その3 淡き水の影
<Present>
月はまだ細く、月光と呼べるほどの明るさはない。
すでに夜の闇は深く、町は静寂の中で穏やかな眠りをむさぼっている。
その町からほんの少しはずれた広野の中にぽつんと一軒だけ立っている小さな家の前に、一頭の馬がつけられた。
鹿毛の手入れのよさそうな立派な馬から優雅な身のこなしで、ひとりの青年が大地へ降り立った。
彼はすでに三日もの間、夜に日を継いでこの町へ馬を飛ばしてやってきたのだ。
自分を呼ぶあの声だけを頼りに・・・・・・。
時折吹く夜風に青年のマントがたなびいた。
その風はもうすっかり秋の気配を含んでいる。
青年は馬をつなぎもせずに何か一言、声をかけただけで、そのまま家の戸口へ向かった。
馬は勝手に街道の端に寄り、静かに草を食んでいる。
戸口の前で青年がかぶっていたマントのフードを静かにおろすと、中から淡い金色の髪の毛が腰のあたりまで流れ落ちた。
彼は手をあげて一瞬だけためらい、それからほとほととその家の扉を叩いた。
「だれ?」
中から、か細い女性の声が誰何する。
「・・・・・・僕だよ。マリオンだ」
「あぁ、あなたなのね。中へ入ってちょうだい」
名乗るとともに中から深いため息にも似た囁きが聞こえた。
マリオンが扉を開けると、中には小さな蝋燭が一本だけともっていた。
「暗いでしょう。明かりをつけてくれると嬉しいわ」
闇の中のどこからかか細い声がそう告げると、マリオンは無言で右手を差し上げ指を鳴らした。
ぽっぽっと蒼白い一フィートほどの灯りのかたまりがいくつか、何も無い空間から生まれ、吸い寄せられるように壁にはりついた。
「これでどうかな?」
部屋がほんのりと明るくなると、部屋の主が嬉しそうに
「相変わらず便利な人ね」
と、掠れた優しい声で笑った。
部屋の隅には家と同じように簡素なベッドが置いてあって、声はそこから聞こえる。
「こんな夜の訪問で申し訳ない。もっと早く来たかったんだけど、意外とかかってしまったよ」
「まぁ、まさか3日も馬に乗ってきたの?とんだ無理をさせてしまったわ。ごめんなさい」
「気にしなくていいんだ。急ぎの用事も無かったから・・・・・・」
マリオンは戸口でマントを脱いで壁のフックにかけると、少しためらいがちにベッドのほうへ寄っていった。
「ごめんなさい、もう起きて歩けないのよ」
ベッドの中には、枯れ木のようにやせ細り、顔中に皺のよった老女が横になっていた。
「無理しなくていいよ。してほしいことがあったら何でも言って」
マリオンは優しく老女に呼びかけた。
「大丈夫よ。昼間は町から人が来てくれるし」
老女は穏やかに微笑みながら彼を見上げると、掌を開いて右手の中に握りこんでいた首飾りを見せた。
それはよほど大事にされていたらしく銀で作られた部分には一片のくもりもなく、濃淡二つの緑の石が闇の中で美しく煌いた。
「あなたにもらった首飾り、おかえししなくてはね」
「セラフィーナ・・・・・・」
老女はセラフィーナであった。
壁の灯りはマリオンの金色の髪と白くなめらかな頬を闇から際立たせた。
老女はマリオンをそばの椅子に座るように小さく手招きした。
「でも座る前に背中にクッションを入れて、少し私を起こしてくれると嬉しいわ」
マリオンはそばにあったクッションをいくつか彼女の背にあてて少し身体を引き起こしてやった。
「これでいいかい?」
「ありがとう」
彼女は静かな声で礼を言い、疲れたように軽く息をついた。
マリオンはセラフィーナの指し示した椅子にかけると、あの首飾りを彼女の右手ごと優しく握り、穏やかな彼女の顔を覗き込んだ。
彼の手の中でセラフィーナのか細くかさかさと衰えきった手は、あまりにも弱々しかった。
セラフィーナは彼の顔をじっと眺め、やがて小さく微笑んだ。
「ほんとに変わってないのね、あなた・・。ううん、ちょっと大人っぽくなったみたい」
「そうだね。変わったけど、変わってないよ」
彼の言うその意味がちゃんとわかってセラフィーナは微笑みながらうなずいた。
あの時の華奢で小柄な少年は、もうすっかり背も高くなり、顔立ちも青年のものに変化していた。
それでも流れるような金色の髪と、よく光る大きな緑色の右目はあの頃と変わらない。
たぶん隠されている左目の金の輝きも変わらないだろう。
だが、一方のセラフィーナは、花のような美少女から枯れ木のような老女になっている。
セラフィーナの豊かな黒い髪はすっかり白くなり、黒くきらきらしていた力強い瞳は、色が薄くなり光が弱くなっていた。
白くつややかだった肌には皺が寄り、あちこちにしみが浮き出ている。
二人の間では時の歩みがまるで異なっていた。
「魔法を使う人は歳を取らないと聞いてはいたけど、本当だったのね」
セラフィーナが感心したように呟いた。
