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猫が顔を洗った日  作者: 佐奈
転章
25/40

a-001

 綾子が意識を取り戻した時、まだ半分もかけていないレポートが目の前にあった。

 意識を失う前、綾子は空中に浮かばされて水に覆われていて、眼下で叫んでいたヴィルヘルムに手を伸ばしていたはずだ。

「戻って、きたの?」

 目の前には気にかけていた作成途中のレポートに見慣れた机と文房具一式、辺りを見渡せば大学入学を期に始めた一人暮らしのアパートの部屋の風景。短い期間しか住んでいないが、それでも住みなれた部屋であることに間違いは無い。

 机の上に置いていた携帯を手にとって時間を確認すれば、時間は多少進んでいるかもしれないがレポートを書いていたあの日から日付は変わっていないはずだ。一カ月近く過ごしていた気がして、目新しい出来事に遭遇しその記憶が正しいのか正しくないのか判断がつかない。ただ、綾子の不在を気にかける様なメールもきていないし、着信履歴も増えてはいないから誰にも心配はかけていないはずだ。

 だとしたら、異世界に行ったのは夢だったのだろうかとそう考えたが、今綾子が身にまとっているのはあちらの世界で着せられた寝間着のままで手首に視線を移せば壊れたままの腕時計が目に入る。

 そう夢な訳が無い、物的証拠もあるが、それ以上に楽しかったことは勿論、痛みも、悲しみも、愛おしさも全てが綾子の胸の中にあった。夢に見ただけでこんな思い抱えることは無いと胸を押さえる。

「なんで」

 帰りたいと思っていたことも確かだが、こんなにも唐突に帰ってくると心の整理がつかない。

 この世界が綾子の生きてきた世界で、家族も、人との繋がりも、全てがある世界だ。住み慣れた世界、綾子が知る常識が通用し、暮らすうえで戸惑いを感じることの少ない世界。

 でも、最後に見たヴィルヘルムの顔が頭から離れない。

 あの時、ヴィルヘルムは綾子を助けようとしてくれていた、幾つもの光がはじけ飛ぶのを空中から見ていた。そして、拳を打ちつけ叫ぶ姿も見ていて、あの優しく綾子を抱き上げ撫でてくれた手からは血も流れていたのを見ている。驚きから焦り、怒り、最後に見たのは見ている方が哀しくなる様な、哀しみを表した顔だった。

「……ヴィルヘルム」

 視界が歪む。どの様にしてあちらの世界へ行ったのかを綾子は知らないし、何故この世界へ帰ってきたのかもわからない。分かっていることがあるとすれば、あの泉が何かしらの力を持ち関与しているということぐらいだ。

 あの世界で綾子はヴィルヘルムに見つけられて、色々な人に出会い大切に扱われていたけれどそれだけ。世界を救う為に旅立てとか、人柱になれだとか、大層な役目を与えられることも乞われることもなく目的も無くその日を過ごすだけだった。

 魔力があると教えられはしたが、簡単な魔法であれば呪文はいらないと聞いていたから見よう見真似で何か発動できる魔法は無いかと試してみたが一切の魔法を発動させることは叶わないまま。ただ、王族の伴侶に見合う魔力を保有できるだけの容量を綾子が持ち綾子自身には魔法をあやつる技量は無かったのだ。

「……」

 ヴィルヘルムが綾子の何に惹かれていたのかまでは計り知れないが、向けてくれている愛情の深さは分かっているつもりだった。そう、つもりだったのだ、人から向けられる感情には疎く無い方だと思っていたが向けられていた愛情は分かっていてもその深さまでは計りきれていなかったと痛感させられたのだ。

 ただ、将来の伴侶になりえる相手を見つけて義務でヴィルヘルムが綾子を保護していたとしたら、あんなに取り乱すとは思えなかった。神殿で過ごした三日の間に他にも多くいたネコたちの姿を見ているから候補が少ないというわけではないのだから。

 年のことは聞いていないし、こちらの世界で言えば欧米人の様な顔立ちをしていたから綾子の主観では年上だろうと思っていたし、王族な上に王太子なんて言う肩書も持っていた所為か大学に入ったばかりの綾子からしてみれば大人びて見えていた。だからその分、取り乱したヴィルヘルムには驚きも感じていたし、感情をあらわにして綾子を取り戻そうとする姿は綾子を求める想いに比例する様ですぐにでも抱きしめられたらとも思った。

「何を、選べばよかったの」

 自分の知っている世界へ戻ってきたことは嬉しい、なのにそれを素直に受け入れられないのはあの世界への心残りがあるからだ。

 ヴィルヘルムのことが好きだった、今まで異性を好きになったことはあったけれど想いを返されたことは無くて、綾子にとってヴィルヘルムは初めて両想いになった人だった。その人と想いを通じ合わせれば二度と両親にも友人たちにも会うことは叶わない、もとの世界に帰ることを望めばヴィルヘルムに二度と会うことどころか名前を告げることすらできない。

 どちらを選んでも確実に後悔が残る、それはあの泉の縁で考えていたことでもあった。

 あちらの世界をヴィルヘルムを選び名前を告げていたとしても、ふとした瞬間、家族やこちらの世界のことを思い出すだろう。それが感傷であれ望郷であれ、優しいヴィルヘルムのことだ綾子がどう言い募ろうとも選ばせてしまったことを責めるのだろう。

 そして、こちらの世界を選べばどうなってしまうのかを、綾子はもう知っている。

「どうして私だったのっ」

 問いかけに答えてくれる人はここにはいない、例え人がいたとしても綾子の問いに答えられないだろう。最終的に選ぶのは綾子自身であって、問い掛けられた人が出来るのは、アドバイスをするぐらいなものだ。

 机に突っ伏せばレポート用紙に落ちた涙がしみ込んでペンで書かれた文字を滲ませていたが、今の綾子にとってはそんなことどうでもよく感じられた。

 何も選べなかったことが、ヴィルヘルムを傷つけてしまったことが綾子の肩に圧し掛かる。

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