018
城へ連れて帰られた綾子はすぐに医者に見せられ、足首の手当てをされた。その時、頭も打っているかもしれないからと幾つか質問をされたのだが、声を出すことが出来ず首を縦か振って答えることしかできなかった。
あの男たちの手から逃れる時叫んだ声は聞きなれた声で、言葉も発していたことを知っている綾子にしてみればどうして声が出せないのかと疑問に思う。名前を告げるにしても告げないにしても、これで漸くヴィルヘルムに聞きたいことを聞くことができるとおもっていたのにだ。
医者の見立てとしてはショックで一時的に声がでなくなっているだろうというものだ、検知の魔法を使い何か呪いをかけられているのかを念のため調べていたがそういった類のものは一切かけられていなかった。もともと、ヴィルヘルムが用意した首輪に綾子に害意ある魔法は弾く魔法が込められていたからその検知魔法は万が一の為だ。
しかし、人の姿に戻ったはいいものの言葉が喋れないとはと綾子は寝かされているベッドの上で上半身を起こしつつ考える。文字はまだ読めないし、誰か読唇術でも使えないかとそんなご都合主義なことを考えたが、ヴィルヘルムに何を言っているか分からなくてごめんと謝られたばかりだ。
『それにしても、暇だなぁ』
声は出ないが口を動かしてみる。怪我は軽い打撲で安静が必要だとは言われたが、こうもベッドから出ることを禁止されると暇で仕方が無い。テレビもないしラジオもない、本を読もうにも文字が分からないから広いベッドをごろごろと転がるか、外を眺めるしかすることがなかった。
することが無い分、色々なことを考える余裕はあるのだが……猫の姿で自由気侭に出歩き続けていた身としてはこのじっとしていることがたまらなく辛い。忙しい日々に追われていた時には一日中ごろごろしていたいとそう思っていたこともあるのに、実際にそうなってみると退屈でしかたがなかった。
『これなら、猫の姿の方がよかったのかな』
言葉を喋ることが出来れば疑問も解決されると思っていたし、人の姿になったことで喋ることができるようになるとそう思っていた。少しぐらいならもう出歩いても平気なのだが、ヴィルヘルムがメイドや家臣たちにも言い含めているのだろう、一度部屋から出ようとするのを見つけられて凄い形相でベッドで安静にしているようにと言われたのだ。
政務の合間に顔を身に来たヴィルヘルム自身からも無理はしない様にと言われたが、過保護だとそう思わずにはいられない。しかし、その顔を心配だという思いを前面に押し出されてしまえば何も言うことはできなくて、心配をかけてごめんねとも伝えられなくてただ繋いでいた手を握り返すことしかできなかった。
声を取り戻したらきっと名前を尋ねられるのだろうがそれに、どう答えるのかはまだ答えがでていない。ヴィルヘルムのことは好きだと思う、この世界に来て一番長く時間を共にしたというだけではなくて、ふとした瞬間に見せる子供っぽいところだとか、仕事に対する姿勢だとか、一生懸命に話しかけてくる姿も好きだった。
目を瞑って思い出すのは、警戒心を持っていた綾子に優しくほほ笑みかけてくれた表情だとか、書類に視線を落とす真面目な表情、それから不安と心配をごちゃまぜにしたようなあの夜に見せた表情。
目を瞑っていると、開けられた窓から吹き込む風をより強く感じた。吹きこむ風にのって香ってくるのは外で咲き誇っている花だろうか……と、先ほどまでは感じていなかったはずなのにと目を開けてみればベッドがより大きく感じられた。
まさかと思い自分の身体を見てみればそこには数日前まではよく目にしていた毛並みがある。
「え、うそ、ってあれ」
姿が猫に戻った様だが、今度は言葉を喋れるようになっていて綾子は驚く。
一体何がどうしてそうなるのか全く理解はできないが、これでヴィルヘルムに対して色々質問はできる。ベッドの上に四肢で立ち上がり打撲していた足に力を入れてみるが痛みは感じなかった。
「戻るのを待つべきか、行くべきか」
時間的にはそろそろヴィルヘルムも休憩を入れる時間だから訪ねても問題ないだろうが、きっと綾子のもとを訪ねるだろうから待っていても問題ない。しかし、もしかしたら何か不具合があって猫の姿になってしまったかもしれないと考えればすぐにでも知らせた方がいいだろうしとぐるぐると悩んだが、一つ気付いた。
「……ドア、開けられない、よね」
猫に戻った姿ではあのきっちりと閉められた扉をあけることができないのだ。猫の姿であった時には自由に出入りできるようにと少し扉を開けてあったが今はちゃんと閉じられている。器用にドアノブにぶら下がって扉を開ける猫は見たことがあるが綾子は自分が同じことをできるようには思えなかった。
これは、ヴィルヘルムがこの部屋を訪ねて来るのを大人しく待っていようと扉を開けてすぐにでも目に入りそうな位置に移動して番犬よろしく座って待つ。名前を問われてもまだ返す答えを決めていないけれど、それでもお疲れ様といって出迎えることはできる。どんな顔をするだろう、そんなことを想像して思わず笑みがこぼれた。