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猫が顔を洗った日  作者: 佐奈
声を聞かせて
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 足をけがしていて、骨までには達していなかったがしばらく安静にしているようにと医者からも言われていた。心配も相まって必要以上に安静にしているようにと言い含めてベッドに縛り付けるようにしているけれど、そろそろ退屈もピークに達するころだろうかとヴィルヘルムは綾子の眠る部屋へ向かいながら考える。

 今朝の医者の見立てではそろそろ日常生活を普通におくるぐらいなら大丈夫だと言われているが、それでも過度な運動は厳禁、走るのも足に負担をかけ今後に響くことがあるかもしれないから控えるようにと言われていた。

 日常生活はおくれると言われたのだから、今日はこれから少しお茶をしてから中庭に散歩にでも出掛けようかと考える。

「ヴィルヘルムだ、入るよ」

 ノックをしても返事が無いことは分かっているからノックをしてから少し時間をおいて扉を開く。

「あ、漸く休憩なんですね、お疲れ様です」

「え?」

 扉を開いてすぐに聞こえてきた声は高くもなく低くも無い声だった。この部屋に入れるのは部屋の主である綾子とヴィルヘルム、それから指示をだしているメイドぐらいなものだ。だが、メイドはこんなに気安くヴィルヘルムに声をかけたりはしない。

 まさかと、視線をベッドの方から部屋のなかをぐるりと動かしたが姿は見当たらなくて、視線を落とすとそこには見慣れたネコの姿。

「え、喋れるようにって、でも」

 今朝、医者の診察を受けた時には人型をとっていたはずだったのに、今はまたネコの姿となっている。

「理由は分からないんですけど、この姿になってました。でも喋れる様になったみたいです」

 漸く聞きたいことを聞ける、人と意志の疎通ができるとヴィルヘルムの足元による綾子の尻尾はぴんと立っていた。喋れる様になったと言った声は嬉しそうで、ヴィルヘルムもずっと聞きたいと思っていた声を聞くことができ嬉しさも相まって立ち尽くしたままになっていたが、綾子が足元まで来ると崩れ落ちた様な勢いでしゃがみ込み視線を合わせる。

「……名前を、教えてもらえるの?」

 出会った時から名前を教えて欲しいと乞うていた、そして言葉を喋れないと分かってからも早く名前を知りたいとそう言っていた。

 名を交換することで伴侶として迎えることができることもだが、それ以上に首輪で与えているだけの加護よりももっと強力な加護を与えることが出来る。

 名前をと問われた綾子は少し考える素振りを見せてからヴィルヘルムから視線を外した。

「ごめんなさい、まだ教えられない」

 この世界は綾子が生まれおちた世界ではない、言葉は分かるが文字は読むこともできなくて、今まで架空の存在であった魔法が存在する世界。それに、まだ名前をここまで乞う理由もわからない。

 ヴィルヘルムのことは好きだと思う、けれどそれは家族や友達、今まで生きてきた生活基盤を天秤にかけて選べる想いかと問われるとまだ答えは出ていなかったのだ。助けて欲しいと思い描いたのは家族ではなくて、ヴィルヘルムではあったけれど……

「まだ、ってことは望みはあるんだよね」

 まだと言ったのならこれから選択をするということ、意志の疎通も出来るようになったのならその思いを此方に傾けることも出来るはずだとヴィルヘルムは綾子を抱き上げる。

「君が何を不安に思っているのか教えてもらえるかな」

 椅子に腰かけて綾子を膝の上に置けば不安げな瞳が見上げて来る。先ほどまではピンと立っていた尻尾も今は垂れていた。

「洋服を見て、分かってると思うんですけど……私はこの国の、いえ世界の住人ではないと」

「そうだね」

 あの姿を見て確信をした、綾子はこの世界の人ではないと。泉の傍に現れ、魔法の存在を知らず、学者ですら読み解けない書にいたく興味をしめしてみせた。そして、あの見たこともない材料と手法を使い仕立てられた洋服。外そうとしなかった腕に嵌められた装飾品も誰もが見たことのないものだった。

「……驚かないんですか」

 世界を渡るなんてあり得ないことだと綾子は常識的に考えてそう認識していた。小説や漫画の中では異世界の話や幾つもの世界を股にかけるような話もあったが、それは全て作られた話であって現実的なことではないと。だから、綾子の中の常識で言えば異世界の人かもしれませんなんて告白をされたら驚くとそう思っていたのだ。

 だが、ヴィルヘルムは驚くこともせず、まるで知っていたとでも言う様な答えを返してきた。

「うん、なんとなく予想はしていたから」

 こちらの世界の常識と一致しないこと、学者が誰ひとり読み解けなかった書を理解すること、認識されている限りでは見たことも聞いたこともない装い、そこに曰くつきの泉が絡んでいるのならば異世界からきましたと言われた方がそうかと納得できる気がした。

「君は知りたいんでしょう、この世界のこと、そして国のことを」

 名前をと言われて名前を答えなかったのは綾子がこの国のことを知らないからだとヴィルヘルムは予想だてていた。国のことや魔法のことはいくらか話したことがあったが、ネコについてや名前を交換することについてはあえて触れていなかったのだ。

 それを綾子も理解していて、だから名前を教えてと言われてもまだ教えられないと答えたのだろう。出会ってから今までで綾子には分別や一定以上の教養があることは知れていたが、言葉を交わすことでちゃんと自分で考え判断することのできる人だと知れた。

「君が知りたいと思うこと、全部教えてあげるよ」

「教えて、くれるんですか」

 今までちっとも話す気配がなかったから話せないことなのかと思っていたが、それは思い違いだったらしい。

「うん。ただね、話す前に一つお願いを聞いて貰いたいんだ」

 耳から輪郭をなぞる様にして背まで撫でる。ふかふかの毛並みは絡まることも無く指通りも滑らかだ。

「お願い?」

「そう、僕の名前を呼んで欲しいんだ」

 名前を呼ぶことで何一つ課せられることも無いし、負担になることもないからとヴィルヘルムが言えば、綾子はそれぐらいならと膝の上から近くの机の上に飛び移ってヴィルヘルムの顔を見上げて呼んだ。


「ヴィルヘルム」

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