その1 現在から過去へ
「魔を喰らう」で黒ドラゴンの魔力を飲み込んだあとの魔術師の話。魔術師は、力があればあるほど時間の過ぎるのが遅い。だからこその大事な出逢いと別れを。
<Present> 現在
『リ・・・オン。マ・・リ・・オン』
誰かが呼んでいる。
真夜中にぽっかりと目が覚めた。
そのあまりの唐突さに、起きた本人が驚いていた。
あたりは暗く闇に沈み込んでいる。
高窓から柔らかく差し込んでいる月の光だけが、色を持っている。
どうしたのか考えるより先に、頭の中に声がした。
『来て・・・。マ・・・リオン』
聞き覚えのある声。
抗しがたい呼び出しの声が、絶え間なく頭の中に響く。
「・・・懐かしい」
思わず呟いた。
ベッドの上に半身を起こし、彼はその声に耳を澄ませた。
**..**..**..**..**..**..**..
<Past> 過去
「なぁ、マリオン、これからちょっとドーンの町へ行かないか?」
そう兄弟子のショーンが声をかけてきたのは、7月にしてはさわやかで過ごし易い夕暮れ時だった。
作業所の片づけが終わったら、師匠もいないし、食事当番でもないし、ゆっくり本が読めるかな、と思っていたマリオンは、ちょっと首をかしげた。
「今からわざわざドーンまで何しに行こうって言うの?」
ドーンはここから二リーグ(約10キロ)ほども離れている。
今から行ったのでは、幾ら夏場とはいえ暗くなってしまうだろうし、市場はもとより開いているはずもない。
「お前も久々にこっちに来たんだしな。たまには俺と遊んでくれてもいいだろ?」
怪訝そうな顔をしているマリオンにショーンはそういいながら、空よりも青いと常々自慢の青い目をぱちりとつぶってウィンクして見せた。
自分より三つほど年上のこの兄弟子は、生まれたときからこの魔術師の所に預けられている。
魔法的なことではマリオンのほうがだいぶ上だが、とりあえずこの魔術師のところにいる長さでは兄貴分にあたる。
それに魔法以外のところでは面倒見のいいところがあって、幼い時はだいぶ世話になったと思う。
なにぶんにもマリオンがここに預けられたのが五歳の時で、すでに魔法は使えるが人間として集団の中で穏便に生活するということに関しては、まだよくできなかった。
師匠の家には常に十人ほどの弟子たちがいたが、年齢はまちまちだ。
幼い子供もいれば、二十歳くらいの若者、あるいは五十をとうに越した者もいる。
魔術師あるいは薬師、占い師としてひとり立ちする者もいれば、死ぬまで師に仕えるつもりの弟子もいるのだ。
その中において、どちらかといえば一匹狼的ですぐ独りになりたがるマリオンを皆となじませ、普通の子供としての遊びや人と対話する喜びを教えてくれたのはショーンだった。
(もちろん悪さもたくさん教えたが)
たとえマリオンの家が貴族の家であってもショーンは、そのことで彼を差別することはなかった。
ショーンは自分が親のいない身でありながら、そのことで引け目を感じたりすることもなかった。
彼は彼なりの基準というものをしっかりと持っていて、世間の目よりその基準のほうを大事にしているような男だった。
自分の出自が他の誰よりも怪しげで胡散臭いものだと思っていたマリオンにとって、彼のその基準はいろんな意味でありがたかった。
実は、マリオンの母親はいわゆる貴族だったが、彼の父親は階級はともかく、「人間」ではなかったからだ。
彼の父親は、魔力を持った魔法的な生き物、人間の型をしてはいるが妖魔、魔物に属する者であった。
マリオンが魔法をいとも簡単に操れるのはひとえにその父親の遺伝子を引き継いだせいといえる。
髪の色を含め外見のほとんどは母親にとてもよく似ているが、眼の色が緑なのだけは父親に似たものらしい。
らしい、というのは自分では父の目を見たことがないから、母親の言うことを信じるしかないからだ。
マリオン本人はいまのところ父に会ったことはなかった。
父は彼が生まれてすぐ、行方不明になっていた。
マリオンの母親は父親が行方不明であることは気にしていたが、彼が魔族であるということ自体はまるで意に介していなかった。
彼女は彼自身が大事だったのであって、彼が何処に属している何者かということは大事なことではなかったのだ。
そういう点では彼女は、ショーンにも似ている。
