校正者のざれごと――『るるぶ』『エイビーロード』と夜の訪問者
私は、フリーランスの校正者をしている。
ふだんはなかなかまとまった休みがない(こわくて取れない)のだが、それでも年に1、2回は旅行に行く。前職の関係で、特に海外旅行が好きだ。真冬の日本からダウンを着て飛行機に乗り、常夏の地に降り立ったときのあのもわっとした空気。すぐにセーターを脱いでTシャツ1枚になり、サンダルに履きかえて外に出る。あの感じがたまらない。
旅行の情報収集といえばネット検索が便利だが、やはり雑誌も捨てがたい。国内でも海外でも、お勧めの観光地や地図がまとめて見られる。
あるとき、見慣れた雑誌の表紙が意外なかたちでピックアップされているのを目にした。
――『るるぶ』みたいなカレー
え、カレー? そこには「食卓で旅行気分を味わえる るるぶ×HACHIコラボシリーズ」とある。あのなじみのある表紙を模したパッケージのご当地カレーだ。北海道から沖縄、そしてハワイまで、全17種類。青森の「りんごとガーリックのチキンカレー」や名古屋の「味噌煮込みビーフカレー」など、なるほどと思うものもあれば、横浜の「中華カレー」のようなちょっと雑(?)な感じのものもある。
JTBパブリッシングの『るるぶ』は1973年創刊で、発行点数の多さでギネスにも認定されているそうだ。いまでも書店に行けばカラフルな表紙がずらりと並ぶ。『地球の歩き方』と並び、旅行の際はだれしも一度はお世話になっているのではないか。
一方、コラボ相手の「HACHI」とは?
「ハチ食品」は、1845年創業という老舗の食品メーカーだ。もともとは薬種問屋で、日本初のカレー粉を製造したのが1905年。その名も「蜂カレー」。とはいっても蜂や蜂蜜が使われているわけではない。薄暗い蔵の窓に止まった1匹の蜂に朝日が射して美しく見えたことが由来だそう。
レトロな赤い缶には、「蜂カレー」の文字の下に「currie powder」とある。あれ? カレーって「curry」じゃないの? 検索してみると、おなじみのエスビー食品の赤缶にはやはり「spicy curry powder」の文字。ところが、業務スーパーで販売されている商品に「C&A currie powder gold」というのを見つけた。こちらは1935年創業の老舗の会社の商品だ。辞書で確認すると、ジーニアス英和大辞典とリーダーズ英和辞典には「curry」の綴りとともに「currie」も掲載されていた。いやいや、細かいところにこだわりすぎ。職業病?
ちなみに、カレー粉の王道であるエスビー食品の創業は1923年。ハチ食品創業の約80年後になる。当時は「日賀志屋」という社名だった。商標に太陽(SUN)と鳥(BIRD)を使用するようになり、やがて社名が「ヱスビー食品」となった。このカギのついた「ヱ」の文字になじみのある方もいるかもしれない。1949年の社名変更当時はこの書体だったが、これは1992年に「エ」の文字に改められている。
話が脱線したが、旅行雑誌というとこんな思い出がある。
まだ格安航空券やパッケージ旅行を紙の媒体で探すのが主流だった頃、『エイビーロード』という雑誌があった。1984年創刊の、リクルートが発行していた月刊の海外旅行情報誌だ。ちなみに国内旅行の情報誌は『じゃらん』だった。私が以前いた会社ではこのエイビーロードに毎月広告を掲載していた。
月に一度、午後7時を過ぎたころ、『エイビーロード』の編集者たちは原稿を取りにやってくる。
フロアに「エイビーさん来たよ」の大きな声が響き渡る。戦闘開始の合図だ。
格安と謳っている分、他社との料金競争が激しかった。この『エイビーロード』に他社より少しでも、それこそ何百円でも安く料金を掲載することで、翌月からの売り上げに大きく差が出る。とくに人気のあったハワイやアジアビーチなどの担当者は、毎月この時期になるとかなり殺気立っていた。
編集者はヨーロッパやアジアなど方面ごとに数人いた。彼らは来客用の小さなブースにひとりずつ入り、こちらの担当者からの原稿を待っている。担当者のほうはぎりぎりまで料金の交渉やマーケティングをしていて、なかなか原稿が出せない。編集者たちはその間、ひたすら待たされている。ベテランになると、途中で夕食をとりに外へいったり、本を持ってきて読みながら待っていたりする。すべての担当者が編集者に原稿を渡し終えるころには深夜になることもあった。当時、その光景を見ながら「編集者って大変な仕事なんだな」と感じていた。そしていまもその印象はあまり変わっていない。
雑誌『エイビーロード』は、時代の流れとともにその勢いは衰え、2006年10月には紙での出版を終了、インターネットサービスへ移行した。そして2021年3月、すべてのサービスを終え、その名は消えた。
いまでは旅行の予約は比較サイトもあり便利だ。SNSなどには最新の情報もあり、知らない土地への旅のハードルはだいぶ下がったと感じる。
でも、紙の媒体で少ない情報を必死にかき集め、行き当たりばったりで飛び込んだ海外もまた魅力的だった。さて、今年はどこへ行こうかな。暑いし、カレーでも作りながら考えるとするか。




