第一章
夏の陽射しが窓から差し込むギルドの受付カウンターで、エミリアは見慣れた筆跡の手紙を受け取った。
父の字だ。いつもは月に一度、近況を伝える穏やかな便りが届くだけなのに——今日は違った。
『至急帰郷されたし。村の北の森で魔物の目撃が相次いでいる。自警団だけでは手が足りない』
短い文面の中に、父らしからぬ切迫した空気が滲んでいた。手紙を握りしめたまま、エミリアは無意識に左頬の星型の傷跡を指先でなぞっていた。
八年前の夜が、鮮明に蘇る。
——あの時、私は何も守れなかった。
十五歳の自分は無力だった。村を襲った魔物の前に立ちはだかり、結局は傷を負っただけで終わった。本当に村を救ったのは、駆けつけた自警団と、あの幼馴染の少年だった。
「エミリア、どうした? 顔色が悪いぞ」
ギルドマスターのガレスが、書類の山から顔を上げた。白髪交じりの髭を蓄えた厳格な顔つきの中に、父親のような温かさが宿っている。
「故郷から手紙が。魔物が出ているらしくて……」
「ほう。帰るのか?」
迷いはなかった。いや、迷っている暇などなかった。
「はい。休暇をいただけますか」
ガレスは深く頷いた。「行ってこい。お前の故郷だ」
三日後、エミリアは懐かしい村の入り口に立っていた。
何も変わっていない——そう思った瞬間、目頭が熱くなった。畑に揺れる麦の穂、石畳の道、そして遠くに見える宿屋『陽だまり亭』の看板。五年という月日が嘘のように、すべてが記憶のままそこにあった。
「エミー!」
弾けるような声とともに、弟のルークが駆け寄ってきた。十六歳になった彼は、最後に見た時よりずっと背が伸びていて、もう自分より頭一つ分は大きい。
「ルーク、大きくなったね!」
「姉ちゃんこそ、ちっとも変わんないな!」
両親との再会を済ませ、ひとしきり涙を流した後、エミリアは村の現状を聞くために自警団の詰所へ向かった。
そこで、彼と再会した。
「……エミー」
低く落ち着いた声。記憶の中の少年の面影を残しながらも、今そこにいるのは逞しい青年だった。
ジェイク・ホライズン。
鍛冶仕事で鍛えられた広い肩と厚い胸板。両手には無数の小さな火傷の跡。額の左側で跳ねた癖毛だけが、昔のままだった。
「久しぶり、ジェイク」
そう言いながら、エミリアは自分の声がどこか上擦っているのに気づいた。彼の茶色い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていて、どうしてか心臓の鼓動が速くなる。
「ああ。……元気そうで、よかった」
ジェイクは照れたように首の後ろを掻いた。その仕草も昔のままで、エミリアは思わず笑みを浮かべた。
「ジェイクこそ、すっかり頼もしくなって。自警団の副隊長なんだってね」
「まあ、そうだな。人手が足りないだけだ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、彼の目元がわずかに緩んでいる。昔から変わらない、言葉より行動で示す不器用な優しさ。
その時、詰所に顔を出した村人のおばさんが、二人の姿を見て目を輝かせた。
「あらまあ! エミーちゃんとジェイクじゃないの! ねえねえ、あんたたちいつ結婚するの?」
「えっ——」
「お、おばさん……」
二人は同時に顔を赤らめた。おばさんは気にした様子もなく、にやにやしながら去っていく。
「……相変わらずだな、この村は」
ジェイクが困ったように呟く。エミリアは笑ってごまかしたが、心のどこかがざわついていた。
その夜、エミリアは幼い頃によく登った丘の上にいた。
満天の星空が広がっている。都会の空では決して見られない、こぼれ落ちそうなほどの星の海。昔、ジェイクと二人でよくここに来ては、飽きもせずに星を眺めていた。
「やっぱりここにいたか」
振り返ると、ジェイクが草を踏みしめながら近づいてきた。
「なんでわかったの?」
「なんとなく。昔からお前は、何か考えたい時はここに来てただろ」
そう言って、ジェイクは隣に腰を下ろした。二人の間に、沈黙が流れる。けれど不思議と気まずくはなかった。
「ねえ、覚えてる? 昔、ここで流れ星を見た夜のこと」
「……ああ」
「私、あの時何を願ったと思う?」
ジェイクは黙ったまま、首を横に振った。
「『いつか、この村を守れる強い人になりたい』って」
自嘲気味に笑う。結局、その願いは叶わなかった。冒険者になっても大成できず、今はギルドの裏方として働いている。
「お前は十分強いよ」
ジェイクの声は静かだったが、確かな響きがあった。
「何も変わってない。昔から、誰かのために飛び出していく馬鹿なところも、諦めの悪いところも——」
「ちょっと、馬鹿って何よ」
「事実だろ」
だが、彼の口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
エミリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。五年の空白が、少しずつ埋まっていくような——そんな気がした。
「ジェイク」
「なんだ」
「帰ってきて、よかった」
ジェイクは答えなかった。ただ、星空を見上げたまま、小さく頷いた。
その横顔を見つめながら、エミリアは自分の心臓がまた少し速く打っているのに気づいた。
村の北の森から、微かに獣の遠吠えが聞こえた。
嵐は、確実に近づいていた。




