音のしないあさ
長いあいだぬめぬめした岩肌の上を引きずられている。眼が開いているのに光が全然射して来ない。身体の下から卵の殻が潰れるような音がする。
音の響きぐあいだろうか、とても狭い何かを通っているのを確信する。洞窟だろうか。
地球の腹を通るかのようなずっと続く、湿っぽい空間。地が唸るような音が方々から発していて、それらが何倍も重なって脳が粉砕されるような圧迫感に吐き気がした。
五感が刺激され過ぎたせいか、しばらくしたら痛みや不快さが少し鈍る。その代りにとても綺麗なところから引き離されたような気がしてならなかった。
懐かしいような悲しいような、このかび臭い夢心地と極めてかけ離れた感情で泣きたくなって目頭に力が入る。
意識が淡い夢の中にずっと漂っていた。希望が叶ったり叶わなかったり、何人もの知らない人の人生を見ているような夢を見る。
そうしていつしか腕の下に濡れた、冷たい何かを感じてハッと気が付く。
太陽の光がまぶたを照らしていたから地面の方に向けて少しずつ眼を開ける。身体の下の冷たいそれは潰れた野草だった。その野草が右側二十メートルくらい続いたら鬱蒼とした樹の壁が見えた。木々の奥が暗いから森とも言えるんだろう。太陽がその木々より昇ったところだったので、影がもう私と木々の半ばぐらいまで引いていた。
立って左に向いたらそちらは緩やかな下り坂になって、鮮やかな緑色の草は所々露が陽光を反射していた。200メートル続くだろう下り坂が終わるところ、雑木林や草むら、葦が囲む池やその池から流れる小川があった。
その先に町が見えた。町と言っても日本の地方に見るような町で、町の中心のビルがせいぜい3、4階だろう。
右側には工場が点在して、その中に空いている土地があって、建物の陰に隠れている電車線がその寂れた土地に出て見えた。
町の向こう側は山が連なって、急な勾配のせいで開拓しにくいかほとんどは森が覆っている。一つの例外として森から切り抜かれた土地に昭和後半に建てられただろう二つの校舎がぴったりと納まっていた。
校舎の左側は松の木が押し付けそうに近く生えていて、校舎の上に覗く梢から察すれば後ろが似たような状態かもしれない。
校舎の前には小さめなグラウンドが敷かれて、その周りが高い野球用フェンスに囲まれている。
空気が異常に澄んだため、景色が鮮明に映った。遠くから烏の鳴き声が響いてくる。
この穏やかな景色を見ているのに私はどうしても落ち着くことができなかった。この街並みには強い違和感を感じた。
こんな規模の町なら、あっちこっちから淡いエンジンの音、車の風を切る音、ガレージドアが開く音、様々なものが聞こえるはずだ。
でもここはそんなのが一切聞こえない。
閑散としていた。
一万人ぐらいが住むはずのこの街並みとは明らかにそぐわないこの異様な光景は何を意味しているか、全然検討が付かない。
だが町に下りないとこの状況を探れないから取り敢えず下り坂へ足を進める事にした。
身体全体が濡れたからか、それともこのキテレツな状況に呆気に取られたからか今まで気付かなかったけど、いざ歩き始めると足がじめっとした寒さに襲われて、足元を見たら足に靴下しか履いていなかった。
これはいけない。日差しが当たっても、場所によって膝まで届きそうな芝生なら昼まで露が乾きそうにない。今は体感的にはそれほど寒くはないけど、つい先まであれほど変な夢を見ていたからそれは熱に侵されているせいかもしれない。
取り敢えず下りよう。
町に誰かが居るはず。靴を貸してくれる人だといいな。
コンビニは絶対あるからそこで温かい靴下を...いや、金がない。
寝間着として使っている部屋着のポケットにはハンカチしか入っていなかったし。
いやいやいや、その前にどうしてそんな所に寝ていたんだろう。コンビニに着いたらまずは電話を貸してもらえるか聞いておこう。
坂を下りるに連れて少し落ち着くことができた。最近実家がちょっと窮屈になっていて、慣れないお酒なんかに手を出したとしたら変な所に目を覚めるのは気味が悪いけれど十分にあり得る話だからな。
近づいても相変わらず町の音がしないんだが見えてくる公園は割と手入れされている様子。木が数本タンポポみたいな形に出来上がっていた。