自分自身の価値観以外のものは、彼女にとって意味のないものだった。
その母と二人で暮らしていた間はマリオンは平和であったが、母が自分の実家である貴族の屋敷に戻らざるを得なくなり、貴族としての暮らしが始まると、世間から自分がどのように見られているかということについては嫌でも気づくことになった。
母親は自分の価値観以外のものをかたくなに受け付けなかったが、幼い息子にそれを教えるのは難しい。
そのことで幼いなりに彼は、かなり傷つけられていた。
母親は彼を愛していたが、彼の人生すべてを護ってやることはできない、ということがわかっていた。
彼のために彼女は、幼い息子を魔術師に預けることを決めたのだ。
そのマリオンの出自に対するいわれのない(とは母親の言い分)引け目は、ショーンのおかげでだいぶん緩和されたといえるだろう。
彼がひとたび、そんなことは気にするな、といって笑い飛ばせば、それは皆もそうせざるを得ない雰囲気になってしまうのだ。
これは彼の人徳といってもよいだろう。
きっちり自分自身やビジョンを持っていて、それをあやまたずはっきりとした形にできる者だけがもらえる特権だった。
またショーンは、マリオンの魔法の腕を尊敬していて、ことあるごとにそれを口に出して伝えた。
それは本人に対してだったり弟子たちに対してだったりした。
そこには憧憬はあったが、羨望や嫉妬はなかった。
元が魔族であろうが、遺伝子の半分がそうであろうが、いいことは誰がやってもいい、悪いことは王様でも悪い、それがショーンの基準だった。
おかげでマリオンはその理由では、みなから忌避されることもなく、差別を受けることもいじめを受けることもなかった。
(ただし、あくまでも「その理由では」ということではあった。
また、一方では自分よりも魔法が使える者を苛める、という行為は危険なことだったから、ともいえるだろう)
今はもうマリオンも十五歳で、すっかり自分の能力にも慣れ、魔力もかなり自由に制御できた。
一年前、フォートワースの荒野で、封じられたドラゴンを自分の中に取り込み、その魔力を自分の物にする、という暴挙を果たしてしまってからは、(その所業にすっかり呆れた)師匠も出入りを自由に許している。
おかげでこの一年ほどは母親のいる屋敷へ戻ったり、あちこち旅したり、師匠のところへ勉強に戻ってきたりと気ままな生活を送っていた。
はっきりと特別待遇である。
他の者たちにそのような気ままは許されない。
それに不満を漏らす者も、数いる弟子の中にはいないではなかった。
だがそれに対しても、ショーンはただ笑うだけだ。
「しょうがないだろ?才能の差だもん。悔しかったらあいつと同じことやってみればいいのさ。・・・やれるんならな」
最後の一言で、大抵の者は押し黙るしかない。
それが出来ないことはあまりにも明白だ。
ただ、それを本人ではなくショーンが言うことで、あまり角が立たずにすんでいる。
皆は裏で文句は言っているだろうが、少なくとも表立って言うものはいなくなった。
ただ前よりもマリオンの一挙手一投足に注意して、息を殺して遠巻きに見ているようではあった。
周りがそんな風なのに、いつ戻って来てもかわりのない態度で接してくれるのは、師とショーンと従弟のバージルだった。
バージルにはもちろん畏怖の感情はあったようだが、嫌厭まではいかなかったようだ。
金色に変化したマリオンの左目に恐れは抱いたようだが、それによる態度の変化はほとんど見られなかった。
むしろ、そんなとてつもないことを独りでやってのけたことに、尊敬の念を抱いたと言ってもよいかもしれない。
そのあたりはさすがにマリオンの母と同じ血を引いているといえる。
気が弱く繊細そうに見えて、意外と豪胆で強情、やや大雑把なあたりは家系とも言えるかも知れない。
(マリオンの母とバージルの母は姉妹である)
自分から枠の外へはみ出していることも重々わかってはいるのだが、マリオンはその枠を取り払うすべをまだ知らない。
だから彼らがマリオンを普通の人間(あるいはただの元気でやんちゃな弟子、あるいは意外と役立たずの子分、あるいは可愛い顔してるくせに無謀な年下の従弟)扱いしてくれることだけが、彼をこの師の城へ足を向けさせるといってもよかった。
そういうわけでマリオンは、ショーンに一目おくことにしていた。
