その2 過去
さて、それからすったんもんだのあげく、マリオンがセラフィーナの部屋に入ったときには小半刻ほど過ぎていた。
相手が子供ということもあって店の女将がしぶったのもあったが、通常の倍額払わざるを得なくなったショーンが値引き交渉をはじめて、それがすっかり長引いたからだ。
(結局、待合いの長椅子の張替えを行うということでだいぶ割引してもらったらしい)
不思議なことにいつもは「客を選ぶ」というセラフィーナが、マリオンの差し出した手をとったのには、誰もが仰天した。
「僕でもかまわないかな?」
と、言ってマリオンが自分の右手を差し出すと、セラフィーナは一瞬ふっとためらい、それから無言でその手に自分の手をのせたのだ。
「セラフィーナ?!」
いつものセラフィーナを知っている両側に座っていた娼妓たちが揃って声をあげた。
手をとられたセラフィーナは優雅に立ち上がると、挑むような視線をマリオンに向けた。
「この部屋にはショーンの作ったものは置かれてないんだね」
館の一番奥まった彼女の部屋に入るなり、辺りの装飾品を興味深げに見まわしていたマリオンが、開口一番そう言うとセラフィーナが低く笑った。
「あなた、みんなに変わり者って言われない?」
「え?どして?変わってるかな?僕」
心底不思議に思っているような無邪気な顔で少年は、セラフィーナを見た。
「そうね、変わってると思うわ。それとも馬鹿、なだけかしら?」
遠慮のない口調でセラフィーナがばっさりと切り捨てる。
「馬鹿、なの?ひどいなぁ」
マリオンは大きな目をくるっと上に向けて憤慨して見せると、部屋の真ん中に置かれた天蓋つきの大きなベッドの端にぽんと勢いよく腰掛けた。
「ショーンはね、アンリエッタに夢中なの。だから彼女の部屋に行けばたくさんあるわよ」
冷えた葡萄酒をグラスに注ぎいれながら、セラフィーナが少し笑いを含んだ声で言った。
マリオンはふーん、やっぱりね、とうなずきながら、もう一度部屋を眺め回している。
その目はかなり真剣だ。
細かく手の込んだ物に遭遇すると、あきらかに目が輝いている。
彼もショーンのように装飾品を作ったりするのが好きなのだろうか。
でも、そういえばショーンて何する人だったかしら?
セラフィーナは小首をかしげた。
どうもいつもの客とは勝手が違う。
大人っぽいのかと思えば妙に子供っぽいところもあってうまく手綱が取れない。
だいぶ若いし、たぶん「はじめて」だと思っていたのに、もじもじとはにかむ訳でもないし、かといって大胆に迫ってくる、というわけでもない。
第一、部屋に入るなり装飾品の値踏みとはどうしたことだ。
さっき喧嘩を売ったのに、なんだかうまくかわされてしまった上に自分を臆面もなく指名してくるとは思っても見なかった。
エスコートもごく自然で、しかし、部屋に入ったら入ったでこれだ。
一体、ここがどこで何をする所か、ちゃんとわかってるのだろうか?と思ったりもするが、さっきの物言いでは無知でお馬鹿な子供というわけでもなさそうだし・・・・・・。
セラフィーナは「ヘンな子」とこっそり呟きながら二つ目のグラスに葡萄酒を注いだ。
柔らかな葡萄の香りが鼻腔をくすぐる。
これは誰が持ってきたものだったかしら。
高そうないい葡萄酒ね、と独りごちながら目の高さにグラスを上げてみる。
赤い葡萄酒がグラスの中で蝋燭の灯りをうけて綺麗な赤に煌くのを見て、セラフィーナは、あ、と思わず小さい声をあげていた。
「どうかした?」
マリオンがベッドから立ち上がって心配そうに彼女の手元を覗き込んだ。
「そういえば、ひとつだけショーンにもらったわね、首飾り」
え?とマリオンが彼女の顔を見た。
「でも、壊れちゃったわ。直してもらえるかしら?」
持っていたグラスをマリオンに押し付けると、セラフィーナは部屋の隅に置かれた金色の縁飾りのついた黒い飾り箪笥へ歩み寄った。
そこにはセラフィーナの私物が置かれているようで、箪笥の上は化粧品やアクセサリの類で埋まっている。
彼女はその箪笥の一番上の引き出しを開け、中から大事そうにハンカチにくるまれた物をつかみ出した。
「これよ」
細い指がハンカチの中から注意深くつまみあげて見せたのは、あきらかにショーンの手になるものでマリオンにも見覚えがあった。
銀糸を複雑に編み上げた鎖のさきにはやはり銀の糸を編み上げて作った薔薇の飾りがゆれている。
薔薇の中心には空洞があってそこには確か・・・・・・。
「そう、ここに紅玉がはまっていたの。それが砕けてしまったの」
「紅玉が砕けたってことは・・・・・・。何か事件があったんだね?」
マリオンは少し目を細めて真面目な顔で、白い指先でじっと揺れる薔薇を見つめている。
「何故判るの?」
と、セラフィーナが首をかしげてマリオンを見た。
マリオンはセラフィーナの手からその首飾りを取り上げ、仔細に調べはじめた。
「確かこれには、『護りの魔法』がかけてあったから。魔法は強力だったはずだから、紅玉が砕けて散ってしまうほどということになると、相当ひどいことがあったってことだよね」
「何故?どうして魔法のことを知っているの?」
セラフィーナは目を大きく見開いた。
マリオンはここへ来て初めてちょっと照れくさそうな顔をした。
「それは・・・・・・僕がその魔法をかけたから」
「確かショーンは、すごい魔術師に魔法をかけてもらったって言ってたけど」
セラフィーナは片手を口に当てた。
ではこの子が、ショーンの言っていた『すごい魔術師』なのか?