地面に白い花びらが散らばっていたから木が桜だろう。花びらの縁がもう茶色く染まっていて土に帰ろうとしていた。
砂利で出来た小道に着く。数十メートル先小川を渡る橋が見える。坂の上から葦を縫う小川がしっかり見えたが、今は葦しか見えない。
橋の上から小川を見る。ほとりにはアヒルが雛を茂のなかに隠そうとしている。
橋を降りて数メートル歩いたらやっと舗装された道路に辿り着く。この道路を境目に様々な建物が入り混じった空間が始まる。アパートや三、四階建てのマンション。一際ぼろいオフィスビルが八百屋さんと自転車屋さんに挟まれた。目を右にずらしたら裏通りがあった。
店のシャッターが開いているのに人の気配がまったくしない。世界のどこに行ってもなかなか見られない用心の無さ。
道を渡って外から店を一軒ずつ覗いてみる。店の灯りが全然ついていない。
古いものが無秩序に積み上げた店は外からの光が深い所まで届かなくて奥がいつまでも続きそうで不気味だった。
裏通りに入ったらこじんまりした店が並んでいた。飲食店の窓には食品サンプルしか見えない。
慎重に歩を進める中、何か金属が叩かれるような音がした。道がちょっと先に進んだ所から聞こえたような気がするが、道には動くものがなかった。
また聞こえた。
今回は微かな金属が擦れ合うような音だが、この寂しい物音のしない場所のせいで耳が敏感になった。
数歩歩いたら道の左側には店の間の狭い通路が見えた。音がこの中から来ているだろうと直感する。
この通路が右側の店の軒に完全に覆われてすぐ闇に包まれるはずだが、この曲がり角の先から灯りがもれていた。
私が今置かれている状況が異常過ぎてどうしても世界の終わりや神隠しを連想してしまう。そんな作品のなかで見知らぬ人と接触するのは得策ではない。
でも人と接触しないと今決め込んだらどうやって家に帰るつもりなのか?
どこかの道に彷徨っているのをお巡りさんに見つかったら私がおかしな人だと思われてしまう。でも流石には今みたいな時ならここは勘に従ったほうがいいかな。
「あの、誰かいますか?」
子供の声だ。
その台詞が通路の硬質な壁に何回も反射されて妙な迫力を持った。
人の声を聞くのは恋しかったか、得策とかはどうあれ私はその声をどうしてもスルー出来なかった。
「はい、あの...色々訊きたい事があるんですが、入っていいんですか」
「どうして僕に聞くんですか?お話しするなら入ってください。見えない人と話すのはアレですから。」
また金属音が聞こえた。今回は確かにコインを機会に入れる音。
同意を得て通路に入る。角を曲がってその先にある部屋を見る。
それはコンビニのような雑貨屋のような、駄菓子屋のような不思議な店。
部屋の壁がコンクリートで窓が見当たらない。部屋の向こうにはドアが見えたが、それが倉庫か事務室か、いかにも関係者以外立ち入り禁止って書かれそうなドアだった。灯りが温かくともっていて、雰囲気的には洞窟の秘密基地だった。
声の主だろう子供が入口の近くに置かれた自動販売機の前にしゃがんでコインを入れていた。右に小銭でいっぱいな紙袋が置かれた。
子供が私が入るのを聞いてくたびれたように販売機の前に座ってしまった。
恰好や髪型からいったら、男の子かな。10歳ぐらい。
「あの...これは何の販売機ですか?」
表に何も張っていないこの一台がどうしても気になる。
「ああ、これですか?姉さんは『ギテンノウ』というゲームをご存じですか?」
言いながらそばに置かれた鞄を開けて中を探る。
「戯天王ですか?昔流行っていたカードゲームの事ですか?」
「そうじゃないよう!僕にいさんからカードをもらってからずっとやっているもん!
いつもニュースに載っていないからと言って全然廃ったなんかじゃないよ!」
「ごめんなさい」
私も恥ずかしながらかなり長い間やっていたからゲームがまだ続いているのをちゃんと知っている。
ヲタクっぽさをバラしたくなかったせいで地雷を踏んでしまったが、訂正する必要がないからまあ、いいっか。
「じゃ、これは戯天王の販売機ですか?」
「それはそうだけど...どう説明するか...