そのショーンに上機嫌で誘われたら、よほどの理由がない限り断ることはできない。
「わかった。じゃあ出かける準備してくるね」
マリオンは素直にうなずくと、自分の荷物を部屋まで片付けに駆けていった。
「なぁバージルも行かないか?」
片付け終わって、自分の読みたい本を小脇に抱え自室に引きとろうとしていたバージルに声をかけたのは、もちろんショーンだ。
マリオンはすばやく出かける準備を整えて、すでにショーンのところへ戻って来ていた。
バージルはちろりっと奇妙な目つきで、マリオンとショーンを見比べた。
「まだ彼には早くないかい?ショーン」
にやりと意味ありげにショーンが笑う。
「もう十五だぜ?おまえいくつだったよ?」
二人の会話に怪訝そうなマリオンがなにが?と問う間もない。
「しっかりがんばれよっ」
背中を思いっきり叩かれ、咳き込んでいるうちに叩いた当の従弟はさっさと自分の部屋のほうへ歩き出していた。
「な、なにあれ?」
マリオンが物問いたげにショーンを見上げるが、ショーンは笑うだけで何も言わない。
食事当番に夕食を断ると、二人は仲良く連れ立って出かけた。
師がいないのをいいことに黙って馬を使うという手もないではなかったが、そのあたりはショーンがちょっと渋った。
どうやら目的が後ろめたいらしく、あとでばれたときに言い訳を言うのが面倒だと言い張ったので、とりあえず歩くことになったのだ。
二リーグ(10キロ)ほどの道を歩くのは、二人とも慣れている。
ショーンは六フィート(約180cm)近い身長のがっしりしたタイプだし、マリオンのほうは五フィート四インチ(約162cm)で小柄だが、体が軽いためか元からそういう性質なのか足が速かった。
たぶん、半刻(約1時間)ほども歩けば、目的地へ着いてしまうに違いない。
まだあたりは昼間と同じくらい明るく、すっきりした爽やかな風が吹いてきて気持ちがいい。
何度訊いても答えてくれないショーンに、行く先を教えてもらうのをあきらめてマリオンは黙って空を眺めた。
街道は短い草が敷き詰められたように生えていて、馬車のわだちの跡だけがくっきりと二本、茶色い線で引かれている。
ブーツの下の柔らかい弾力が足取りも軽くしてくれていた。
「春より埃っぽくなくていいね」
マリオンがそういうと、
「そうだな。春は草がまだ生えてないからな」
道端の伸びかけた萱を引抜いて草笛にしながら、ショーンがうなずいた。
春、雪が解けた後に乾いてしまったこのあたりの街道は、風が吹くたびに土ぼこりが舞って歩きにくい。
風がない日でも馬車が通ったあとは大量の土ぼこりが舞い上がる。
春が過ぎて短い草がしっかりと根を張るまで、ここを通るものはみな、顔を覆うスカーフやマスクを欠かせない。
それをしないでここを通ると、肺の中まで黒土が入り込みそうだった。
だが、今日の空気は透明に澄んでいて、吸い込むと緑色の香りがする。
街道の両側にはしばらく森が続き、それが途切れると丈高い夏草の広野が広がっていた。
ところどころに草の丈が低くなっている所があって、そこにはシロツメクサやヘビイチゴが生えている。
彩りに黄色いキンポウゲやピンクのアザミが風に揺れていた。
心地よく湿度の低い適度な暑さが夏を思わせる。
今日は日当たりのいいところを歩いてもさほど汗ばんだりしない。
「なぁ、ちょっと訊いていいか?」
気まぐれな草笛を鳴らすのをやめて、ショーンがマリオンの方を向いた。
「なに?」
改まった口調に、シロツメクサをもて遊んでいたマリオンが小さく首をかしげた。
「最近、肉とか全然食ってないみたいだけど。なんか問題あんのか?」
さり気ないが、だいぶ気にしているようなショーンの口調だ。
「えっ?ああ・・・。うーん」
思いがけない問いにマリオンの眉がきゅっと寄せられる。
「パンと水と野菜、果物・・・だけだよな?卵くらいは食ってるのか?いや、オムレツ残してたよな。
それとハムも残してた。バターは薄ーく塗ってるよな。チーズは一口だけ齧ってるのを見たし、ミルクはお茶に入れてるのを見た。魚は食ってない」
「よく見てるね、ショーンてば」
ショーンの妙に細かい指摘に、ちょっと笑ってしまう。
だが、ショーンのほうはいたって大真面目な顔だ。
実際のところ、かなり心配しているものらしい。