「ショーンが言ってたのは・・・・・・あなた?」
「ご、ごめんね、僕、すごい魔術師じゃなくて。一応、かなり効き目があるように作ったつもりだったんだけど」
頬を赤く染めて言い訳をする様子は、いかにも歳相応に見えてセラフィーナは心からの微笑を浮かべた。
「いいえ。あたしはあなたに感謝しなくてはいけないようね。
そういえばショーンにもお礼を言うのを忘れていたわ。
ここのところタイミングが悪くて逢う機会がなかなかなくて」
マリオンの止める暇もなく、セラフィーナはついと片手を伸ばし、彼の額にかかる金色の髪をかきあげた。
不意に現れた彼の金色の瞳に一瞬たじろぎ、息を呑む音が聞こえた。
セラフィーナの手が怯えて震えているのが感じられる。
マリオンは慌てて目をつぶった。
「ごめ・・」
言い訳をしようと口を開こうとしたとき、ふいに首に柔らかい腕が巻きついたのを感じて彼は絶句した。
セラフィーナは伸び上がると片手でもう一度前髪をかきあげ、彼の額に赤い唇をしっかりとつけ、ささやいた。
「あなたのおかげであたしは死ななかったわ。ありがとう、マリオン」
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それはいつもの夜のように、店にもだいぶ人の出入りが激しくなった時間帯のことだ。
すでに真夜中近い。
セラフィーナは、お客の要望で新しい酒とつまみを調理場へ頼みに部屋を出てきたところだった。
いきなり入り口で騒ぎが持ち上がったのだ。
誰が発端だったのか、セラフィーナにはよくわからない。
しかし何人かの男と女が激しく言い争っていた。
店の男衆(おとこし=下働きの男)と客のひとりが順番か何かことで揉めたようで、さらにそこに他の客が絡んでいるようだ。
間に最近入ったばかりの若い娼妓が入っておろおろしている。
そこまではよくある話ではあったのだが、酔っていたのだろうか。
傭兵あがりだったらしい男がいきなり剣を抜いて、男衆に斬りかかったのだ。
男衆は肩から腹へ袈裟懸けに斬られ、声もたてずその場に崩れ落ちた。
待合で見ていた娼妓たちの悲鳴がいくつもあがり、それにさらに逆上した男が、返す刃でもうひとりの客を切り捨てた。
間に入っていた若い娼妓は、声もあげられず凍りついたようにただ立ち尽くしている。
返り血を浴び、全身赤く染まった男の狂気に血走った目が彼女を捕らえた。
「あの子が斬られる」
セラフィーナにはもう何も考えられなかった。
彼女を逃がすことだけしか。
「あたし、村に弟が二人と妹が二人居るの。父さんがこないだ病気で亡くなって、今は母さんしかいないわ。弟もまだ二人とも小さくて、妹も最近やっと働き始めたところなの。あたしが働かないと、次は妹がここへ来るしかない。でもまだ十三になったばかりで、あたし、あの子をここへ来させたくないの」
自分もまだ十六になったばかりでこんなところに来たというのに、この間、待合の時間に淡々とあの子はそう語っていた。
同じような運命ね、とセラフィーナは思う。
ええ、ここに来るたいがいの女の子はみんな同じような境遇だわ。
あたしもそう。
だからわかる。
あの子が今ここで死んでしまったら、どうなってしまうのか。
どんな悲惨なことが繰り返されるのか。
わかりすぎるほどわかっていた。
セラフィーナは、冷静に店のバーのカウンターの裏に置かれていた護身用のレイピア(細身の剣)を手に取った。
今にも震える若い娼妓に斬りかかろうと剣を引いていた男は、頭と顔に突然鋭い痛みを感じてそちらを向いた。
そこには黒い瞳の美女が、全身に冷たい怒りを込めて立っていた。
セラフィーナが履いていた上履きを両手にとり、狂気の傭兵に向かって力いっぱい投げつけたのだ。
それは両方ともうまい具合に傭兵の頬と頭に当たった。
男の頬には細いヒールが当たって切り裂かれた傷ができ、そこからは血が流れ出していた。
「このクズ野郎!あんたなんかにあたしたちの何がわかるっていうのよ」
「なんだと?」
男は若い娼妓からセラフィーナのほうへくるりと向き直り、ゆらりと体重を前へ移動した。
「セラフィーナ!!」
名前を呼ぶ何人もの悲鳴のような声が聞こえる。
だが、セラフィーナは自分でも驚くほど落ち着いていた。
最初はとても怖かった。
剣を見たとき、客たちが斬られたときは震えてしまった。
しかし今は、それよりも男に対する怒りの方が格段に強かった。
セラフィーナはレイピアを構えた。
「あんたみたいな腐った馬鹿に、あたしたちの一体何が斬れるっていうの?」
吐き捨てるようにそういうと、男の顔が怒りで赤らみ、目がさらに狂気を帯びた。
「このアマ!黙れぇぇ」
