同じ本の途中
宵子と会う日は、いつも少し早く家を出た。
待たせたくないというのもあった。けれど、駅へ向かう道で何度も時刻を確かめてしまうのは、それだけではない。
約束まで、あと二十分。
携帯をしまって歩き続けるコウタの背に、春の日差しが暖かかった。風にはまだ冷たさが残っているのに、駅までの道は少しも長く感じられない。
最初に会った日には、こんなふうに誰かを待つようになるとは思っていなかった。
◇
春になって、ライブの本数が増えていた。
平日のリハーサルと、週末のイベント。その合間に打ち合わせが入り、機材を運んでいるうちに一日が終わることもあった。
その日、コウタはスタジオへ向かう途中でケーキ屋に寄った。
スタジオへ持っていけば、ヒナタもハヤテも食べるだろう。それくらいのつもりで会計を済ませ、紙袋を持って店を出た。
選ばなかったケーキがまだ気になって、入口を離れる前に、もう一度ガラスの向こうを覗いた。
次はあれにしようか。
そう考えながら一歩横へ動いたところで、誰かの肩とぶつかった。
「わっ」
「す、すみません!」
ぶつかった拍子に紙袋が揺れ、コウタは慌てて持ち直した。中が気になって袋の口を開くと、隣から覗き込んだ女性が小さく声を漏らした。
「あ……」
ショートケーキが崩れていた。
白いクリームが箱の内側につき、苺がケーキの脇に転がっていた。さっきまできれいに並んでいたケーキは、すっかり形が崩れている。
「……やってしまいました」
彼女は顔を赤くして、深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい。私、不注意で……」
「あ、いえ……」
コウタは箱を水平に持ち直しながら、返す言葉を探した。
自分もよそ見をしていたし、形が崩れただけで食べられなくなったわけでもない。けれど、彼女は紙袋に目をやるたび、ますます申し訳なさそうな顔をした。
「弁償します。全部」
「いえ、そこまでじゃ……」
言いかけて、足元の本に気づいた。
ぶつかった拍子に、彼女の鞄から落ちたのだろう。拾い上げたコウタは、表紙を見て手を止めた。
「……これ」
差し出すと、彼女が慌てて両手を伸ばした。
「すみません、ありがとうございます」
「同じの、今読んでます」
「え?」
顔を上げた彼女に、コウタは続けた。
「ちょうど、真ん中くらいまで」
「私もです」
声が少し弾んだ。
彼女は受け取った本を開き、ページをめくった。
「この章、好きで。派手なことは何も起きないのに、ずっと残る感じがして」
示されたページに目を落とすと、コウタも読んだところだった。
「分かります。言葉が、静かなんですよね」
顔を上げると、彼女が嬉しそうに笑っていた。
さっきまでの申し訳なさそうな顔がほころんで、コウタはもう少し彼女と話してみたくなった。
「あ、私……久世宵子って言います」
「橘航太です」
聞いた名前を、心の中でもう一度呼んだ。
宵子。
「ケーキ……本当にごめんなさい」
彼女の視線が再び紙袋へ向いた。コウタもつられて目を落としたが、ケーキのことより、このまま別れてしまうのが惜しかった。
「このあと、時間ありますか」
宵子が顔を上げた。
返事を待つあいだに落ち着かなくなり、コウタは言葉を足した。
「もしよければ、この本の話、もう少し聞きたくて」
宵子は一度、手元の本へ目を落とした。
急に誘ってしまった。予定があるかもしれない。
無理なら、と続けようとしたところで、彼女がこちらを見た。
「……はい。ぜひ」
◇
近くのカフェに入り、向かい合って座った。
宵子はテーブルの端に置いたケーキの紙袋を気にしていたが、本の話に戻ると、少しずつ表情が和らいだ。
「誰かの気持ちが、説明されすぎないのに、ちゃんと伝わってくる感じがして」
「……分かります」
コウタは頷いた。
「読んでると、自分の気持ちまで、静かになるんですよね」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
