021
何時も余裕を持っていて、ほほ笑んでいた印象が強い。仕事に対する姿勢はとても質実であり年齢的にそうかわりも無いのに大人な印象もある。だが、時には綾子の行動に頬を緩めたり、赤らめたりしたこともあったが、今の様な笑みは初めて見た。
名前を呼んで欲しいと言われて、それに伴って何も課せられることも無いと聞いてそれならと名前を呼んだだけだ。ヴィルヘルムとそう簡単に呼んだだけだったのに、今まで見たことも無いぐらいの喜色に彩られこちらも溶けてしまうのではないかというほどに無邪気な笑みをヴィルヘルムは浮かべていた。これが人型だったら同じぐらい顔を染めているだろう、そう思えるぐらいに見惚れる笑みだ。
大人っぽいとそう思っていたのに、今はただただ可愛いと素直に思えるぐらいで人型だったら頭を撫でてしまいたいと思っていた。
「あの、ヴィルヘルム。そろそろ質問したいんだけど」
しばらく頬を緩るませきったヴィルヘルムを眺めていたが、しばらく経ってもそんな状態なままなものだから話を進めなければともう一度呼びかければ緩み切った表情が元に戻るが、それでもまだ頬はほんのりと赤いままだ。
「え、あぁごめんね……」
名前を呼ばれたことが思いのほか嬉しくてその仕合せに浸っていた。機嫌を損ねてしまったかと頭を撫でる素振りをすると綾子の方から頭を摺り寄せてきて機嫌を損ねなかったことにほっとする。
「それで、聞きたいことは何かな」
「まずは、名前について。どうして名前にこだわるの?」
確かに人付き合いをするうえで名前を知っていなければ不都合なことはあるが、最初に名前を聞いた後にもヴィルヘルムは喋られる様になればいいのにとか、早く知りたいだとか、適当な名前をつけて綾子を呼ぶこともなくてただただ、綾子から名前を名乗ることを待っていた。
そこには何か理由があるのだろう、それだけは何となく理解していたが本当の理由はしらない。その理由を知らなければ名前を告げるが告げないかの決断を下せないと綾子は考えていた。
「うん、名を名乗り、相手に名を名乗って欲しいと乞うのは自分の伴侶になって欲しいという意味なんだ」
自ら名を名乗り、相手にも名をこうことそれが求婚となりネコがその問いに答えれば晴れて婚姻の運びとなる。そして、それが王族ともなれば名を名乗り、名乗り返すその行為は、二人の間で名を交換することになり互いの魂を縛る契約となるのだ。
契約はどちらかが息絶えるまで続き、互いの生死をも縛り今生での繋がりを強くし、比翼と呼ばれる鳥の様に互いに互いが存在しなければならない存在とする。
綾子が異世界の住人だというのなら、この契約を結ぶことでその魂をこの世界に定着させ、そして二度と安全で確実な帰る方法があってもこの世界から抜け出すことが出来なることを意味するのだ。
「そして、王族とのその行為は求婚としてではなく、契約とも呼ばれていて前例は確かなかったはずだけど、契約を結んだら方法があったとしても君を世界に帰すことができなくなるはずだ」
ヴィルヘルムの話を聞いてやはりと綾子は思う。名を名乗り名を尋ねることにそんな意味があって、しかも名を名乗っていたら元の世界にはどうあがいても帰ることが出来なくなると聞いて慎重に行動を選んで良かったと。
「誤魔化さないんだね」
世界を渡る方法はあるかないかは不明瞭だが、求婚以外に魂を縛る様な契約であるということ、隠そうと思えば隠せたはずの事実をヴィルヘルムは教えてくれた。
「信頼を無くしてしまう様な事、自分からはしないよ」
嘘を吐くことは簡単だ、吐く必要のある嘘があることも知っている。だが、今は嘘を吐くべき場面ではないし、必要も無いと事実とヴィルヘルムが知る限りの範囲で伝えた。
「うん、じゃぁ次はね……」
ネコについて、魔法について、異世界について、ずっと聞きたくても聞けなかったことを聞いた。他にも、必ず知っておかなければということでもないが、日常生活をおくっていて疑問に感じていたことまで、この世界で生きているヴィルヘルムにとってしてみれば下らない質問だってあっただろう。それでも、ヴィルヘルムは丁寧に綾子の質問に対して答えてくれた。
「聞きたいことは、それぐらいかな」
何時もより長い休憩を取っているが、綾子の感じている不安が薄れるのならとヴィルヘルムは時間のことは気にしなくていいと、席を立つことをしない。
「うん、今のところは……それで、ヴィルヘルム」
ヴィルヘルムがこの部屋に訪れてから何度か名前を呼んだがやはり呼びにくい、舌を軽く噛んでしまった。心の中ではなんとかフルネームを言えるようになっていたが実際に言葉に出してみると感覚が違う。
「もしかして名前、呼びにくい?」
発音はされているが、所々怪しい時があった。今回も舌を噛んでしまっているようだと心配げに見れば申し訳なさそうに俯いてごめんなさいと言われる。
「なら、ヴィリーって呼んでその方が簡単でしょう」
「いいの?」
名前を求婚に用いたり、契約に用いたりするのなら意味のある物としてとらえているのだろう。ならちゃんと呼んだ方がいいのではないかと思って尋ねたのだがヴィルヘルムは構わないと言った。
「今ではあまり呼ばれなくなったけど、僕の愛称だからね」
愛称、と言われて名前は教えられなくても愛称ぐらいならいいのではないかと綾子の頭の中に浮かぶのは、友達や親から呼ばれていた愛称だった。
「ならヴィリー、私のことはあやって呼んで」
名前を教える決意は無いけれど、それでも君はとか何と呼ぶかあぐねる姿を見てもどかしさは感じていた。
「あや? それが君の愛称なの」
「名前を告げる決意はまだ出来ていないけれど、君とか貴方とかそう呼ばれるのは寂しいの。我侭でごめんね」