絶叫とともに剣を構えて男が走った。
男が思い切り振りかぶった最初の上からの一撃は、なんとか後ろへ下がり身をかわして避けた。
よけられたのは奇跡といっても良かった。だが、そんなことを考えている暇はない。
すぐさまセラフィーナは体制を整えると、男の懐へレイピアをまっすぐ前に構えたまま飛び込んでいった。
同時に男の返す刃が下から上へ振り上げられる。
相手は百戦錬磨の傭兵で、しかも狂気を帯びた渾身の一撃。
それをレイピアでしかも女の細腕でおさえられるはずがない。
男はその薄汚れた顔に醜い笑みを浮かべて、思い切り下からなぎ払うように剣をセラフィーナに向かって叩きつけた。
誰もが斬られた、と思った瞬間だった。
ぱーんと何かがはじけるような音が響き、白い閃光があたりにあふれた。
視界がすべて光で満たされ、何がどうなっているのかよくわからない。
「うあああわぁぁぁぁぁ!!」
男の驚愕の叫び声がして、重いものが地響きを立てて倒れる音がした。
光がおさまると、レイピアを右手に下げたセラフィーナが呆然と立っていて、その前には白目をむいて気を失った傭兵が倒れていた。
不思議なことに男の手には剣の柄があるだけで、そこには刃が見当たらない。
「な、何が起こった?」
ざわざわと辺りが騒ぎ始めるのと、セラフィーナが床に崩れ落ちるのはほとんど同時だった。
表戸が勢いよく開いて、剣をひっさげた町の警備隊が数人なだれ込んできたのはその直後だった。
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「護りの魔法が効いたのね。男はそのまま療養所送りになったらしいけれど、体中の骨がだいぶ折れてて、しばらくは寝たきりらしいわ。
でも、二人殺してるんだからどうせ縛り首よね」
ベッドの上に横座りしていたセラフィーナは、葡萄酒を口に含みながら唇の端を微かに曲げて笑った。
「なんてむちゃくちゃなことを・・・・・・」
足元の床にあぐらをかいて座っている少年は、セラフィーナを見上げて眉を寄せた。
「お店ではもちろんこの話には緘口令がしかれているわ。女将はあちこちにだいぶお金を払ったみたい」
セラフィーナを見上げてマリオンは口を開いたが、そのまま何も言わず黙ってうなずいた。
「剣は・・・・・・。どうなったのかしら?壊れたの?」
セラフィーナは座っていたベッドの上から彼の顔を覗き込むようにしてそう尋ねた。
マリオンは顔を上げ、持っていた葡萄酒のグラスをくるりと廻しちょっと考えてから、うん、とうなずいた。
「そうだね、刃と紅玉はたぶん一緒に壊れてしまったんじゃないかな。相殺されちゃったんだ」
それから少し情けない顔になった。
「ごめん。これじゃ役立たずだよね。相手が独りだったからよかったけど、もし複数の人間に襲われていたら、最初のひとりしかやっつけられないや」
謝られたセラフィーナはちょっと驚いたように目を見開いて、それから首をかしげた。
「何を言うのかと思ったら・・・・・・。充分じゃない。これで充分よ」
マリオンは頭をふった。
「そういう魔法をかけたんじゃないんだ。もうちょっとましなつもりだったんだよ」
「いいのよ、あたしが助かったんだから。それに普通はそこまで効き目のある魔法の首飾りなんてなかなか売ってないわ。充分すごい魔法だと思うけど」
マリオンは無言で自分がしていた首飾りを外してセラフィーナの方に掲げて見せた。
シンプルだが丈夫そうな鎖に、銀を糸のように細くして緑の濃淡二つの石に無造作にからめたヘッドが下がっている。
一見、無造作で適当なつくりのようでいて、よく見ると二つの石がくっつきそうでくっつかない
微妙な距離を保っている。
糸の分量も絡みすぎず、中の石が綺麗に光る量を計算し尽くしているようだ。
その二つの石は、蝋燭の灯りをうつして美しい煌きを見せた。
「紅い石じゃなくて悪いんだけど、お護りにこれ、どうかな?魔法もちゃんとかけておく。もっと役に立つようなやつ。薔薇の首飾りのほうはショーンじゃないと直せないから」
マリオンはズボンのポケットからハンカチを取り出し、石と鎖を丁寧に磨き始めた。
「もしかして、これはあなたが作ったの?」
「ショーンみたいに綺麗にはまだ全然作れないんだけどね。お護りだったら・・・・・・。だめかな?」
彼は不安そうにセラフィーナを見上げた。
「ショーンに薔薇の首飾りは返すわ。こちらをもらうことにする」
セラフィーナが真面目な顔でうなずき、マリオンはちょっと赤くなった。
「ショーンの薔薇のほうが似合うと思うけど・・・・・・」
口の中でごにょごにょ呟いているが、セラフィーナは聞こえないふりをした。
「これはなんていう石なの?」
