022
その日は、雨が降っていた。
この世界に来てから初めての雨は静かに振り続け、空を見上げても見渡せる限りずっと曇天が続いている。きっと明日も雨だとどこか確信めいた予想が綾子の中にはあった。
猫の姿になり、言葉を取り戻してからヴィルヘルムとの距離は確実に近づいている。名前をまだ告げてはいないけれど、きっと近いうちに私の名前はとヴィルヘルムに伝えている気がした。
そんな思いがあるのならさっさと名前を伝えてしまえばいいのにと思う反面、まだ忘れきれない両親や友達の顔と声。身近な人が亡くなって最初に忘れたのはその人の声だった。肉声は残っていなくて最後に聞いたのは病床での聞きなれた声よりもかすれた声だったはずだったがその最後の声すら思い出せなかったのだ。
だから、この世界にいれば何時か友達の声も両親の声も忘れてしまうのだろうけれど、まだ綾子の頭の中では彼らの声が再生されている。
今日も朝からヴィルヘルムは忙しそうだった。
政務に加えて神殿への侵入者たちの件で警備の強化や、内部にいると思われる共犯者の捜索、侵入者たちへの尋問、やることは山積みで休憩時間や夜部屋に帰ってきては綾子に癒してと抱きついてくる。
その光景に、この部屋付きのメイドになった者たちはほほ笑まそうに見ているだけだし、そろそろ政務に戻る様にと呼びに来た宰相に至っては咎めるかと思いきや、もう少し休憩時間を延ばすから思う存分甘えて残りの政務もさっさと済ませて下さいと言ったものだ。あの時は驚いて思わず声をあげてしまった。
「それにしても、よく降るな」
絶え間なく降り続く雨、空気の入れ替えにと少しだけ開けられた窓からは冷たい空気が入り込む。雨の日は好きだったはずなのに、猫の姿でいるとどこか落ちつかない。
それに、雨が降り始めてからどこからか呼ばれている気がするのだ。最初にそう思ったのはまだ日の登らない時のこと。一緒に眠っていたヴィルヘルムを起こしてしまい、何でも無いと言ってまた眠りについたが思い返せばあの時から雨は降り始めていた。
少し空いた隙間に身体を滑り込ませテラスへ出れば手すりに跳ね返った雨粒が綾子の身に降りかかる。耳を澄ませてみれば雨音に混じって他の音がした気がした。人が生活しているのだから何か音がして当然だが、そういった音ではなくてそれは綾子を呼ぶような音。方向は、あの泉がある方向だ。
「……気に、なるな」
行かなければいけない気がした。どうしてかという理由は無いけれど、今泉に向かわなければならない気がして綾子は部屋を出た。
*****
泉にきてみたが、そこは何時もと変わらず人気のない静かな場所だった。何かに呼ばれた気がして来てはみたものの、誰がいるというわけでもなく、何か変化が起きた訳でもないようだ。
ヴィルヘルムに色々な質問をぶつけて、この泉のことも聞いてみていた。何度かここでヴィルヘルムと一緒に過ごしたことがあるが、メイドや家臣たちに見つかった時には一様にしていい顔をしていなかったからだ。その理由はといえば、この泉はこの国が建国される前からある泉で、周りの木々たちもそのまま残し城を立てたと言われている。それはこの風景を建国をした王たちが気に入ったからといった理由ではなく、この泉に手を出そうとして失せた者たちがいたからだそうだ。
そうして、残された泉は長い歴史の中で時に何かを失せものにしてみせたり、何かをつれてきたりと様々な伝承が残っていて、今もなおそれは口伝に残っており気まぐれな泉の被害に遭わない様近づくものが少ないのだと言う。
ヴィルヘルムは言った、泉は悪い物としてとらえている人が多いけれど、この泉から受けた恩恵も多くあることは事実で立地てきにもおいそれと簡単に人が近づけるばしょではなく静かな場所で気に入っているのだと。ただ、長い間伝えられ続けて古文書を読み解けば正しい歴史も出て来るだろうけれど、実際にはこの泉には近づくなといった警告の印象の強い話ばかりが広まってしまい皆この泉に近づくことに対しいい顔をしないのだとも。
「でも、当たり前だよね」
口伝の様に伝えられたことだったとしても、実際に失せたものもつれてこられたものもあるのなら、誰もが思うだろう何時かこの泉に近づいたヴィルヘルムをこの世界から失せさせてしまうのではないかと。いい顔をしないのは心配の現れで、王族だから、次期王だから、そんな理由ではなくてただヴィルヘルムが消えてしまうことを危惧しているからに過ぎないんだと。一カ月程だが、この城で暮らしていて王族は国民からも家臣からも慕われているということはよく分かった。
それにしても、何故呼ばれている様な気になったのだろうと、綾子は水面に触れる。雨粒で既に幾つもの小さな波紋が出来ている中、綾子の作りだした波紋は泉全体に広がってゆく。
「……」
もしかしたらと、綾子は思ったのだ。
この泉の話を聞いた時、この世界に綾子をつれてきたのはこの泉ではないかと考えた。綾子が眠っていたという場所は泉の近くだというし、この泉は何かを失せさせるだけではなくて、つれてくるという現象も引き起こすと言ったのだから可能性が無いわけではない。
だから、何かが呼んでいるといった気がしたのは元の世界に戻る手がかかりが得られるかもしれないとそう思って泉まで来た。
そうして、自分の心を知ったのだ。
――元の世界へ帰りたいんだと。
ヴィルヘルムのことは好きだ、けれどまだ元の世界を捨てきれない。
この世界に来て目を覚まし、ヴィルヘルムに惹かれながらも今の泉の水面の様に綾子の心は揺れ続けていた。こうして気のせいだったとしてもその気になった事象が元の世界へ帰る切っ掛けかもしれないそう思って行動を起こしてしまうのだから、好きだからそれだけの理由でこの世界を選んでも後悔するはずだ。
きっと、後悔してしまえばヴィルヘルムを傷つける。
どうすればいいのだろう、何を選べば誰も傷つけることない未来を切り開けるのだろうと、綾子は水面に映る自分の顔を見た。