「お前、育ち盛りだし、背だってこれからまだまだ伸びるはずだ。やせすぎてるしさ。食事制限かけてるのは不自然なんじゃないか?」
「食事制限・・・っていえば、まぁそうだけど」
「あれか?ええと、つまり・・・ああいうもの食うと、魔力が衰えるのか?」
「いや、うーん・・・そうじゃなくて」
マリオンはシロツメクサをぽいっと投げ捨て、天を仰ぎ見た。
「はっきりしねぇな、おい」
「逆なんだよね」
「逆ぅ?」
「肉とか食べると、なんていうのかな?そこからエネルギーを得るのかな?黒が勝ちすぎるんだ・・・。んー、つまり魔力が強くなりすぎて僕が負けそうになるんだ」
「・・・・」
「もうちょっと制御できるようになれば大丈夫だと思うけど」
黙ってしまったショーンに言い訳するように上目遣いになってマリオンが答え、ショーンの方はため息をついた。
「苦労するな、お前も・・・。でもまたなんだってそんな自分からそんな苦難の道を選ばなきゃならんのか、おれには理解できないよ」
「そうだね」
マリオンは微苦笑を浮かべた。
「力が欲しいのか?もしかして、この世界を統べるほどの」
ショーンはいたって真面目な顔だが、マリオンは思わず吹き出した。
「あははは。そんな力、持てるわけないよ。それに僕は地位も名誉も、まして権力になんて全然興味ないし」
「じゃぁなんだよ?」
「・・・・それは・・・」
マリオンは答えに迷った。
「・・・そっか。ま、言わなくていいよ」
言いよどむマリオンを、ショーンは明るく笑ってとどめた。
それ以上つっこんで訊いても、彼を追い込むだけでいいことはないと判断したのだ。
答えを訊くのが怖かったのも少しある。
もちろんショーンは、マリオンを嫌ってはいない。
むしろ、好きな奴のひとりで実の弟みたいにとても大事に思っていた。
だが、だからといってマリオンの行動が、すべて理解できるわけではなかった。
特に魔法に関して言えば、ほとんど理解できない。
実はショーンは、あまり魔法が使えない。
生まれてすぐに魔術師の所へ預けられたというのに、彼にはその才能はかけらもなかったのだ。
そのかわりに彼には器用な手先があった。
魔道具となる指輪や剣、鎧や鎖帷子などを作らせたら右に出るものがなかった。
凝ったつくりでも細工物でも飾りつきでも、どんなものでも綺麗に作れた。
ショーンが作りマリオンが魔法を封入すると、最強の魔道具が出来た。
相性がいいのか、師が魔法を込めるより筋がいい物が出来るのだ。
その意味でもこの二人は、いいコンビといえるかもしれない。
それでも、ショーンにはマリオンに理解できない部分、闇に閉ざされた部分があるのを認めざるを得なかった。
そんな時、ショーンは彼を理解しようとするのはやめていた。
ただ受け入れればいい。
その金色の目でどんな暗黒の面を見ていても、彼は彼でしかない。
ショーンはマリオンの頭に手を置いた。
いつもは嫌がるのだが、今日の彼は頭を振ってよけようとはしなかった。
「でもあんまり無理すんな。お前、魔力を高めるためになら何でもしそうで、そのためには自分すら捨ててしまいそうで、見てるこっちが辛いんだ。もっと自分を大事にしろな」
「・・・・護りたいんだ」
ぽつりと小さな声で、マリオンが呟いた。
ショーンは思わず手を下ろし、彼の顔を覗き込んだ。
「護る?」
「・・・・」
再び答えはない。
「そっか。じゃあ強くないとな。護りたいものが何であれ」
ショーンがことさら明るい声で言うと、マリオンは小さく微笑んだ。
「・・・そうだね。がんばるよ」
「ああ、でもほんとにあんまり無茶はすんな」
「うん、わかった。ありがと、ショーン」
素直にうなずくマリオンを見て、ショーンは明るく笑った。
「よしっ!じゃあ今日は張り切っていくぞ!」
「だからさ、ショーン。何処に行くの?」
唇をとがらしてマリオンが、懲りずに訊ねた。
一陣の風が、町の匂いを運んできた。
もうドーンの町並みが、そこまで見えてきていた。
出てきたのがすでに遅かったために、さすがにドーンの町に着いた時ははすでに半分ほど夕闇に沈み込んでいた。
夕市で買い物を終えた人々はすでに帰路につき、夕食の支度をはじめているのだろう。
通りには、料理のいい匂いが漂っている。
それに誘われるように居酒屋へ入っていく仕事帰りの男たちもたくさんいた。