セラフィーナは興味深げに、マリオンが丁寧にハンカチで磨いている手元の石を指差した。
「濃いほうは翠玉(すいぎょく=エメラルド)。普通のはちょっと砕けやすいんだけど、これは魔法で強くしてある。
こっちの色の薄いほうは橄欖石(かんらんせき=ペリドット)。太陽の石とも言われてるし、夜の翠玉とも言うみたい」
「どっちも綺麗な緑色ね。あなたの右目の色だわ」
セラフィーナがそう言うと、マリオンの手がふと止まった。
「セラフィーナ」
斜め上のセラフィーナを見上げる。
「なに?」
手元を覗き込んでいたセラフィーナが、いぶかしげな視線を彼の顔にうつした。
「怖くないの?」と、真剣な顔でマリオンが尋ねた。
「・・・・・・?なにが?」
「わかってるくせに・・・・・・。気にしてないふりしてるの?」
セラフィーナは大げさに肩をすくめて見せた。
「気にしてるのはあたしじゃなくて、あなた、でしょう?」
マリオンはため息をついた。
「人のことなんか言えないよ?僕、あなたも相当の変わり者だと思う」
セラフィーナは、白い喉をそらしてこの部屋へ入ってから初めて大きな声をあげて笑った。
「今ごろわかったわけ?遅いわ、あなた」
笑うセラフィーナを見あげて、マリオンは渋い顔をした。
「僕、人間じゃないかもしれないんだよ?ほんとに怖くないの?」
ふいに笑いを納めてセラフィーナが真顔になった。
「怖いほうがいいの?怖がったほうが扱いやすい?」
マリオンは首を横に振る。
「そんな意味じゃないけど」
セラフィーナは彼の目を捉えてにこりと笑った。
「その金色の目は怖いわ、確かに。でも怖いのは目だけよ。あなた自身は怖くないわ」
「それもヘンだよね。だってこれは僕自身の目だし」
セラフィーナはじっとマリオンの左目のあたりを見つめている。
左目は前髪に邪魔されて見えはしないのだが、確かにそこにある圧力は感じられる。
見たときは確かに怖かった。
理解を超えた『何か』がじっと瞳の奥に潜んでいるようだった。
だが、不思議にマリオン自身に恐怖は感じない。
セラフィーナは彼と彼の左目をそれぞれ別のものとして感じていた。
真剣で熱く昏い緑の瞳が彼女をじっと見ている。
慎重に言葉を選びながらセラフィーナは口を開いた。
「あなた自身が怖いんじゃないわ。その目の中の何かが怖いのよ」
「じゃあ、それは何だと思う?」
しばらく考えてからセラフィーナが答えた。
「・・・・・・・そうね、魔法・・・・・・・、かしら?」
マリオンはひどく苦いものを含んだように唇をゆがめた。
「・・・・・・・鋭いんだね、セラフィーナ」
マリオンは暗い瞳でセラフィーナを見返した。
「僕は強い魔力がほしかった。
これは、僕自身が望んだことの結果なんだよ。
だから、これは僕自身といってもいいんだ」
自分が目的のために行ったこと、それは自分を強くしてくれたが、反面、受け入れがたくもあった。
自分はやはり人ではないのだ、という思いが時々自分でも驚くほど強く胸をしめつけた。
人間といえる部分は半分しかない、という思い。
どちらにも属せない。しかし、どちらにも属している。
ならば完璧でなければならない。せめて魔法だけでも。自分のできることはそれしかない。
だが、それは逆に人としての道を外させることになる?
堂々巡りの迷いが常に彼を不安定にさせた。
それからマリオンは無表情に戻って再び手元へ視線を落とすと、前と同じ作業に専念し始めた。
セラフィーナは彼に手を伸ばそうとして迷って途中で止め、そのままさまよう右手を胸元に引き寄せた。
何を慰めるつもりでどんな言葉をかけることができるというのだろう、このあたしに。
彼が何を迷い、何を恐れているのかすらまったくわからないのに・・・・・・。
『人間じゃないかもしれないんだよ?』という彼の言葉が一体どんな意味を伴っているのかもわからない。
だが、それを言ったときの彼が、自分の言葉に傷ついているのだけはわかってしまった。
「あたしはね、こんな商売してるから、いろんなこと言われるわ」
セラフィーナの声にマリオンの手が止まった。
だが、彼の顔はまだ俯いたままだ。
「あたしは娼婦よ。世間では普通の女とは思われてやしないわ。
でも、あたしだってやりたいと思ってやってることじゃない。
しかたがなくてやってることだわ。お金のために。家族のためにね」
セラフィーナの声は穏やかだ。
「あたしは十六のときにここへ売られてきたわ。もうじき三年目よ。
とても・・・・・・とても重い三年だった。
でも、いらない三年だからって、捨てられるわけじゃないわ。そしてこれからもずっと、それはついて回るのよね」
セラフィーナは目を瞑った。
