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猫が顔を洗った日  作者: 佐奈
声を聞かせて
23/40

023

「……あ」

 少し考えごとをしていたら、インクを書類の上に落としてしまった。こんな失敗は滅多に犯さないのにどうしてか今日はこういった些細なとはいえ失敗を犯してしまう。

 書き始めたばかりの書類だったから良かったもののこれがあと署名だけの書類だったらうなだれてしまっていたはずだ。失敗は失敗なのだからと書き連ねられた文字は失敗を示す様に大きくバツをつけて失敗をした書類を入れる籠に放る。

 気分転換でもするかとペンを戻し大きく息を吐く。両手を天井に向けて伸ばし身体を伸ばせば少しだけ気持ちが晴れる。晴れていればテラスに出て気分転換をするのだが、今日は生憎の雨で窓の前に立つだけにとどまった。それでも、城下町の様子はよく見えて家の煙突からあがる煙だとか、工場の立ち並ぶ辺りからは煙もだが、魔法による光も見えて今日も国が動いていると確認が出来る。

 今は父が背負っているもの、いずれヴィルヘルムが背負うことになるもの。長い時を経て大国となり現在国勢は安定しているとはいえ、国を支えるのは大変だ。一人で支えることも出来るだろうがそこには不安があって、けれどそこに唯一の伴侶であるネコの存在があれば大丈夫だと思えた。

 そろそろ中庭の花壇の花が綺麗に咲き誇る頃だと聞いたから、晴れていれば中庭で休憩を取ろうと思っていたのだがこの空では当分お預けかなと、ヴィルヘルムは空を見上げる。

「ん?」

 空を見上げる途中、視界の端を見慣れた姿が横切って行った気がして、慌てて視線を戻せば雨の中を出歩く小さな姿を見つけた。確かに、よく出歩いていてこの執務室にも何度も顔を見せたことがあったが、まさか雨の日にまで出歩くなんてともし体調を崩してしまったらどうするのだという気持ちがこみ上げて来る。

 しかも、向かう方向は裏手にある雑木林へ続く道があるぐらいで他は何も無い。この雨のなかあの泉に行くのだろうかと考えたところで、いつも口うるさく注意されるのと同時に語られるあの泉に纏わる話が脳裏をよぎる。

 今まで幾度となく泉に通ってもその現象に出くわしたことはなく、大丈夫だろうと思っていたが、綾子が異世界の住人であることに確証を得てからはあの泉の仕業ではないかとそう考えるようになっていた。

 失せさせることもつれてくることもする泉、その泉による不思議な力で異世界からつれてこられたのだと。

「駄目だ」

 胸騒ぎがする、遠ざかるヴィルヘルムが得ようとしているネコの後ろ姿にこのまま居なくなってしまう様な、そんな不安。

 名前を交換し、心を通わせた王族とネコの間には特別な絆が生まれると言う。魂を縛り合うのだから普通の対人関係では生まれない絆があってもおかしくは無い。

 ヴィルヘルム達はまだ名前を交換していないが、それでも今絆を強いものにしようとしている。思い返せば、侵入者のあったあの夜も何かに気を取られ書類を駄目にしてしまっていた。そして、先ほどもインクを落とすという些細な失敗ではあったが、あまりしない失敗を犯して書類を駄目にしてしまったのだ。気のせいだと言えばそうなのかもしれないが、覚える胸騒ぎと、失敗とが重なりあって居ても立ってもいられず部屋を飛び出した。


*****


 外に出れば雨脚は思っていたよりも強く容赦なくヴィルヘルムを濡らしてゆく。雨が降り肌寒くなるからと何時もより一枚多くゆったりとした服を纏っていたが、それが濡れて身体にまとわりつき動きを制限してしまう。

 それでもヴィルヘルムは足を動かし続け、綾子が進んだであろう道を辿ってゆく。

「アヤっ」

 視界が開け、泉のある開けた場所に出れば泉の縁に佇む綾子の後ろ姿を見つける。

「あ、ヴィリー」

 綾子の方も雨に濡れて何時もはふわふわの印象を与える毛も寝てしまっている。振り返りヴィルヘルムがここにいることを驚いている様だが、綾子の視線が向いたことにヴィルヘルムは安堵をおぼえていた。

「雨の中出掛けるなんて駄目だよ、体調を崩したらどうするの」

 まだそこに綾子はいる、言葉の届くところに、手の届くところにと一歩、また一歩と近づいてゆくがその距離は近いはずなのに遠く感じた。

「ヴィリーこそ、びしょぬれ」

 このままここにいてはヴィルヘルムの方こそ体調を崩してしまうと歩こうとしたが後ろから何かに引っ張られる感覚があって歩くことができなかった。長い毛が何かに引っかかったのだろうかと尻尾の辺りを身をひねって見るが何も無い。

 どうしたものかと振り向きなおしヴィルヘルムを見れば、驚いた顔をして綾子を通り過ぎ、その後ろの辺りを見ている。

「どうしたの、ヴィっ」

 何をそんなに驚いているのか、綾子の背後にあるのは泉であるはずなのに何を見ているのかそんな疑問を尋ねようとした時だった。引っ張られていた感覚が強くなり、身体が空中に浮いたのは。

「アヤっ!!」

 弾かれた様にヴィルヘルムが走りだし綾子に手を伸ばすがその手は空を掴む。綾子の方も唐突の浮遊感に驚き助けを求めるようにヴィルヘルムへ手を伸ばしたがそれでも二人の距離は縮まらない。

 そして、手を伸ばして綾子は何に引っ張られていたのかを知る。ヴィルヘルムに伸ばした手は人型をとっており、そして腕には蛇の様にまとわりつく水。後ろを振り返れば意志を持った様に形ある姿になった泉の水があった。

「何、これ」

 あまりにも恐怖が大きく、わけのわからない状況に小さな声しか出ない。助けて欲しいとヴィルヘルムの方を見るが見えない壁に遮られるようにして拳を打ちつけ叫んでいる姿が目にはいる。

 その間にも綾子を包むように広がっていた水の面積は広がり視界も覆われてもうおぼろげにしかヴィルヘルムの姿を見ることができない。

「ヴィルヘルムっ」

 もしこれが別れになるとして、何も告げていない。名前を告げることができないからと思いを告げることもしなかった。

 視界が覆われて、僅かに聞こえていたヴィルヘルムの綾子が告げた愛称を呼ぶ声も聞こえなくなり、次第に意識が遠のく。

 この後、どうなってしまうのだろうかそんなことを最後に綾子は考えていた。

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