「でもありがとう、来てくれて・・・。会わないほうがいいかしらとも思ったんだけど」
「僕は会えて嬉しいよ」
「時の流れは残酷ね。私はこんなに皺だらけよ」
セラフィーナはマリオンに握られていないほうの手を目の前にかざして見せた。
「気にしてないよ。第一、僕のほうがおかしいんだから。でも、君が気になるなら魔法をかけるけど」
「いいえ、何もしないで、マリオン。私はあなたをそのために呼んだのではないもの。私は私のままでいいわ」
昔のままの彼女の口調にマリオンは微笑もうとしたが、ふいに胸の奥から熱いかたまりがこみ上げてきたのを感じ、歯を食いしばってそれに耐えた。
セラフィーナはそんな彼に気がつかないふりをした。
ただじっと、彼の昔のままの姿を眺めている。
「背も伸びてるみたいだわ」
「そう、かなりね」
「あの頃から、どれくらいたったかしら?四十年?いいえ、五十年近いのね?私は十九だった。あなたは?十五?」
「うん、そうだった」
「今は大体、そうね、二十歳くらいかしら、あなたは」
「そう、たぶんそれくらいかな」
「そこで時間が止まったの?」
マリオンは首を微かに横に振った。
「いや、ゆっくり過ぎてるだけだよ」
「そう」
まだほのかに少年の面影を残した魔術師の顔を、セラフィーナはしっかりと見つめた。
彼の瞳の中にあの頃の熱い思いつめたような暗さはなかったが、代わりに別のものがひそんでいる。
それは虚しさとか儚さとか永遠とか哀惜とか慈愛とかそんなものをたくさん知ってしまった人の穏やかな深さだった。
外見は変わりなくともやはり彼にも確実に時は過ぎているのだ、と彼女は思いあたった。
それの持つせつない意味を彼女は彼の眼の中に見たような気がした。
これから彼は何度、同じような別れを経験しなくてはならないのだろう。
「みんな僕を置いていく。もうあの頃の僕を知っている者はほとんどいないよ」
マリオンが目を伏せると、睫毛が彼の顔に言い知れぬ翳りを落とした。
「そう、知ってる人がいなくなるのは辛いものね。昔話もできないわ」
マリオンは返事のかわりに優しく微笑んだ。
「私ももうすぐあなたを置いて逝ってしまうことになるわ」
老女はそれだけが心残り、とでもいうように少し哀しげな目をした。
「あなたにとって私たちは水の流れみたいなものね。つかめない、交われない、とどめられない。
私たちはただ、あなたのまわりをたゆたい、流れ過ぎてゆくだけだわ。
私たちは年老い朽ちていくけれど、あなたの上にはそれはほんの少しの意味しかもたらさないんだわ」
「セラフィーナ・・・・・・」
「それなのにあなたの中には、儚いわたしたちの水の影だけは残るのね。何の意味ももたないただの水の影のようなもの」
「意味はある、あるんだよ、セラフィーナ」
セラフィーナは微かに首を横に振った。
「いいえ、持たないほうがいいの。あなたにとって意味が無いことなら別れはさほど辛くない、でしょう?」
セラフィーナは頭を少しマリオンのほうへ傾けた。
「でもわたしは忘れない。いいえ、忘れなかった、だわ。大好きだったの、あなたのことが」
「一度しか会ってないのに?君は僕に二度と来るなといったよね」
くすくすとあの時の少女のようにセラフィーナは笑った。
「そうか、一度しか会ってないから、大好きだったのかもしれないわね?」
「・・・そりゃひどいよ、セラフィーナ」
セラフィーナとマリオンは静かに微笑みあった。
やがてマリオンは静かに目を閉じ、握っていた彼女の手にキスを落とした。
「僕も大好きだった。あなたの美しさと、そのしなやかな強さが・・・」
そして小さく続けた。
「だから僕も忘れない。たとえそれが水の影であろうとも」
セラフィーナの落ちくぼんだ目の端から涙が一筋流れ、頬を濡らした。
「私は、お金持ちの家に囲い者として請け出されて、そこの奥さんが亡くなってから後妻に入ったわ。
そのあと夫もすぐに亡くなって子供も居なかったし、遺産を使って小さな小間物のお店を持って働いたわ。
お店はそれなりに繁盛したけど、あたしはずっと一人だった。言い寄ってくる人もいなくはなかったけど、もうたくさんだと思った。お金をためてお店畳んでここに引っ越してきたのは、十年前よ。静かな十年だったわ」
「あなたにもらったこの首飾り、ずっと首にかけてたわ。時々出して、話し掛けるのが楽しみだった。握って呼びかけたわけじゃないからあなたには聞こえてなかったでしょうけど・・・・・・。
困ったことが起きたことは何度もあったけど、使えなかった、もったいなくて。
でもたぶんきっと、今度は最後だと思ったから・・・・・・。来てくれないかもしれないって思ったけど、来てくれるかもしれないっていう想像だけでも、あたしには充分楽しかったから、いいかしらと思ったの」