泣きたくはなかった。そんなことは、とうの昔にやめている。
ただ、何故彼にこんなことをいい始めてしまったのか、自分でも訝しく思っているだけだ。
「でも負けないわ。負けたくないわ。だって、あたしはあたしだもの。
どんなことしてても、なにをやらされていても、あたしはあたしでしかない。
あたしは『娼婦のセラフィーナ』ではなくて『セラフィーナ』よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。
自分を貶める必要なんて何処にも、ない。
・・・・・・・それが違うと否定できるのは、きっと神様だけよ」
「セラフィーナ」
マリオンが顔をあげてセラフィーナを見上げたが、彼女は目を瞑ったままで何も見てはいなかった。
黒く長い睫毛が白い顔に微妙な翳を落としている。
黒い髪はひとつにまとめられて頭の上に結い上げられ、宝石のついた飾り櫛で止められている。
後れ毛がほっそりとした首にまつわりついていた。
華奢な肩から豊かな胸と細い腰が続いている。
とてもさっき話に聞いたような武勇伝を成し遂げた女とは思えなかった。
だが、その精神はしなやかで強い。
そして、蝋燭の灯りに照らされたその横顔は、いつか見た聖母の像のように気高く美しかった。
「だって・・・・・・。そう思わなきゃやってられないじゃない、こんなこと」
言葉の端に微かに自嘲の響きを伴っている。
それがマリオンの胸に疼くような痛みをもたらした。
そうでなければ、こんな商売は確かに辛いだろう。
こんなに綺麗な女なのに・・・・・・。
自分には想像しかできないけれど、それが楽しいものだとは到底思えない。
「でもあたしは、あたし。他の誰でもない。誰か他の人にはなれない。
だから、これでいいかしらと思ってる」
「・・・・・・僕は、僕でしかない・・・・・・」
「そうよ、お偉い誰かがそれは違うといっても、あなたは胸をはって生きればいいわ。
あなたは、あなた以外の者ではないのよ。
あなたは左目に魔法を持っている。それが今のあなたでしょ。
肩書きなんてなんの意味もない。
属している世界なんて関係ない。
あなた自身は今、そこに居るあなたでしかないの」
「魔法が使えても、使えなくても?」
小さな声で自信なさげにマリオンがつぶやく。
セラフィーナは目を開けて優しい微笑を浮かべ、マリオンの顔を覗き込んだ。
「人間であっても、なくても」
「・・・・・・・ほんとに変わり者だね、セラフィーナ」
マリオンは苦笑して、また熱心に首飾りを磨きはじめた。
その瞳から昏い迷いがいくぶんか消えたのに気づくのはいつになるだろう。
それからしばらくは、蝋燭が燃えるかすかなじじっという音とマリオンの首飾りを磨くしゅっしゅっという衣擦れの音を訊きながらセラフィーナは葡萄酒のグラスを傾けた。
どちらも何も言わない。言うべき言葉が見つからなかったのかもしれない。
だからといって沈黙は、気詰まりなわけではなかった。
お互いがそれぞれの想いに浸っていただけで、穏やかで落ち着いた沈黙だったからだ。
「ねぇ?訊いてもいい?」
最初にその沈黙を破ったのは、セラフィーナのほうだった。
マリオンは顔をあげて声を出さずにちょっと首を傾げて見せた。
「もしかして、魔術師のところで修行しているの?あなたたち」
たち、というのはもちろんショーンのことも含めてだろう。
マリオンはうん、とうなずいた。
「ショーンに魔法なんて使えるの?」
なんだか眉をひそめて胡散臭そうに聞き返すしぐさがおかしくて、マリオンはくくっと思わず笑った。
「使えそうに見えない?」
「見えないわ!」
いやにきっぱりと、しかも即答でセラフィーナは否定し、マリオンは今度はあははと大きな声で笑った。
「ほんとに鋭いよ」
「あなたは使いそうに見えるけど、すごい魔術師には見えないわね、はっきり言って」
これもいやにきっぱりと告げる。
「だってすごくないもの」
頬をわずかに膨らませていいはる少年は、本気で言ってるようにセラフィーナには思えた。
(自分の力に全然満足してないってことなのかしら? それとも左目の魔法は自分の力そのものではないと思ってるのかしら?)
どちらにしてもあの首飾りには本当にすごい魔法がかかっていたのに、とセラフィーナは思う。
あそこまではっきりとした形の「魔法」というものすら見たことがない。
あんな大きな剣の刃が、あんな小さな紅玉と相殺される、ということ自体がかなり上位魔法なのではないかと思う。
あの時、居合わせたみなも口々に言っていた。
こんなすごい護り魔法は見たことが無い、と。
だが、彼はそんなんじゃだめだと言い張っている。
では、新しい魔法はどんな風に効き目があるのだろう?