「腹ごしらえしてから行くぞ」
弾んだ足取りで鼻歌まじりで定食屋を物色し始めたショーンを見て、マリオンはため息をついた。
「こういう時って、絶対なんかたくらんでるよね」
と、小さくつぶやく。
今までつきあった経験から(自分にとって)ろくなことはない、というのが判っているだけにマリオンは素直について来たことを少し後悔し始めた。
大人しくバージルみたいに部屋で本でも読んでりゃ良かった。
案の定、その懸念はすぐに現実となった。
簡単な食事の後、ショーンが気の進まない相棒を引きずるようにしてやってきたのは、本通りからはだいぶ外れた、延々といかがわしげな店が続く路地裏だった。
夜もまだ早いせいか人通りはまだ少ない。
あと一刻もすれば、通りに人があふれ返ることになるのだろうが、今の時間だと本通りのほうが酔っ払いが多いのだ。
そういえばこのへんは前にもショーンに、変わった居酒屋があるんだといって連れてこられたことがあった。
そのときも半ば強引に店に連れ込まれたのだが、当時はまだだいぶ小さかったのですぐに店から出されてしまったのだ。だから妖しげな仮面をつけた男女がやたらいたことだけはおぼえているのだがそれ以上の記憶はない。
「ここ!」
だが、ショーンが差したのは、その店とはまるで違っていた。
確かに通りの中でも割と趣味のいい飾り看板の下がった一軒だったが、趣味がいいといっても一目でその手の店だとわかる。
えっ?!とマリオンはショーンを見上げた。
せいぜい新しく見つけた居酒屋に連れて行かれるんだと思っていたマリオンは仰天した。
「ここって・・・。娼館じゃないかっ!なに考えてるのっ、ショーンてば」
「お前も一人前になったんだしさ。とりあえず俺からのお祝いだから」
ショーンは最初からどういう反応があるかちゃんと読んでいたらしく、マリオンは走って逃げる暇もなく押さえ込まれた。走って逃げた場合はすばしこいマリオンのほうに分があるのだろうが、六インチ(18cm)もの身長差はこういう場合、不利になる。もちろん肩幅などもショーンのほうが圧倒的に広い。
「じょ、冗談じゃないよ。こんなの僕はごめんだからね」
「なんだよ。俺の祝いは受け取れないってのか?兄弟子なんだぞ?俺は」
ショーンがじたばたと無駄に手足を振り回す小柄な体をきっちり押さえ込んで、にやりと笑った。
マリオンもそれなりに格闘術の指導も受けていて筋もいいと言われているのだが、ショーンに勝てたためしはないのだ。
それでもショーンの隙をうかがって暴れるのをやめない。
「僕はそんな脅しには乗らないからねっ!ショーンが縁を切りたいなら切ればいいでしょうっ!僕は絶対厭だからねっ!一人前ったって僕はショーンみたいな女たらしになりたいわけじゃないんだからっ」
「お前、ほんっとうに口だけは達者だよな。でも、無駄な抵抗だからな」
ショーンはそのまま小麦の大袋のように、逆さにひょいっと肩にマリオンを担ぎあげた。
ふいをつかれたマリオンは、顔が思い切りショーンのたくましい背中にぶつかり思わず抗議の声を上げる。
「痛いじゃないかっ」
「この格好で中入るの、すげーみっともないと思うんだけどなぁ」
やはりどこかに笑いをにじませた口調でのんびりとショーンが言った。
あいかわらずじたばたと抵抗を続けながら、背中越しに怒鳴っている方にはまるで余裕がない。
「そう思ったら離してよっ!離せっ」
「お前、可愛い顔してるんだからさ。もてるぜぇ。あー、うらやましい」
ショーンはまるで抗議の声が聞こえてないように台詞を棒読みにして、楽しげに店の階段を上っていく。
「うるさいうるさいっ!もてなくても全然困りゃしないってばっ!」
前で足を押さえ込まれているので、しかたなくマリオンは両のこぶしでどんどんとショーンの背中を叩いたが、彼のほうはそれくらいは覚悟のうえだ。
ショーンは涼しい顔で階段を上りきり、扉を今にも開けようとした。
だが、そこで背中のほうから炎の呪文が聞こえてきて、ドアの取っ手に伸ばしたショーンの手が止まった。
「ば、馬鹿、やめろっ!お前、こんなとこで魔法使うな」
止めるまもなく、ぱしゅっとかすかな音がして細く蒼い無数の炎の雨が、ショーンの頭上数フィートほどの空中に生まれた。
美しい蒼い雨はいったん空中にとどまっていたが、すぐにショーンの体に容赦なく降り注ぎはじめた。