とにかく、お見せしますよ!」
男の子がもう床に何百ものカードをまき散らしていた。それでやっと目当ての物を見つけたらしく、輪ゴムが丁寧に巻かれたデッキを鞄から取った。
「見てください。これは僕のデックです」
急に真剣になった表情の子供からカードを受け取る。
騎士、山賊、悪魔、怪獣。百鬼夜行みたいな集まりがカードに描いてある。戦略、罠、オカルトの儀式を表す一部のカードもある。
絵が大体私の記憶通りのもの。
「このカード...ちょっとおかしくない?」
「はてさて、それはどういう意味ですか?」
「だって全部英語が書いてあるんですよ。それに、質はちょっと...」
「姉さんは着眼点が素晴らしいです!確かにこのカードは英語版のカードではありません。僕も同じことを思いました。特にこのカードですね。」
そのカードにはバトルの場面が載ってあった。中世ヨーロッパの騎士が見えた。頭を後ろにずらして、顔を飛んでくる矢の進路からギリギリ除ける絵。ヘルメットのバイザーをちゃんと閉めたら無傷だったものの、通る矢が頬に赤い線を抉る。
カードの名前が『The Hair's Great Danger』だった。どういう意味だろうこれ。髪なんか載っていないんじゃないですか。
「姉さんもおかしいと思うんでしょう?だって、僕もこのカードには見覚えがあったが、どうしても日本語の名前を思い出せなかった。それで外国人の人達に見せたんだ。でもあの人がHairがHeirって跡継ぎという意味の言葉で、即ちカードの意味が『跡継ぎの大危機』と言っていたが絵からどうしても騎士がそんな風に描かれたと思えなかった」
突然出てきた外国人はどんなグループなのかな。
男の子が息をつく。
「そしたら僕は突然カードの元の名前を思い出した:『危機一髪』。誰かがこの四字熟語を見て『危機一髪』としてじゃなくて『危機』と『一髪』として翻訳してしまった。それで結局『髪の毛の大危機』を英語で書いてある訳の分からない物が出来てしまいました。」
ここまで喋って、男の子の眼が見張って手で自分の口を防ぐ。そうして彼が顔を伏せて体育すわりに曲げた膝を胸に抱き寄せる。
「あの...」
私が助け舟を出そうとするが勢い良く遮られる。
「姉さん、ごめんなさい!鬱陶しいですよね?キモいですよね?私はつい早口をしてしまいました。この推理の後半を省略します。まっとうな会社がこんな事をするはずがないんです。このカードが全部英語の偽物です。」
「いいえ、鬱陶しいとか全然そんなことないです。実は私も昔戯天王をやっていたんです。今度この話を詳しく聞かせてね。
話を聞いていたら気になったんだが、この街に外国人が沢山いますか?」
「知らないんですか?私たちと最初からここにいたんですよ。幼稚園に泊まっている人達です。」
「ごめんなさい、言っている意味が全っ然分からない。私ついさっき丘のうえに起きて、記憶が朦朧としていて、どうしてそこにいたのか全然分からないんです。」
「まさか、お姉さん新入りですか?」
一分前意気消沈していた男の子が立って、カードがさらに鞄から床へ散らばって行く。
「最後に来た人がかなり前だったし、僕全然気付かなくて。本当にすみません、僕わけの分からない事言っていましたよね。」
そして深呼吸を一つついてからきっぱりした口調でつづく。
「僕は鷹雄と言います。たかって呼んでください。僕はここの責任者にご案内しますからついて来てください。」
急に丁寧になった対応に戸惑いながら、私は答える。
「私リカと言います。是非案内してください、たか君。
あと、出来れば靴が欲しいです。風邪を引きますから。」
ここを知ることはなぜかとんでもなく怖い。
それでもこの物好きな少年にはなにか言いようのない頼もしさを感じてしまう。
日本語が母語じゃないので間違いがたくさんあるんでしょう。
見つけたらご訂正とご容赦をお願い致します。