なんだかわくわくするような気がして、セラフィーナは目の前の華奢な少年を見つめた。
自分よりだいぶ若くて、身長だってあまりかわりないくらいしかなくて女の子みたいな顔をした子なのに、この子があんなすごい魔法を使えるというのがセラフィーナにとっては新鮮な驚きだった。
「もうひとついいかしら?魔術師の先生って怖くないの?」
ふと思いついたことをセラフィーナは聞いてみた。
「え?こわくないよ?」
不思議そうな顔で再びマリオンがセラフィーナを見上げた。
「だって、何か失敗したら鞭でぶったり、魔法の炎で焼いたり、水桶に逆さに突っ込んだりするって言うでしょう?」
マリオンはけらけらと屈託なく笑った。
「すごいね、うわさって。そんなことないよ。とっても優しい師匠だよ。
まぁ、小さい頃は悪戯してお尻、叩かれたりしたことはあったけど」
「小さい頃って・・・・・・。そんなに長くいるの?」
「そうだね、大体、十年くらいかな?」
「そんな長い間・・・・・・。ずっとって、さみしくない?おうち帰れなくて」
「ん、いや、別にそんなことはないよ・・。最近はちょっとだけ帰ってるし」
「辛いわね」
と、セラフィーナが満更うわべだけでもないような口調で言った。
マリオンは軽く肩をすくめて見せただけだ。
与えられなかったものに関して、うらやましいというよりも「何も感じない」というのが正しいだろう。
彼にとって家族の団欒は与えられなかったものであり、ほとんど経験のないものでもあった。ゆえにそれが欲しいと熱烈に思ったこともない。
一緒に遊んでいた村の子供たちが夕方になると、親の待つ家に戻り家族で食卓を囲むのを見ても、マリオンにとってそれは、うらやましいという感情を呼び起こすことではなかった。
彼らには彼らの生活があり、自分には自分の生活がある。
自分は師のところへ戻って何人かの弟子たちと決して豪華とはいえないが、まずいわけでもない食事を毎日きちんととる。
自分が当番の時には、何人かの他の者とみんなの分の料理を作る。
当番でなければ、料理ができるまで好きなことをして過ごせばいい。
師匠は課題さえきちんとこなしてあれば、自由時間については寛大だった。
本を読んだり、細工物を作る手伝いをしたり、飾り文字を書く練習をしたり(彼はこれが得意だった)剣技を覚えたり、格闘技の技をかけあったり、楽器を弾く練習したりとやること、やりたいことはたくさんあって、教えてくれる人もたくさんいた。
師匠は自分だけの師匠ではないが、それでもマリオンにはとても優しかった。
しつけは厳しいが、総じて穏やかな学者肌の人だったのだ。
忙しくなければいろんな旅先で起きた面白い話をしてくれたり、逆に夜、誰もいない部屋でお茶を飲みながら自分の話をじっくり聞いてくれたりした。
それが、そんな生活が自分にとっての「普通」ということなのだ。
それははっきりしている。
一般的に普通といわれているうちの子供に「ぼくんち、うらやましいだろ?」と言われても、とまどってしまうだけだ。
別にうらやましくない、と正直に言えば、「お前はヘンだ」と言われる。
あるいは「強がりいってら」と揶揄されてしまう。
だからそういう質問に対してマリオンは、明言を避けるようにしている。
過去に楽しい経験があればあるほど、よけいそれを失うのは辛いのだろうと彼は思った。
自分には物心ついてからのそういう意味の楽しい経験はほとんどない。
師匠を失ったら自分もそういう気持ちになるだろうかと、時々考えてみたりしたが、結局のところはわからなかった。
もちろんショーンのように生まれたときからずっと師匠のところいる場合は、また違う。
ショーンはどっちかといえば、普通の家庭を素直にうらやましがるほうだった。
もとよりの性質が違うのか、あるいはマリオン自身は五歳まで母と一緒に暮らしていたせいなのかはわからない。
だが、そういうショーンでもかなえられなかった望みに対する憧憬は、一度それを与えられた者たちが失ってしまう時の喪失感とは違っていると思う。
そして今、マリオンにひとつだけわかっていることがある。
そういう感情が持てるということはセラフィーナは、ごく普通の暖かい家庭に育ったのだろう、ということだ。
マリオンは小さく息を吐いた。彼女にとっていろんなものを失うことは、本当に辛いことだったに違いない。
「僕の場合、帰っても別に家族がいるわけでもないし」
「いないの?お父さんとお母さんは?」
「父は、いない。母は今ちょっと遠くへ出かけてる。兄弟もいないし。伯父さん、叔母さんやいとこは何人かいるけど」
その淡々とした口調に、セラフィーナはそれ以上あれこれ突っ込んで尋ねるようなことはしなかった。
ただ静かにぽつりと一言つぶやいただけだ。
「寂しいわね」
「どうかな?昔からそうだからあんまりそんなふうに感じたこと、ないけど」
信じてはもらえないだろうけど、と言ういささか投げやりな気分でマリオンも小さな声でつぶやく。
ほんとに?と問うかわりに、セラフィーナはマリオンに小さな微笑を投げてくれた。
「あたしのうちは、床屋をしてるわ。三年前に父さんが死んじゃってからは、兄さんがお店やってるの」
