結末
夕暮れの空が血のように赤く染まる中、村の外れに魔物の群れが姿を現した。
八年前と同じだった。木々の間から湧き出る黒い影、地を揺らす重い足音、そして空気を切り裂く咆哮。エミリアの左頬の傷が、まるで記憶を呼び覚ますかのように疼いた。
「エミー、俺の後ろに!」
ジェイクが剣を構え、彼女の前に立ちはだかる。その背中は、あの日——十五歳の自分が一人で立ち向かった時には存在しなかったものだ。
「違う」
エミリアは静かに、しかし力強く言った。
「今度は、一緒に」
ジェイクが振り返る。その茶色の瞳に驚きが走り、やがて深い信頼の色に変わった。
「……まあ、そうだな」
自警団の若者たちが後方で陣を敷く中、二人は肩を並べた。
戦いは熾烈を極めた。エミリアはギルドで培った知識と判断力で魔物の動きを読み、ジェイクは鍛え抜かれた剣技で確実に敵を仕留めていく。二人の息は、まるで幼い頃から共に戦ってきたかのように合っていた。
その時だった。
「助けて!」
悲鳴が響いたのは、村の見張り塔からだった。逃げ遅れた子供が、塔の上で魔物に追い詰められている。
エミリアの全身が凍りついた。
塔の高さは優に十メートルを超える。高所恐怖症の彼女にとって、それは地獄に等しい高さだった。足がすくみ、心臓が早鐘を打つ。
——逃げたい。
その思いが一瞬、頭をよぎる。
けれど次の瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは、一年前に重傷を負わせてしまった新人冒険者の顔だった。あの時、自分がもっと早く動いていれば。もっと勇気を出していれば。
「きっと大丈夫だって!」
それは自分自身への言葉だった。
エミリアは駆け出した。塔の梯子を必死で登る。手が震え、足が竦む。下を見れば意識が遠のきそうになる。それでも、恐怖を塗り潰すように子供の泣き声だけを聞いて、ただ上へ、上へ。
塔の上に辿り着いた時、魔物が子供に爪を振り下ろそうとしていた。
考える暇などなかった。
エミリアは子供を抱きしめ、塔の縁から飛び降りた。
視界が回転する。風が耳元で悲鳴を上げる。死が、すぐそこまで迫っていた。
——母さんのお守り。
胸元で首飾りが熱を持ったような気がした。
同時に、地上から閃光が走る。
ジェイクが投げた短剣だった。彼が夜を徹して鍛えた、魔物の弱点を正確に貫くための特製の刃。それが空中の魔物を射抜き、エミリアたちの落下軌道から脅威を消し去った。
そして、受け止めてくれたのもまた、ジェイクだった。
「無茶をするな……!」
その声は震えていた。怒りではない。純粋な恐怖と、そして安堵。
「ごめん。でも、」
エミリアは子供を自警団の若者に預けながら、笑った。あの、目を細めて鼻にしわを寄せる、彼女らしい笑顔で。
「大丈夫だって、信じてたから」
ジェイクは何も言えなかった。ただ、首の後ろを掻いて、視線を逸らした。
その夜、村は勝利に沸いた。
かがり火が広場を照らし、人々は抱き合い、涙を流した。エミリアは村人たちに囲まれ、「英雄」と称えられた。けれど彼女は、その称号がしっくりこなかった。
一人になりたくて、彼女は村外れの丘に向かった。
そこは、幼い頃にジェイクとよく星を眺めた場所だった。
「……やっぱりここにいたか」
振り返ると、ジェイクが立っていた。手には、何か小さなものを握りしめている。
「ジェイク」
「エミー、話がある」
彼の声はいつもより低く、そして真剣だった。普段は感情を表に出さない彼が、今は明らかに緊張している。眉間に深いしわを寄せ、何度も言葉を探すように口を開いては閉じる。
「これを……」
差し出されたのは、銀色に輝く小さなペンダントだった。繊細な細工が施され、中央には彼女の瞳と同じエメラルドグリーンの石がはめ込まれている。
「五年前、お前が村を出る時に渡そうとした。でも、渡せなかった」
「ジェイク……」
「俺は——」
彼は一度深く息を吸い、そして吐いた。
「九年間、ずっとお前のことを想っていた」
エミリアの心臓が大きく跳ねた。
「お前が村を出た後も、手紙が届くたびに安心して、でも会いたくて、お前の夢を応援したいのに側にいてほしくて、ずっと……ずっと」
言葉が途切れる。ジェイクは首の後ろを掻いた。照れているのだ。こんな大切なことを言っているのに、照れて、言葉に詰まっている。
その不器用さが、たまらなく愛おしかった。
「私も」
エミリアは彼の手からペンダントを受け取り、そっと胸に押し当てた。
「私も、ずっと。でも……」
彼女は唇を噛んだ。
「まだ、一人前になれていないの。ギルドで、やりたいことがある。守りたい人たちがいる。だから——」
「分かってる」
ジェイクは静かに微笑んだ。それは、彼女がこれまで見た中で最も穏やかで、最も優しい笑顔だった。
「お前が夢を追いかけるのを、止める気はない。それがお前だから」
「だから、お願い」
エミリアは真っ直ぐに彼を見つめた。エメラルドグリーンの瞳に、星明かりが揺れる。
「待っていてほしい。いつか、胸を張って帰ってこられる日まで」
ジェイクは答えた。言葉ではなく、行動で——彼らしいやり方で。
彼女の髪にそっと触れ、額に軽く唇を落とす。
「ずっと待っている。この村で、お前の帰りを」
翌朝、エミリアは村を発った。
ペンダントは彼女の胸元で、母のお守りと並んで揺れている。振り返れば、村の入り口にジェイクが立っていた。手を振ることもなく、ただ静かに見送っている。それが彼のやり方だと、彼女は知っていた。
「行ってきます」
小さく呟いて、エミリアは歩き出す。
ギルドへ続く道は長い。でも、もう怖くなかった。
だって今の彼女には、帰る場所がある。陽だまりのように温かい故郷と、そこで待っていてくれる人が。
左頬の傷跡を、朝日が優しく照らした。
それは挫折の証ではなく、立ち上がった証。そしてこれからも、何度でも立ち上がり続ける彼女自身の物語は——
まだ、始まったばかりだった。