「呼んでくれればよかった・・・・・・。僕はいつでもあなたのためにやってきたのに」
「私、あなたの気持ちだけで嬉しかったの。ほんとよ」
「ショーンのこと知ってる?」
「うん」
ショーンはあのあとしばらくして結局、魔術師になることを断念して、ドーンの町で鍛冶屋の見習いとして働き出したのだ。
ひとり立ちしてから出した店は、かなり繁盛していたと聞いている。
そして、五年ほど前に亡くなっている。
マリオンがその噂を聞いたのはだいぶたってからだった。
「よくお店に来てくれたわ、彼」
「そう」
「私のところへは一回も来なかったけど、アンリエッタのところへよく来てたわ。アンリエッタにお客が入ってて私があいてるときはよく二人でお酒飲んで暇つぶししたわ。そして時々、あなたの噂をしてた。どうしてるかな、あいつって」
「うん」
「あなたはあの後すぐに、師匠に破門されたって言ってたわ。ほんとに?って言ったらたぶん違うだろうけど、表向きはそうなってるんだって」
マリオンは苦笑した。
「そうか、やっぱりショーンにはばれてたんだね」
「あら?」
セラフィーナはかすれた声をたてて笑った。
「その後あの人、自分でお店出して、お嫁さんもらって、子供が二人出来て、孫も五人出来たって」
「うん」
「最期の時に、私、おうちに呼ばれたの」
「呼ばれた?」
「そう、奥さんが使いの人を寄越してくれたの。どうしても伝言を頼みたいからって。もし、あいつに会えたらよろしくいってくれ。
俺は魔法が自由に使えるお前がうらやましかったけど、今となっちゃどっちが幸せだったかわからねぇ。お前はお前の護りたいものが護れたか?あんまり無理すんな、そういってくれって」
「ショーンが、そんなことを?」
マリオンの顔が涙をこらえるように歪んだ。
「ええ、私、そのときにこの護符を使おうと思ったの。そうすればあなたが来てくれると思ったから・・・。
でも、ショーンがそいつはお前のもんだ、お前が使えって言ったわ。あいつだって男に呼ばれるのなんざ願い下げだろうって」
セラフィーナは自分の乾ききった老いた手を見て、くすりと笑った。
「でもこんなお婆ちゃんじゃ、どっちみちおんなじね」
マリオンの頬を一筋、涙が伝い流れていくが、彼はそれをぬぐおうとはしなかった。
「泣いてるの?マリオン。ショーンのために泣いてくれるのね?」
「セラフィーナ・・・・・・」
細い骨ばった老いた指が、白くなめらかなマリオンの頬を濡らす涙を優しくぬぐった。
「そして私のためにも・・・・・・」
マリオンはその手をとって唇を押し当てた。
「・・・・あの夏のためにも」
あの夏・・・と小さく老女は呟いた。
「そうね、夏だったわね。七月にしては爽やかな風が吹いてたわ。
・・・でも、夏はもうとうに過ぎてしまった」
老女は遠くを見つめた。
それは遥か遠くへ過ぎ去ったあの夏の日なのか、これから向かおうとしている高みなのか。
「安心したわ。ショーンの伝言をあなたに伝えられてよかった」
老女は、にこりと口の端を上げて笑った。
「お別れだわ。止めないでね。私は行かなくてはならないの」
「セラフィーナ・・・」
「最期の時にあなたが居てくれて嬉しい。ありがとう、マリオン。さようなら」
マリオンの頬にあてられていた枯れ木のように細い手首が、かさりとベッドの上に落ちた。
ほぅっと細く息を吐き出すと、セラフィーナの呼吸はそのまま永遠に止まった。
セラフィーナの顔は穏やかだった。
「セラフィーナ・・・・・・」
もはや何者も、彼女を侵すことも脅かすことも出来ない。
すでに、護符の祈りも癒しの魔法も届かないところに彼女は旅立ってしまった。
マリオンは伸び上がり、セラフィーナの額からすっかり白くなり薄くなったほつれ毛をかきあげ、唇をつけた。
涙がいく筋も頬をすべり落ち、彼の唇とセラフィーナの乾いた額を濡らした。
「さようなら、セラフィーナ」
マリオンはセラフィーナがはずしていた護りの首飾りをもう一度彼女の首にかけた。
「君のために花を摘もう。朝露に濡れた赤い薔薇を。君が微笑んでくれるから。君のために歌を歌おう。優しい夜の歌を」
あの夏の夜にセラフィーナが教えてくれた俗謡だった。
涼やかな秋の風が、さわさわと草を鳴らしながら南へ流れていく。
その風とともに静かで優しい歌声が、暗い窓から流れ出て広野を渡って行った。
すでに夏は遠い。
<幕>
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫 (うたかた) は、かつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住みかとまたかくのごとし。
(『方丈記』 )