「そうなんだ。大変だね」
いいえ、とセラフィーナは首を振った。
「大丈夫。借金はあらかた返せたからお店はなんとかやってけるし、母さんは元気みたいだし。弟と妹も今年から学校へ行き始めてそれなりにやってるわ。あたしはここで綺麗な服着て美味しいもの食べて飲んで・・・・・・、お金、稼げばいいだけ」
それが一番大変なんだろうと思うが、マリオンには到底口に出せない。
「父さんがいたころは、みんなもっと幸せだったけど。でももうすごく昔のことよ」
でも、とセラフィーナは微笑んだ。
「時々、懐かしくなるわね」
それから彼女は、細い綺麗な声で歌を歌い始めた。
「君のために花を摘もう。朝露に濡れた赤い薔薇を。君が微笑んでくれるから。君のために歌を歌おう。優しい夜の歌を」
そこまで歌うと、くすくすとまるで少女に戻ったようにセラフィーナが笑った。
「仕事しながら、父さんがよく歌ってた。恋の歌なのに、ヘンよね。昔、流行った歌よ、知ってる?」
マリオンは無言で首を横に振った。
「君のために花を摘もう。朝露に濡れた赤い薔薇を。君が微笑んでくれるから。君のために歌を歌おう。優しい夜の歌を。
遠い時を渡っても僕はずっと君を思っている。季節は移り変わって、たとえ秋が来て花が枯れても、冬がきて雪が世界を白く覆っても僕の心だけが変わらない」
歌い終わると、ほうっと長い息をついた。
「別の歌が流行っても父さんはずうっとこれを歌ってた。父さんが亡くなった時に、はじめて母さんが教えてくれたわ。お前が生まれたときに巷でとても流行ってて、父さんはずっとお前の枕もとで歌ってたんだよって」
「きっとお父さんにとっては恋の歌じゃなかったんだね。愛の歌だったんだ」
くすくすともう一度、楽しげにセラフィーナが笑った。
「ほんとにあなたって生意気な子ね!」
マリオンはにこりと笑ってこほんと咳払いをひとつすると、息を深く吸った。
「君のために花を摘もう。朝露に濡れた赤い薔薇を。君が微笑んでくれるから。君のために歌を歌おう。優しい夜の歌を。
遠い時を渡っても僕はずっと君を思っている。季節は移り変わって、たとえ秋が来て花が枯れても、冬がきて雪が世界を白く覆っても僕の心だけが変わらない」
彼の歌はちゃんとセラフィーナの歌ったとおりで、歌詞にも曲にも間違いがなく声も張りがあって悪くない。セラフィーナは目を大きく見開いた。
「まぁ?一度聞いただけで、もう歌えるの?すごいじゃない」
「えーと・・・・・・。基本的には魔法の呪文と同じだから」
ちょっと照れて鼻の頭をかきかき言ったマリオンの答えに、二人の間に一瞬の沈黙が降りる。
一呼吸置いて次の瞬間、セラフィーナはお腹をかかえてけらけら笑い出した。
「それを言うのは、あたしだけにしときなさいよ?他の女の子に言ったらもてなくなるわよ」
やっと笑い終わったセラフィーナは、涙を拭きながらマリオンに向かってそう言った。
「だってほんとにそうなんだもん。そんなにおかしいこと言ったかなぁ」
ちょっと拗ねたように上目遣いで見上げるマリオンに、セラフィーナは今度は微笑んで見せた。
「あぁもう、すごく久しぶりだわ、こんなに笑ったの」
「なんだか僕、笑われてばかりの気がするけど・・・・・・」
拗ねる彼にもう一度、セラフィーナは声を出して笑って見せた。
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「じゃあこれに魔法をかけるね」
磨き終わってからもそのできばえをしばらくためつすがめつしていたが、ようやく満足のいく出来になったらしい。
マリオンはその手に首飾りをセラフィーナのほうへ掲げて見せた。
セラフィーナがうなずくと、マリオンもうなずきかえした。
ゆっくりと立ち上がり左手に鎖の大部分を巻きつけ目の高さに掲げると、石の部分をに左の掌をむけた。
柔らかな彼の声が小さな声で呪文を詠唱し始めた。
呪文は彼女にはよくわからない言葉で綴られている。
だが、その呪文の及ぼす効果は緑色の光となってセラフィーナのところからもよく見えた。
呪文の詠唱とともに徐々に光は強くなる。
と、マリオンの右手から白く煌く透明な糸が、いく筋も石に吸い込まれていくのが見えた。
目を凝らしてよく見ると、それは糸ではなくて小さな小さな蛇、いや、龍の形をしていた。
セラフィーナは悲鳴をあげて邪魔をするのを恐れ、自分の手で固く口元を押さえた。
小さな龍が吸い込まれるに連れて翠玉はどんどん明るさを増していく。
最後に目を開けていられないほどのまばゆい光を一瞬放ち、あっけなくまた静かな闇が戻ってきた。
「強めにかけておいたからね。あなたがどんな無謀なことをしても大丈夫なように」
マリオンが振り向いて微笑した。
「翠玉はあなたを護ってくれる。剣で斬られても短刀で刺されても棍棒で殴られても大丈夫。悪意を持ってなされた行為は、すべて相手にはね返るようにしておいたよ」
こくりと声も出せずにセラフィーナはうなずいた。
「それから橄欖石のほうだけど・・・・・・」
言いながらマリオンはヘッドの部分を右手の掌の中に握りこんだ。
彼が軽く目を瞑り何事かを呟くと、手の中から放射状に緑色の柔らかな光がさして見えた。