宵子は笑って、開いたページへ目を落とした。
同じ本を好きな人には、これまでも会ったことがある。けれど、彼女の話には、自分でもうまく言葉にできずにいた感想と重なるところがあった。
そう、それが言いたかった。
頷いているうちに、自分からも話したいことが浮かんできた。
コウタが口を開くと、宵子は読んでいたところに指を挟んで本を閉じ、顔を上げて聞いてくれた。ときには頷き、ときには少し考えてから言葉を返してくれる。
次に何を話せばいいか、考えなくてよかった。
彼女の話を聞いていると、尋ねたいことが増えていく。コウタが話せば宵子も興味を持ってくれて、話題を探す必要はなかった。店を出る頃にも、まだ話し足りないくらいだった。
そのあとスタジオで崩れたケーキの箱を開けると、ヒナタとハヤテは、ケーキよりもコウタの顔を気にした。
ニヤニヤしていると言われて否定したものの、いいことがあったのだろうと聞かれると、うまく答えられなかった。
思い浮かぶのは、ケーキを見て困っていた顔より、本の話をして笑った顔のほうだった。
◇
宵子とは、そのあとも会った。
本を読み終えて感想を話し、別の本を勧め合う。教えてもらった焼き菓子の店へ足を運ぶと、次に会ったときに話したいことが、またひとつ増えた。
会っていない日にも、彼女を思い出すようになっていた。
新しく出た本を見つけたとき。店先に、おいしそうな菓子が並んでいたとき。
宵子なら好きだろうか。
以前なら通り過ぎていた店の前でも足が止まり、今度会ったら教えようと、名前を覚えて帰ることがあった。
ヒナタとハヤテには、顔が変わったと言われた。ふとしたときに笑っているらしい。
自覚はなかった。ただ、宵子から連絡が来ると嬉しかったし、次の予定が決まれば、その日が待ち遠しかった。
焼き菓子の店へ誘われたときも、迷わず返事を送った。
当日は何度も時刻を確かめていたのに、彼女と会ってからは、携帯をしまったままだった。
食べ終わってもすぐには別れず、二人で街を歩いた。本や音楽、最近見つけた店のこと。話はあちこちへ移り、ときには会話が途切れることもあった。
それでも、何かを言わなくてはと焦ることはない。宵子も急ぐ様子はなく、隣で歩く速さを合わせてくれた。
「……これ、デートですね」
不意に言われ、コウタは顔を向けた。
「……え?」
思わず声が裏返った。
「違いました?」
宵子が少し首をかしげる。そう思ってくれていたのかと、嬉しさと戸惑いで返事が遅れた。
「……ですね」
ようやく答えると、彼女は笑った。
「次も楽しみです」
コウタは前を向いたものの、気になって、もう一度彼女を見た。
同じように思ってもいいのだろうか。
自分だけが会いたくて、次の約束を待っているわけではないのかもしれない。
帰ってからも、宵子の「次も」という言葉を何度も思い返した。
◇
待ち合わせ場所に着くと、宵子はまだ来ていなかった。
店先のショーケースには、あの日、崩してしまったショートケーキが並んでいた。その隣には、前に宵子がおいしそうだと言っていたものもある。
今日は何を選ぶだろう。
宵子が迷ったら、もう一方を頼んでもいい。そうすれば、二人とも食べられる。
そこまで考えて、コウタは少し笑った。
「コウタさん」
声のほうへ顔を向けると、宵子がこちらへ歩いてきた。目が合うと、最後の数歩だけ足早になった。
「待ちました?」
「いえ」
彼女が来て、自分を見て笑ってくれる。これから一緒に過ごせるのだと思うと、コウタも自然に顔がほころんだ。
宵子は隣に並んで、ガラスの向こうを覗き込んだ。春の風に揺れる髪を耳へかけ、ケーキを見比べている。
その横顔を見ながら、コウタはようやく認めた。
この人が好きなのだ。
同じ本が好きだから会いたいのでは、もうない。自分が読んだことのない本でも、彼女がどう思ったのかを聞きたい。
「どれにします?」
宵子に尋ねられ、コウタもショーケースへ目を戻した。
「今日は、宵子さんのおすすめで」
彼女が選ぶのを、隣で待った。




