012
あの日以来、ヴィルヘルムが綾子に話しかける頻度が高くなってきた。
否、今までも綾子を構う時間は政務に携わる時間を考えれば長く喋りかけてくることも多かったのだが、今ではどう思うだとか、はいいいえでは答えにくい質問を良く投げかけて来る。それはやはりあの綾子は意識をしていない時にヴィルヘルムから問い掛けられた問いに鳴き声ではなく人の言葉で返事をしていたからだろう。
綾子も人の言葉が喋ることが出来ればとは思っているが、何故そんな時に人の言葉を話せたのかもわからないし、無意識で人の言葉を発していたのだからどうしたら喋れるのか何て綾子の方が聞きたいくらいだ。
しかし、言葉を喋れることは綾子にとって諸刃の剣であることはこの世界にきてからの調べによって何となく理解している。城内を散歩していて聞いた話に寄れば王族がネコに名前を聞くことは伴侶としてそのネコを相手として望むということだ。そうなれば、周りが綾子を大切に扱う理由も分かる。
ヴィルヘルムは次期国王だと言っていたし、その伴侶となればこの国の王妃となる存在。もしかしたら側室扱いになるかもしれないが、それでも次期国王の寵愛を受けるかもしれない相手ならばヘタに扱うわけにはいかないのだろう。
王妃になること、もしくは側室になること……それを受け入れられるだろうかと考えたこともあった。今この生活を保障されているのはそういった前提があるからで、綾子がこの世界から元の世界へ帰りたいとそう言ったらどんな反応をされるか。
ヴィルヘルムのことは好きだと思う、だがまだそんな大きな覚悟を持って、大きな責任を負う立場になるかもしれない未来を選びとることが出来るわけではない。それに、ここは綾子が生まれ育った世界ではなくて、この世界に残るということは家族とも友達とも二度とあえなくなることとイコールで結んでもおかしくない選択だ。
綾子が日本文学に興味を持つ切っ掛けとなり、その人の下で学びたいと漸くそれが実現しようとしていたのにその現実をみすみす手放してしまえるのかと枕の様に身体の下に置いてある書物を見る。今まで必死に授業以外でも独学で上代から中古代文学を読み漁ってきた。この書物を見つけた時もどれだけ胸が高鳴ったことか。
写しや教材として訳された話であれば何度も目に通したことのある、一般にも広く知れ渡っている物語。原書ではないにしても、綾子が今まで目にした中で一番古いものだった。宝物を見つけた様な、始めて物語を読んだ時の様な、そんなわくわくとした気持ちはこの道を目指し始めた頃と全く変わっていなくて、綾子はぐっと込み上げてきたもやもやとした感情を押し殺す様に噛みしめる。
それと、この書物を見つけて分かったことはこの世界にこの書物を訳せる人がいないと商人が言っていたから此方の世界にはこの文字を知る人はいなかったのだろうということ。けれど、この書物がこの世界にあるという事実は、綾子のいた世界とのつながりがあの綾子がこの世界で初めて目にした泉とは別に何処かにあるということではないだろうかというこことだ。
帰れる可能性が手段があるのか無いのかまだ何一つわかっていない。だが、あの泉以外にも可能性があるのならと、浮かせいていた顎を書物に乗せた。
元の世界を捨てられない理由は山ほどある。けれど……
『この世界も……好きかもしれない』
あの人が笑っている。
仕事をしている時の様子をそっとのぞきに行ったことがある、軍の訓練に参加しているのも見たことがある、プライベートな時間で気を抜いた様子も、嬉しそうに笑う顔も、寂しそうに笑う顔も、色んな姿のヴィルヘルムを見てきた。
話を聞いていて楽しいし、ヴィルヘルムが笑っていると綾子も嬉しくなる。けれど、それはまだ淡い想いで全てを捨ててその想いを取れるのかと言われるとやはり悩んでしまう。決定的な何かがまだたりないのだ、その決定的な何かはわからないから何かと表しているのであって、このまま分からないままに帰りたいと願い続けるのかもしれない。
ふらふらと城の中を歩いていると白いローブの様な装いをした数人と鉢合わせた。