やがて光が静かに収まると、マリオンはセラフィーナのほうへ首飾りをかざして見せた。
「こちらは困ったときに、僕を呼べるようにしたんだけど」
「呼べる?」
小さな声でセラフィーナが聞き返した。
「何か僕に出来ることがあれば・・・・・・。暴力以外の困ったことがあった時に、この石を握って僕を呼んで?何処に居ても僕にはあなたの声が聞こえるから」
「来てくれるの?あなたが?」
「もちろん光の速さで飛んでくるわけにはいかないけど、できる限り早く来るよ」
「・・・・・・信じられないわ」
「今度のはちゃんと効いてるよ?魔法。何年もずっと消えないし。絶対、大丈夫」
ちょっと不満げに頬を膨らませてマリオンが言うと、セラフィーナは首を横に振った。
「そういう意味じゃないわ。あなた・・・・・・呼ばれたら出来る限り早く来るって・・・・・・あたしにそんなことする義理なんてないのよ?あなたにとって、そういうのがどれだけ負担になるかわかってる?」
「そういう意味なの?・・・・・・いいんだ」
そういうとマリオンはちょっと泣きそうな顔で微笑んだ。
「・・・・・・あなたは僕に希望をくれたから」
せつないその笑顔にセラフィーナの胸の奥が微かに痛んだ。
マリオンはそのまま腕を伸ばし、セラフィーナの手の中に魔法をかけたばかりの首飾りを落とした。
首飾りは彼の体温のせいか、あるいは魔法のせいか、ほんのりと暖かかった。
「・・・・・・ありがとう」
セラフィーナは、一度光にかざしてその色合いの微妙に異なる二つの石の輝きを楽しんでから、迷わず自分の首にかけた。
つけ終わるとセラフィーナは、ベッドからするりと足を下ろし身体を沈めてかがみ込み、マリオンの予想もしないことをしてのけた。
彼の体にその白い腕を絡ませてぎゅっと抱きしめたのだ。
あまりにも思いがけないその行為に、マリオンは驚きのあまり大きく目を見開いたままだ。
セラフィーナは彼の耳元で「ありがとうをいうのは私のほうよ」とささやいた。
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夏の朝にふさわしい乾いたさわやかな風が吹いていた。
今日は昨日より少し気温が高くなりそうだ。
ドーンの町は今、その名前のとおりに夜明けを迎えている。(※Dawnには曙、夜明け、始まりという意味がある)
朝の太陽が町をその新しい白い光で満たし始め、夜はそこここの隅へ影をひそめている。
町から出る街道は朝露にしめり、来る時にはしぼんでいた露草が可憐な青い花を咲かせていた。
革のブーツは湿り気を吸い込み、色が少し変わりはじめていた。
「なぁ」
ショーンが後向きに歩きながら、少し遅れ気味に歩いているマリオンの顔を覗き込んだ。
「なに?」
マリオンは俯いたまま少しぼんやりと返事をする。
「最後にお前に何を言ったんだ?セラフィーナ」
「・・・・・・別になにも」
「嘘つけ!なんかショック受けてただろ?お前」
マリオンは苦笑した。
彼女の部屋を去り際、確かにセラフィーナはマリオンに一言ささやいて、彼はその言葉にちょっとだけ驚いたのだが、それをショーンに見られていたとは思わなかった。
彼はつんと顔を上に向けた。夏空が眩しい。
「・・・・・・・もう二度と来ないようにって言われただけだよ」
ショーンは目をむいた。
「来るなって?!普通そんなこと言わねーぞ?おいおい、もしかしてそりゃ向こうも本気になりそうってことか!?まいったなー」
「ち、違うってば。きっと嫌われたんだよ、僕」
頬を少し赤くしてマリオンは口を尖らせた。
「そうか?そんな風には全然見えなかったけどな?」
前へ向き直りマリオンと並んで歩きながら、ショーンは横目で少し沈んだ様子彼の顔をうかがっていたが、ふいにマリオンの首にそのたくましい腕を廻し、がっちりと押さえ込んだ。
「痛いよ、ショーンてば!」
「で、どうだったんだよ、昨夜は。ホントのこと言えよ、お前」
「なっ!えっ!?いや、あの、だから」
マリオンはさらに赤くなってしどろもどろだ。
「何だよ、お前。水臭いぞ。で?どうなのよ?白状しろよ」
「いや、だから、あの、違うってば。昨夜はずっと一晩中王都で流行ってるカードゲームしてたんだってば」
嘘はまったくついていない。だが、ショーンは信じてくれる気配すらない。
「いいや!俺の目に狂いはない!言え、マリオン」
「な、なんだよ、ショーンの目なんか狂ってばっかりじゃないかーっ。離してよーっ!」
少し考え事をしながら歩こうと思っていたのに、どうやらマリオンには興味津々でにやついているショーンを、おのれから引き剥がすという重大、かつ厄介な仕事ができてしまったらしい。
さわやかな夏の朝、ため息をつく暇もなく街道を師匠の城へ向かって、ショーンに半ば引きずられるようにしながら歩くはめになってしまった。
どこかで遠くで郭公が鳴いている。
ノカンゾウの黄色い花が、二人のじゃれあいを笑うように揺れている。
夏は今、始まったばかりだ。
そして、この日を最後に二度と二人で同じ道を歩くことの無い少年たちは、街道の陽炎の中へ永遠に消えていった。