魔法が弱められているので火傷をするほどではないが、これだけ大量に浴びれば鋭い針で突き刺されたような痛みが全身に走るだろう。あざくらいはできそうだ。
が、しかし、その炎はショーンの体に触れる一瞬前に音もなく霧散し、むなしく消えていった。
「あ・・・」
背中越しにマリオンが小さく声を漏らし、ショーンがくくっと引き込むように笑った。
「そういえば俺、お前の魔法がかかった『魔法よけ』つけてるんだった。いや、ほんとよく効くぜ」
どうやらショーンは、自作のペンダントに「魔法よけ」の呪文をマリオンにかけてもらって身につけているようだ。
この呪文は攻撃魔法を無効にする。
持っている人間が魔法を使えなくても効果が変わらないので、旅人がたまにこれを封じた物を持っていることがある。
たいていは魔法で攻撃してくる盗賊から逃げるために使用する。
マリオンはため息をついた。
「自分のかけた魔法よけか・・・」
もとより彼には、ショーンに怪我を負わせるつもりはない。
ただ、炎の雨に驚いてショーンが一瞬でも手を離してくれれば、逃げられると考えたに過ぎないのだが、そこで自分の施した魔法よけが邪魔してくれるとは夢にも思っていなかった。
「それにこれ、お前の魔法だからな。一回でだめになるってわけでもなさそうだぜ?」
時によって、魔法を封じ込めた物は、一度使うとその効力が薄れることがある。
それは道具自体に理由があったり、呪文自体に問題があったりするのだが、この場合はどちらも「最強」のものだからどうやら一度軽い魔法を散らしただけでは、効力が失われることはなさそうだ。
出来がいいと褒められているようで、実は遠まわしに『同じ手はきかないぜ?』と言われたことにもなるわけで、マリオンの口がへの字に曲げられた。
「もう、いいっ!あきらめたからおろしてよっ」
ふてくされた声があがり、ショーンは忍び笑いをもらした。
「まぁそういうな。ついでだからこのまま入ろうぜ」
「じょ、冗談でしょっ!下ろしてよっ」
再びあっけなく小麦袋の抗議の声は、無視された。
ショーンは扉の華やかな色の取っ手を廻し、押し開けた。
美しい装飾の施された入り口の扉を開けたところで、娼妓たちの歓迎の嬌声があがる・・・はずだったのだが、入ってきたのが肩に少年を担いだ変わった客だったばっかりに、それはかなり気の抜けたものになった。
宵の口のまだ開いたばかりの店には客も少なく、まだ娼妓たちが広間にたくさんあぶれていたのだが、みんな一様に目をぱちくりしている。
案外ゆったりした造りのその広間には、たくさんのソファや椅子が置かれ、それぞれ思い思いの格好をした娼妓たちが腰かけていた。
端のほうには小さなカウンターがあり、何人かの物憂げな娼妓たちが早くもグラスを傾けている。
奥のほうには赤い絨毯が敷き詰められた階段があり、そこを登るといくつか部屋があるものらしい。
階段の裏側にも奥へ通じる通路があるようだが、玄関口からはよく見えない。
「あらあんた、ショーンじゃない?なによ、それ?」
ソファにかけていたほうの娼妓の一人が、客の顔に気づいたらしい。
「よう、アンリエッタ」
ショーンは声をかけた娼妓のほうへにやりと笑って見せると、よっこらせとお荷物を床に下ろし、彼の肩をつかんでくるりと娼妓たちのほうを向かせた。
かすかに頬に朱を走らせた口をへの字に曲げた不機嫌そうな少年を見ると、娼妓たちは口々に歓声をあげた。
「いやーん、なにこの子、可愛いわっ!ショーンのとこのお弟子さん?」
「素敵な金髪ねー!触らせてぇ」
「あんた、また無理やり連れてきたわねーっ。ショーンたら悪いお兄さんだわぁ」
また?と聞きとがめたマリオンが顔をしかめてショーンを見上げる。
ショーンがにやけた顔で小さくまぁなとつぶやいた。
僕なんか連れてこなくても、ショーンならなんぼでも遊び相手がいるじゃないか。
それに僕は見世物じゃないぞ、と囃す娼妓たちを疎ましく思いながら心の中で抗議する。
だが、口に出して言ったところで、まったく無駄なことは先刻承知だ。
はふっとマリオンは、聞こえよがしにため息をついてそのままがっくりと俯いた。
左目はもとから前髪で隠れているが、白い額からはらりと金の髪が一房流れ落ち、右の目にも影がかかった。