見た感じで少し神経質そうな印象を与える相手は、高校の時の教科担任にどことなく似ていて懐かしい気持ちがくすぶる。少し急いでいる様だしと廊下の端に寄ったが彼らは綾子を見つけその首に収まり毛で見つけづらくなっている首輪を目ざとく見つけるとそこが廊下であるにも関わらず片膝をついて頭を垂れた。
何事かとぎょっとして歩こうとして上げた片前足をそのままに綾子は彼らのことをマジマジと見てしまう。
「うにゃー」
何かしてしまったのだろうか、そんな不安に押し出された声に反応する様にして白い装いをした内の一人が喋り出した。
「貴方がヴィルヘルム王子のネコなのですね。お初にお目にかかります、神官長を務めておりますジルベールと申します」
こちらの者たちはと紹介するが、如何せん綾子は横文字を覚えるのが苦手で最近漸くヴィルヘルムのフルネームを心内でだが噛まずに言える様になったぐらいだ。だから、最初の印象と共に頭になんとかはいったジルベール以外の名前は覚えていても顔と一致しないだとか、何処か文字が入れ換わっているだとか、覚えきれないままになってしまっている。
名前は覚えていないが、ジルベール率いる白い装い集団は、ネコを保護している神殿の神官たちでヴィルヘルムのネコとして選ばれたという綾子に挨拶をしにきたというのだ。だがまだ此方の国の常識に慣れていない綾子にとって、猫に跪く大人たちという姿はどうも受け入れがたい光景であって少し逃げ腰だ。
「ヴィルヘルム様には何度も神殿へ顔を出す様にと申請をしていたのですが、受け入れられずこうして出向いた次第です」
「にゃー」
はぁ、そうですかとかお疲れ様ですとかそんな思いが鳴き声に乗る。
「まぁ、自分以外の男に見せたくないだとか、そんな時間があったらネコといたいだとかそんな理由だろうとは分かっていますが」
いい加減にして欲しいですよねまったく、とその口から零れはしなかったが語尾にそんな言葉がついた様に綾子には聞こえた。確かに、この国の王族の溺愛っぷりはあ凄いというのを綾子も客観的にも見ているし実際に体験しているから今、ジルベールが言った理由は間違いではないのだろうと分かる。
「しかし、本当に今まで御見かけしたことのない姿をしているのですね」
長毛でふさふさとしていそうな毛並みは毛づくろいが行き届いていて毛玉一つない。末端に行くにつれて色の濃くなる色に身体以上にふさふさとして見える尻尾。神殿に残っている資料にはこんな容姿をしたネコの記述は一つだってなかった。
「おっと、失礼。本日はヴィルヘルム王子のネコである貴方への挨拶とお伝えしておきたいことがあり御伺したのです」
ふむと、何かを観察するように綾子を見つめ出していたジルベールは一つ咳払いをすると綾子の下を訪ねてきた理由を話す。
「貴方はまだ神殿に登録をされておりません。ですので、早いうちにヴィルヘルム様を説得して神殿へお越し下さい。流石に貴方の言葉でしたら御聞き入れ下さるでしょうし。お願いいたしますね」
ではと、また一礼をして颯爽と裾をなびかせて去ってゆく。何故あんなにも足早にと綾子がジルベール達が去った方を見ているとあわただしい足音が近づいてきた。
「ここに居たのか」
執務室から走ってきたのだろうか、髪型の乱れたヴィルヘルムが綾子の前までやってくる。先ほどの神官たちのようにして綾子の前に跪き様子を窺う様にしていた。
「ジルベールたちが君を探していると知らせを受けてきたんだが……何もされなかったかい」
跪かれた時には驚きはしたが、自己紹介をされていつか神殿へ来るようにと言われただけでこんなにもヴィルヘルムが慌てるようなことは何もされていない。だから首を横に振って見せたのだが、ジルベールにヴィルヘルムを説得して神殿へ来るようにとお願いされたのだが、それを伝える手段がないではないかと思わず口を開いてしまう。
「籠りの日なのかと思ったけれど、違ったようだね」
また知らない単語だと思い首を傾げたが、その部分だけを問うことはまだ綾子にはできない。そして、先ほどの頼まれごとを伝えることも。ジルベールさん、ごめんなさい神殿へ行くことはまだ先のことになりそうですと、心の中で詫びておいた。