017
侵入者たちは捕えられ、壊れた壁や鉢植えの修復も行われ、辺りは何事もなかったかのような平静さを取り戻している。あの騒動の中眠り続けていたネコたちはどうやら魔法と薬の力をもってして強制的に眠りにつかされていたらしい。綾子にその力が及ばなかったのは綾子がヴィルヘルムから贈られた首輪に害を及ぼす対外的な事象から護るよう呪がかけられていたからだ。
徐々に直されてゆく壁や扉を見て、魔法とは便利なものだと思ったがあの惨状を引き起こしたのも魔法の元となる魔力の暴走によるものだと聞いて思わず身をすくめた。
この世界には魔法が確固たるものとして存在していると聞いても、自分には関係のないことだとそう思っていたのに、綾子にも魔力というものが備わっていて暴走すれば人を一人吹き飛ばすぐらいたやすい程度の爆発は引き起こして仕舞うのだと先ほど身を持って体験したのだ、もう関係のないことだと目を逸らすことはできない。
少し動かした足が痛い、酷いけがであれば魔法で治しますけれど打撲程度の怪我なので医者に任せましょうと応急処置のみを施された足首に思わず手を添える。
治癒魔法を使えば簡単に傷を治すことも出来るが、それは細胞や骨に対して力を加え強制的に施す治療であって命にかかわるものでなければ魔法を使っての怪我の治癒をすることはないと説明された。もし綾子が望むのであれば魔法による治癒をするがどうするかと尋ねられたが首を横に振って断っていた。
副作用の説明まではされていないが、命にかかわる様な怪我でなければ魔法を用いないのであれば打撲よりも酷い症状を抱えてしまう可能性があるのだ、それに打撲程度であれば日にち薬で回復するのだから魔法を使う程ではないし、足を動かさなければ痛みを感じることも無い。
でも、ヴィルヘルムの後を追いかけることが出来ないのは少し寂しいなとそう思った。ネコの姿をしている時、散歩がてらにヴィルヘルムの姿をのぞきに行ったのは一度や二度ではない。
「……」
すぐに来るとジルベールは言っていたけれど、体感時間がまだよく分からなくてそう言えば時計をしていたんだと腕に目をやれば全く動いていないことに漸く気付く。先ほどの衝撃で壊れたのかと、お祝いだったのにと、少しひびの入った盤面を撫でる。
寝付きが悪く、漸く意識が遠のいてきた頃……否、大きな魔力の揺れを感じて浅い眠りが覚めて少ししてからの知らせ。
国で一番の警備を敷いていると言っても過言ではない神殿のそれも奥まった籠りの日に使用される部屋に侵入者があったなどと一瞬信じられなかったが、火急の知らせと伝言を持ってきたのはジルベールが使役する鬼神の中で最も足の速いものだったこと。そして、目を覚ます切っ掛けとなった魔力の揺れが神殿の方角からしたということから余程のことがあったのだと、綾子の気配を探り転移の魔法を使って神殿を訪れた。
そうして目に入ってきたのは大方の修復を終えてはいたが所々、あの魔力の揺れによって何かがあったと察せられる現状に壁に背を持たれさせて座る見慣れない装いをした少女の姿。近くにいたジルベールに視線をやればそうだとでも言う様に頷かれた。
「大事はないか」
足音も無く、唐突にその場に響いた声に綾子の視線が時計から移され、寝間着にガウンを羽織った姿のヴィルヘルムをその青い眼に映す。
「……」
今まで味わったことも無い恐怖は味わったが、怪我は足首をくじいた程度であの現状を見ているとこの程度で済んで良かったとそう綾子は思う。だから大事は無いかと尋ねられて一つ頷いた。
「そう、……君が」
綾子の前に跪き頬を撫でる。
輪郭を辿る様に頬から首へと滑り落ちていった手が鎖骨辺りで止まった。ヴィルヘルムの指先はどういう仕組みになっているのか分からないが今の綾子の首に丁度いいぐらいに伸びた首輪がついていて、きっとそれに触れているはずだ。
「侵入者の知らせが入った時、心臓が止まるかと思った」
神殿に侵入者ありと知らせを受けまず最初に思ったのはまさかということだ、そして神殿に侵入者があり魔力の大きな揺れがあったとなれば争い事が起きたと綾子は無事かと背後に聞こえたノック音を無視してこの場に来てしまった。知らせを受けた誰かがヴィルヘルムを呼びに来たのかもしれないが、後で釈明すればいい。
神殿の守りは強固なものだという慢心があったのかもしれない、強化すべき個所はどこか、どの手を講じるべきか、そんなことが頭をよぎりかけたが綾子の目じりが濡れていることに気付き下唇を噛みしめる。
大事は無かったと答えたが顔色は青ざめ身体が僅かに震えていた。
「ジルベール、つれて帰るが構わないな」
「えぇ、人型に戻られましたし、籠りの日もあとわずかで終わりですから」
尋ねるというよりは確認を取るといった風に言われてジルベールは了承する以外の答えを持たなかった。侵入者も籠りの日のことを調べをつけてこの時間帯を狙ってきたのだろう、正確な時間は分からないがあと十分もしないうちに籠りの日は明ける。
「明日、警備系統諸々が議題の中心になるだろうから資料を準備しておいてくれ」
綾子を立ち上がらせようとしたが、片手が足首に添えられていてその指の隙間から包帯が巻かれているのがわかりヴィルヘルムは苦虫をかみつぶした様な顔をすると膝裏と背を支えて綾子を抱えあげる。
「了解、現状と改善案まとめて提出するよ。それから、足を挫いた様だから応急処置はしたけれど、医者に見て貰ってね」
「……」
不審者の侵入を許した上に綾子を攫われそうになっただけでも苛立ちや怒りを感じていたというのに、その上怪我まで負わせてしまうとはと、ヴィルヘルムは侵入者たちにもだが神殿の警備の穴に気付けなかった自分自身にも憤りを感じた。
「うん、君の怒りもわかるけど……今は抑えて欲しいかな」
魔力の強い者の感情の揺らぎはそのまま魔力の揺らぎとなり怒りや悲しみの様な負の感情に至っては周囲に圧迫感や威圧感を与えてしまうのだ。今ここにいるのはこの国でもそれなりに魔法と向き合い使える者たちばかりだから表情をゆがませる程度で済んでいるが、下手をすれば気を失う者が出てもおかしくは無い。
綾子もヴィルヘルムの気配の変化に気がついたのだろう先ほどまでは横抱きにされて頬を赤く染めていたというのに、心配そうな顔をしてヴィルヘルムの顔を見上げている。そっと自由だった手で眉間に寄りそうになっていた皺に触れれば緊迫していた空気が一瞬で霧散した。