不満顔でふてくされてるけどなかなか美形じゃない?と同僚とささやき交わし、覗き込もうとしていた娼妓がひとり前へ身を乗り出した。
「ちょっと前髪、邪魔よ。綺麗な顔してるんだから上げて見せてくれなぁい?」
下を向いてふてくされていたマリオンが、それを聞いてふと顔を上げた。
「そうか、その手があったんだ・・・」
ぽつりとつぶやく声を聞いて、娼妓たちの様子ににやついていたショーンが「その手」に思い当たってぎくりとする。
左目に黒龍の魔力を宿してからそれを隠すためにここ一年で長く伸ばした前髪に、マリオンの左手がすでにかけられている。
今、ここでマリオンが前髪をあげたら、間違いなく娼妓たちに怖がられ、嫌がられるに決まっている。
オッドアイ自体は珍しくなくても、魔力を持った金の瞳は珍しい。
金色の左目を見た者は、すべからくその魔法の圧倒的脅威を感じることになるだろう。
そして、それは怖れと嫌悪につながる。
ショーンは慌てて、左目を隠している前髪を今にもかきあげようとしているマリオンの左手を押えた。
「お前っ、往生際が悪いぞ。んなことして見ろ。俺は二度とここに来られないだろうがっ」
娼妓たちには聞こえないように小声でショーンが叱咤する。
マリオンの左手はショーンに押さえ込まれてはいるが、彼が手を離したらすぐ前髪がかきあげられるように力はずっと入ったままだ。
「なんでさ。僕が怖がられるだけで、ショーンにはぜんっぜん関係ないでしょう?」
唇を尖らせながらもやはり小声のマリオンは、『全然』のところだけに思いっきりアクセントを置いた。
「あのな、こういうとこは、縁起とかジンクスとかいろいろ担ぐんだよ」
ショーンは周りに聞こえないようにかなり気を使いながら、マリオンの耳元でささやく。
「それによく考えたらショーンが二度と来られなくても、僕、ぜんっぜんかまわないし」
マリオンはおもしろくないのでもう一度、『全然』に思いっきりアクセントを置いてやる。
さすがにショーンはマリオンの左手を勢いよくひっぱり、自分のほうへ向かせてしっかり顔を覗き込んだ。
「俺がかまうんだよっ!そんなことになったら、俺、毎晩、お前の部屋に行ってぐちぐち嫌味言ってやるからなっ!いいか?毎晩だぞっ!?ま・い・ば・んっ」
その情けないありさまが容易に想像できたのか、マリオンは深くため息をついて左手の力を緩めた。
「なら、最初からやめとけばいいのに・・・。大人げないんだから、もう」
はーっとショーンも同時にため息をつく。
「お前が強情すぎんだよ。たいがいの奴は最初は文句言うけど、あとは楽しんでるぜ。ここまで嫌がりゃしないって」
「僕はたいがいの奴じゃないからねっ!」
口を更に大きくへの字に曲げて、ショーンを睨みつける。
「確かにお前はまれに見る可愛げのないガキだよな」
「そういう希少価値のあるガキをこんなとこへ連れてくるのがそもそも間違ってるよっ!」
ほんっとうに口のへらねぇ奴だーと嘆いているショーンをよそに、マリオンは不機嫌な顔のまま部屋の中をぐるぐる見渡した。
娼妓たちは二人の言い争うのを半ばおもしろがっているようだ。
くすくす笑ったり、つつきあいながらこそこそ話をしている。
このまま、いつまでも二人で言い争っているわけにもいかないだろうし、第一、埒があかないこと、このうえない。
逃げるためにはショーンがそばにいない方が、絶対に都合がいい。
ならば今のうちにあたりの様子を覚えておいて、隙を見て逃げ出せばいい。
少し時間を稼いでショーンを油断させとこう、という腹だ。
娼妓たちには全然興味ないのだが、部屋の装飾にはちょっと興味がある。
綺麗なものを見たり作ったりするのが、これで意外と好きなのだ。
いくつかの装飾用の小物をながめていて、ふと首をひねった。
外の飾り看板もそうだが、この美しく精緻な装飾は見覚えがある気がした。
「さ、もういいかげん観念してお姉さまに教育してもらいなさい」
マリオンの首根っこをつかんで前へ押し出そうとするショーンにささやいた。
「ここの看板と装飾品、ショーンが作ったでしょ?」
「なに?!」
思いがけないことを言われてショーンが思わず動揺した。
「だって、これ、ショーンの『手』だよね?」
物作りにはそれぞれ匂いというか雰囲気というか、独特の『手』がある。
見るものが見れば同等の技術を持った職人がおんなじような装飾を施しても誰が作った物かわかる。
