさもあった。

 ヴィルヘルムはかわいいと言ってくれたけれど、改めて見ると着ているというよりは着られていると言った風に感じる。そんなことを考えているとヴィルヘルムの顔が頭に浮かんできてまたあの声を聞きたいと、あの手に撫でられたいとそんなことを思い始めた。

「……」

 また、涙があふれ出してきてもしかして涙腺が壊れてしまったのではないかと昨日使ってそのままにしていたタオルを押しあてた。

 大学には行かなければと思うが、今日ぐらい休んでもいいだろうかとぼんやりとした頭で考えながら渇きを覚えた喉をうるおす為に冷蔵庫の中にあった清涼飲料水を飲んでその味にまた元の世界に帰ってきたのだと実感をした。

 そのあとまた少し行くか休むかを葛藤をしたが、この顔では出掛けられないし友達にも余計な心配をかけると自分に言い訳をして友達に後でノートを見せてもらえるように頼んだ。その電話越しから聞こえて来る声はここ最近で聞きなれた友人の声で、後ろではサークルの先輩たちらしき会話も聞こえていた。何か一つ、今まで当たり前だったことをして、当たり前の答えが返ってくる度にこの世界は綾子の生まれた世界なのだと教えられている気がした。

 アイシングをして大人しくしていれば昼過ぎには瞼の腫れもひいて、ベースメークだけを施して近くのスーパーへ買いだしの為に扉を開けたのだが、もしかしたらなんて抱いていた淡い期待はすぐさま砕け散らされる。

 扉を開いて見えたのは普通の光景、歩く外の世界も、行ったスーパーも日常と何ら変わりない姿で、綾子が思い違いをしているだけで本当にあの異世界での日々は夢だったのではないかと錯覚をしてしまった。

 家に帰ってみれば思いのほか外を歩いていた様で、お昼というには遅く、夕飯というには早い時間でどうしようかと買った物を冷蔵庫に詰めていたらお腹が鳴って嗚呼とまた嘆く。

 悲しみや後悔にあけくれているというのに、身体はきちんと時間を刻み続けていて喉も乾けば空腹も覚える。この世界で生きているのだと、何時もの生活を送らなければと、綾子は買ってきた食材を取り出して料理に取り掛かった。

 空腹感を覚えても、こってりしたものを食べたいわけでもしっかり食べたいわけでもない。簡単な所で野菜のコンソメスープぐらいがちょうどいいかと、目に着いた野菜と前にブロックで買って冷凍していた厚切りのベーコンを取り出す。

 そういえば、ヴィルヘルムに料理も少しはできると話したら何時か綾子の手料理が食べたいなと言っていた。それに綾子は何時か作れる様になったら簡単なものになってしまうけれど作ってあげると答えていて、約束を破ってしまったなとぽつりと呟く。

 野菜が柔らかくなるまでじっくり弱火で煮込んでいれば夕食を摂るのにいい時間になるだろうと綾子は何時も座っている机とベッドの間に腰を下ろす。机の上には昨日泣いた代償として、文字の滲んだレポートが未だに鎮座していた。

「これじゃ、書きなおしだよね」

 このまま書き進めても読めないからと欠点か再提出の指示を出されるだろう。一般教養として定められたこの講義、板書の量も多ければ提出させるレポートの数も多いのだとサークルの先輩から聞いている。

 その分、真面目に講義に参加しレポートに取り組めば成績に加算されるからずるをしようとせずちゃんとこなせばいいとも。だが、綾子にとってみれば興味の薄い講義であってしょっぱなのレポートから躓いているのが現状だ。

 ヴィルヘルムも苦手な分野はあったけれど、王になるのならやらなければならないことだからと嫌でも向き合ってどうにかこなせるようにしたよと笑っていた。それを思い出すと、投げ出してしまいたいレポートもやる気が出てきて、資料にと借りてきていた本を開く。



「終わったー」

 出来あがったレポートを持ちあげて綾子はそのまま後ろに倒れこんだ。倒れ込んだ先にはベッドがあり綾子の頭を受け止める。

 コンソメスープを火にかけていることを忘れて吹きこぼれて慌てて火を止めるなんて騒動もあったが、夕食を挟んで漸くレポートが完成したのは日付が変わった頃だった。

 最初にこのレポートを書き始めた時よりも躓かずにレポートを仕上げられたのは、異世界での体験が一役買っている。出来の方は教授が判断を下すが、綾子としては満足のいく結果になった。

 提出日はもう今日だが、覚悟としては朝までかかって仕上げるといった感じだったから上々だ。

 まだ胸の痛みは消えないけれど、こうして日常を送っていて時折思い出して、何時か思い出すことも無くなって、こんな不思議な体験をしたんだと誰かにお伽噺みたいに話せる時がくるかもしれない何て苦笑をした。

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