第二章
村の外れに広がる森は、五年前と変わらぬ深い緑を湛えていた。しかし、その奥から漂う瘴気の気配は、エミリアの記憶にある穏やかな故郷の風景とは明らかに異質なものだった。
「この痕跡……爪の形状からして、かなり大型だな」
ジェイクが地面に残された抉れたような傷を慎重に調べながら呟いた。鍛冶仕事で鍛えられた指が、土に刻まれた溝をなぞる。
エミリアは小型ノートを取り出し、その特徴を書き留めようとした。だが、ペンを握る手が微かに震えていることに気づき、唇を噛んだ。
「エミー、これを見てくれ」
ジェイクの声に導かれて近づいた瞬間、エミリアの足が凍りついた。
木の幹に残された傷跡。三本の平行な爪痕。その間隔、その深さ——記憶の底に封じ込めていた恐怖が、一気に蘇った。
「嘘……でしょ」
左頬の古傷が、まるで当時を思い出したかのように疼いた。
八年前のあの夜。十五歳のエミリアは、村を襲った魔物から幼い子供たちを庇って、この同じ爪に引き裂かれた。あの時の痛み、恐怖、そして——何もできなかった無力感。
「シャドウクロウ……だと思う」
ジェイクの声が、どこか遠くに聞こえた。
「エミー?」
「……大丈夫。きっと大丈夫だって」
口癖が、自分を励ますためだけの空虚な響きを持っていることに、エミリアは気づいていた。
調査を終えて村に戻る道すがら、エミリアは何度も足を止めた。頭では前に進まなければと分かっている。ギルドで新人たちに教えてきたことだ——恐怖に飲まれるな、冷静に分析しろ、と。
けれど、心がついてこない。
一年前、新人冒険者のカイルが重傷を負った時の記憶が重なる。あの時も、自分は止められなかった。「きっと大丈夫」という言葉を信じて、彼を送り出してしまった。
守りたい。でも、怖い。
また失敗したら。また誰かを傷つけてしまったら。
「エミー」
不意に、ジェイクが足を止めた。振り返った彼の茶色の瞳には、責めるような色は一切なかった。
「覚えてるか。あの時、俺たちは二人で戦った」
「……ジェイク」
「お前は変わった。強くなった。でも、変わらないものもある」
彼は照れたように首の後ろを掻いた。その仕草が、あまりにも昔のままで——エミリアは思わず小さく笑ってしまった。
「お前は昔から、誰かを守ろうとする時が一番強かった。それは今も同じだろ」
言葉少なに、けれど確かに。ジェイクの存在が、崩れそうだった心の足場を支えてくれているのを感じた。
夕暮れ時、ジェイクの鍛冶場で二人は古い書物を広げていた。埃を被った革表紙には、「ホライズン家覚書」と記されている。
「じいちゃんが冒険者だった頃の記録だ。シャドウクロウについても書いてあるはずなんだが……」
ページをめくるジェイクの横顔を、エミリアはじっと見つめた。真剣な表情をする時に眉間にしわを寄せる癖は、昔からだ。けれど、その輪郭はすっかり大人の男のものになっていた。
「あった」
ジェイクが指差したページには、詳細な図解と共に魔物の生態が記されていた。
「シャドウクロウは群れで行動するが、必ず一体の『王』が統率している。王を倒せば群れは散る……そして、弱点は——」
「光、か」
エミリアが続きを読み上げた。強い光を浴びると一時的に動きが鈍る。その隙を突けば、勝機はある。
「使えそうだな」
「うん……ありがとう、ジェイク」
エミリアは素直に頭を下げた。彼がいなければ、自分はまだ恐怖に囚われたままだっただろう。
ジェイクは何かを言いかけて、口を開いた。その表情がいつになく真剣で、エミリアは思わず息を呑んだ。
「エミー、俺は——」
その瞬間だった。
遠くで、村の警鐘が鳴り響いた。
二人は弾かれたように鍛冶場を飛び出した。空には不吉な黒雲が広がり始めている。村の東側——森に最も近い区画から、悲鳴が聞こえた。
「ジェイク!」
「ああ、分かってる。行くぞ」
彼は鍛冶場から愛用のハンマーを掴み取り、迷いなく走り出した。
エミリアもその背を追おうとして——ふと、胸元の重みに気づいた。
母からもらったお守りの首飾り。旅立ちの日、リリアンが「いつでも帰っておいで」と言って手渡してくれたもの。
小さな銀細工を、エミリアはぎゅっと握りしめた。
怖い。それは変わらない。
けれど、守りたいものがある。この村が、家族が、そして——隣で走る彼がいる。
「きっと大丈夫だって」
今度こそ、その言葉に力を込めて。
エミリアは夕闘の中へと駆け出した。




