鏡の中の遅延
最初は、本当に些細な違和感だった。
朝、洗面所で顔を洗い、
ふと鏡を見たとき。
――瞬きをした。
私の目が閉じる。
でも、鏡の中の私は、ほんの一瞬だけ、目を開いたままだった。
「……あれ?」
疲れているのだと思った。
寝不足だし、スマホの見すぎかもしれない。
その日は、それで終わった。
二日目。
歯を磨いているとき、また気づく。
口を動かしたあと、
鏡の中の口が、少し遅れて動く。
コンマ数秒。
ほとんど誤差のようなズレ。
「気のせい、だよね」
声に出すと、
鏡の中の私は、声を出さなかった。
遅れて、口が動いた。
私は、歯ブラシを止めた。
鏡の中の私は、
まだ歯を磨き続けている。
「……ちょっと待って」
言葉が終わる前に、
鏡の中の私は、私を見た。
初めて、目が合った気がした。
三日目。
遅延は、はっきり分かるほどになった。
手を上げる。
鏡の中の手は、すぐには上がらない。
一秒。
二秒。
その間、
鏡の中の私は、じっとこちらを見つめている。
それから、ようやく動く。
まるで、
「動くかどうか」を選んでいるみたいに。
怖くなって、鏡を避けるようになった。
でも、生活から鏡を完全に消すことはできない。
エレベーターの鏡。
トイレの鏡。
スマホの黒い画面。
どれも同じだった。
遅れる。
必ず。
四日目の夜、
私は意を決して、洗面所の鏡の前に立った。
「……なんなの」
鏡の中の私は、答えない。
しばらくして、口が動いた。
――遅いね
私の声じゃない。
「何が?」
一拍遅れて、返事。
――気づくのが
背中に、冷たい汗が流れた。
「私の真似してるだけでしょ」
――真似してるのは、どっち?
意味が分からない。
「……どういうこと」
鏡の中の私は、
ゆっくりと笑った。
その表情は、
私が今まで見たことのない笑い方だった。
――あなた、もう追いつけてない
「何に」
――時間に
言葉の意味を考える前に、
視界が、わずかに揺れた。
次の瞬間、
鏡の中の私が、先に動いた。
私が瞬きをする前に、
鏡の中の目が閉じた。
私が口を開く前に、
鏡の中の口が、言葉を作る。
――ほら
――もう、逆だよ
頭が、追いつかない。
「……戻して」
必死に言った。
鏡の中の私は、
一瞬だけ、困った顔をした。
――戻る場所、ある?
その言葉で、思い出す。
最近、
自分の記憶が曖昧になっていたこと。
昨日食べたもの。
帰り道。
最後に誰かと話した内容。
どれも、
「見ていた」感じしかしない。
生きている感覚が、薄い。
「……私、何かあった?」
鏡の中の私は、
少しだけ、視線を逸らした。
――あなたね
――事故のあと、ずっとここに来てる
心臓が、止まりそうになる。
「事故……?」
――まだ、理解してないんだ
――だから、遅れる
遅延。
それは、
処理落ちじゃない。
残像だ。
私が、現実に追いついていない。
鏡の中の私は、
静かに言った。
――もう、こっちの方が自然だよ
次の瞬間、
視界が反転する。
洗面所が、
ガラス越しに遠ざかる。
外から、
自分の背中を見る。
動かない私。
床に倒れている。
遅れているのは、
鏡の中じゃなかった。
目を覚ましたとき、
私は病室にいた。
医者が言う。
「意識は戻りましたが……」
「反応が、少し遅れます」
私は、
天井の蛍光灯を見つめる。
その光が、
少し遅れて、
頭に届いた。
そして、病室の窓に映る自分は、
私よりほんの一瞬、早く瞬きをした。