ずいぶんいつもと感じは違うのだが、そばでしょっちゅう作るものを見てきたマリオンには、一目でそれがショーンの作ったものだとわかった。
「そんなに入れ込んでるとは知らなかったな」
師匠のところの作業場で夜中か早朝にでも一人でこっそりと作っていたのだろう。
「根性入ってるんだね」
妙なところに感心しているマリオンの後ろ頭をひとつどつくと、少し赤い顔をしたショーンは、今度こそどんとおもいっきりお姉さま方のほうへ彼を突き飛ばした。
「俺は相手が決まってるんだ。お前の相手は決めてもらえ!」
マリオンが突き飛ばされた先には長椅子があって、もちろんそこにも三人ほどの娼妓たちが腰掛けていた。
マリオンはかろうじてその娼妓たちの真中に頭から突っ込むことはさけたが、足元に倒れ込むことになってしまった。
「まぁ、可哀想にね。ショーンたらこんなにひどいことしなくてもいいのに」
「ねぇどんな娘が好みかしら?あたしでどう?」
金髪と赤毛の娼妓がマリオンの両端からかわるがわる声をかけてきた。
やっとで半身を床から引き起こすと、目の前の三人からむせ返るような白粉と香水の匂いがしてくらくらしそうだ。
「やーね、そんなに顔しかめなくてもいいじゃないの。取って食おうなんていってないわよ」
笑いと媚を含んだ口調で赤毛の娼妓が、マリオンの腕をとって立たせようとしていた。
「離してください。一人でたてますから」
マリオンはその娼妓の手を軽く払った。
「ちょっと、あなた」
突然の怒気を含んだ鋭い声に顔を上げると、今まで一言も発していなかった真ん中に座った黒髪の美女と目が合った。
抜けるように白い肌と夜のような黒い瞳を持った美貌が、きつくマリオンを睨んでいた。
すらりとした身体を、目の色と同じ黒の凝った衣装に身を包んでいる。
「あなた、あたしたちを馬鹿にしてるの?」
美女の--というよりもまだ美少女にも見えるが、その怒りがどこから来ているのか判らなくてマリオンは、え?と首をかしげた。
黒い瞳の娼妓は目を細めて、そんなマリオンを値踏みするように見つめた。
「口調はどこかの貴族のお坊ちゃんみたいだけど。お貴族様には私たちは汚らしいということかしら?」
マリオンは目を大きく見開いた。
ぱちぱちと二、三度瞬きしてようやく納得がいった。そういうことか。
「僕、そんなこと思ってないよ?」
言いながらひょいっと身軽く立ち上がると、パンパンと洋服の埃を叩いた。
「男なのに、女の子の手を借りて立ち上がるのは、みっともないでしょ?」
睨みつける黒い瞳に対抗するように、まっすぐな視線で美女を見つめた。
だが、美女の瞳は和らがない。鋭くマリオンを見つめたままだ。
「それにずいぶんと嫌がってるじゃないの。ほんとはここの空気を吸うのも嫌とかいうんじゃないの?」
刺のある口調で冷たく言い放つ。
「ちょ、ちょっと待てよ、セラフィーナ。こいつはそういう奴じゃないからさ」
不穏な空気に慌てたショーンが間に割って入った。
「大丈夫だよ、ショーン。彼女のは誤解だし、僕が怒ってるのはショーンに対してだけだから」
「そうか・・・、っておい」
ショーンがぼけてくれたが、マリオンはショーンへ一瞬も視線を戻さない。
「君たちに対してどうこう思ってやしないよ。僕がここに居るのを嫌がってるのは、君たちのせいじゃなくて、無理強いとか強制が嫌いだからだよ」
相手の瞳を見つめたままで、マリオンはきっぱりと言い放った。
睨み付ける黒い瞳を両側からはさんで、あとの金髪と赤毛の二人はおろおろしている。
「あらそう、それを聞いて安心したわ」
セラフィーナと呼ばれた美女は、もはやマリオンには興味がないとでもいいたげにつんとした顔でそっぽを向いた。
「セラフィーナはこの店一番の売れっこでさ。ちょっとお高くとまってても誰も文句は言わないんだ。というか、そこがいいらしいんだけど」
ショーンがマリオンの耳元でささやいた。
「ふーん。そうなんだ。他の人より料金も高いの?」
「そりゃ当たり前。アンリエッタの倍だぞ?」
マリオンはようやくショーンの顔を見返して、にこりと天使の微笑を放った。
「じゃ、僕、あの娘にするね。ショーンのおごりだし」
「えっ!?」
絶句するショーンを置いて、マリオンは黒髪の美女のほうへ一歩踏み出した。




