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エミリアの帰郷  作者: 試作ノ山


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3/3

結末

 夕暮れの空が血のように赤く染まる中、村の外れに魔物の群れが姿を現した。

 八年前と同じだった。木々の間から湧き出る黒い影、地を揺らす重い足音、そして空気を切り裂く咆哮。エミリアの左頬の傷が、まるで記憶を呼び覚ますかのように疼いた。

「エミー、俺の後ろに!」

 ジェイクが剣を構え、彼女の前に立ちはだかる。その背中は、あの日——十五歳の自分が一人で立ち向かった時には存在しなかったものだ。

「違う」

 エミリアは静かに、しかし力強く言った。

「今度は、一緒に」

 ジェイクが振り返る。その茶色の瞳に驚きが走り、やがて深い信頼の色に変わった。

「……まあ、そうだな」

 自警団の若者たちが後方で陣を敷く中、二人は肩を並べた。

 戦いは熾烈を極めた。エミリアはギルドで培った知識と判断力で魔物の動きを読み、ジェイクは鍛え抜かれた剣技で確実に敵を仕留めていく。二人の息は、まるで幼い頃から共に戦ってきたかのように合っていた。

 その時だった。

「助けて!」

 悲鳴が響いたのは、村の見張り塔からだった。逃げ遅れた子供が、塔の上で魔物に追い詰められている。

 エミリアの全身が凍りついた。

 塔の高さは優に十メートルを超える。高所恐怖症の彼女にとって、それは地獄に等しい高さだった。足がすくみ、心臓が早鐘を打つ。

 ——逃げたい。

 その思いが一瞬、頭をよぎる。

 けれど次の瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは、一年前に重傷を負わせてしまった新人冒険者の顔だった。あの時、自分がもっと早く動いていれば。もっと勇気を出していれば。

「きっと大丈夫だって!」

 それは自分自身への言葉だった。

 エミリアは駆け出した。塔の梯子を必死で登る。手が震え、足が竦む。下を見れば意識が遠のきそうになる。それでも、恐怖を塗り潰すように子供の泣き声だけを聞いて、ただ上へ、上へ。

 塔の上に辿り着いた時、魔物が子供に爪を振り下ろそうとしていた。

 考える暇などなかった。

 エミリアは子供を抱きしめ、塔の縁から飛び降りた。

 視界が回転する。風が耳元で悲鳴を上げる。死が、すぐそこまで迫っていた。

 ——母さんのお守り。

 胸元で首飾りが熱を持ったような気がした。

 同時に、地上から閃光が走る。

 ジェイクが投げた短剣だった。彼が夜を徹して鍛えた、魔物の弱点を正確に貫くための特製の刃。それが空中の魔物を射抜き、エミリアたちの落下軌道から脅威を消し去った。

 そして、受け止めてくれたのもまた、ジェイクだった。

「無茶をするな……!」

 その声は震えていた。怒りではない。純粋な恐怖と、そして安堵。

「ごめん。でも、」

 エミリアは子供を自警団の若者に預けながら、笑った。あの、目を細めて鼻にしわを寄せる、彼女らしい笑顔で。

「大丈夫だって、信じてたから」

 ジェイクは何も言えなかった。ただ、首の後ろを掻いて、視線を逸らした。

 その夜、村は勝利に沸いた。

 かがり火が広場を照らし、人々は抱き合い、涙を流した。エミリアは村人たちに囲まれ、「英雄」と称えられた。けれど彼女は、その称号がしっくりこなかった。

 一人になりたくて、彼女は村外れの丘に向かった。

 そこは、幼い頃にジェイクとよく星を眺めた場所だった。

「……やっぱりここにいたか」

 振り返ると、ジェイクが立っていた。手には、何か小さなものを握りしめている。

「ジェイク」

「エミー、話がある」

 彼の声はいつもより低く、そして真剣だった。普段は感情を表に出さない彼が、今は明らかに緊張している。眉間に深いしわを寄せ、何度も言葉を探すように口を開いては閉じる。

「これを……」

 差し出されたのは、銀色に輝く小さなペンダントだった。繊細な細工が施され、中央には彼女の瞳と同じエメラルドグリーンの石がはめ込まれている。

「五年前、お前が村を出る時に渡そうとした。でも、渡せなかった」

「ジェイク……」

「俺は——」

 彼は一度深く息を吸い、そして吐いた。

「九年間、ずっとお前のことを想っていた」

 エミリアの心臓が大きく跳ねた。

「お前が村を出た後も、手紙が届くたびに安心して、でも会いたくて、お前の夢を応援したいのに側にいてほしくて、ずっと……ずっと」

 言葉が途切れる。ジェイクは首の後ろを掻いた。照れているのだ。こんな大切なことを言っているのに、照れて、言葉に詰まっている。

 その不器用さが、たまらなく愛おしかった。

「私も」

 エミリアは彼の手からペンダントを受け取り、そっと胸に押し当てた。

「私も、ずっと。でも……」

 彼女は唇を噛んだ。

「まだ、一人前になれていないの。ギルドで、やりたいことがある。守りたい人たちがいる。だから——」

「分かってる」

 ジェイクは静かに微笑んだ。それは、彼女がこれまで見た中で最も穏やかで、最も優しい笑顔だった。

「お前が夢を追いかけるのを、止める気はない。それがお前だから」

「だから、お願い」

 エミリアは真っ直ぐに彼を見つめた。エメラルドグリーンの瞳に、星明かりが揺れる。

「待っていてほしい。いつか、胸を張って帰ってこられる日まで」

 ジェイクは答えた。言葉ではなく、行動で——彼らしいやり方で。

 彼女の髪にそっと触れ、額に軽く唇を落とす。

「ずっと待っている。この村で、お前の帰りを」

 翌朝、エミリアは村を発った。

 ペンダントは彼女の胸元で、母のお守りと並んで揺れている。振り返れば、村の入り口にジェイクが立っていた。手を振ることもなく、ただ静かに見送っている。それが彼のやり方だと、彼女は知っていた。

「行ってきます」

 小さく呟いて、エミリアは歩き出す。

 ギルドへ続く道は長い。でも、もう怖くなかった。

 だって今の彼女には、帰る場所がある。陽だまりのように温かい故郷と、そこで待っていてくれる人が。

 左頬の傷跡を、朝日が優しく照らした。

 それは挫折の証ではなく、立ち上がった証。そしてこれからも、何度でも立ち上がり続ける彼女自身の物語は——


 まだ、始まったばかりだった。

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