第16話『日常の崩壊、侯爵の影。』
首席衛兵ザックが暗殺されて以来、私が仕えるマルキ・アーミテージ侯爵の屋敷は、奇妙な静けさに包まれていた。
(アベルはもう、私を見ていない)
あの日、私の警告を「凡人の無意味な心配」として突き放したアベルの冷たい瞳を思い出すたび、私は激しい孤独を感じる。
私は秘密を知っている。
だが、その秘密を話そうとするたび、喉が焼けるような激痛が走る。
―――私は、アベルの絶望を知る、ただの「無力な共犯者」だった。
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屋敷の召使いに、マリアという娘がいる。
不器用でいつも失敗ばかりし、他の召使いたちにいびられている。
(アベルの絶望は、私にはどうにもできなかった。でも、せめてこの屋敷で、誰か一人でも救えるなら―――)
私は、マリアに触れ、彼女のギフトを「透視」した。
もし、彼女の不器用さの裏に、隠れた才能があるなら、それを教えてあげたかった。
マリアのギフトは、『特定の料理の盛り付けが芸術的になる』という、ささやかなものだった。
その日、私はマリアに、そのギフトの「条件」と「能力」を、遠回しに伝えた。
マリアは泣きながら喜んでくれた。
―――その時、侯爵様の書斎の窓から、侯爵様がこちらを見つめていることに、私は気づかなかった。
屋敷の空気は、以前と比べて異常なほどに張り詰めている。
侯爵様は、ザックが公爵に証拠を渡したことを知っているため、政敵の動きを極度に警戒していた。
「公爵めが、いつ侯爵家に謀略を仕掛けてくるか分からん」
侯爵様は、毎日、私を含めた召使い全員に対し、屋敷に出入りする客の素性や、庭の草花の配置まで、事細かに報告することを命じた。
それは、侯爵様の神経症的な焦りの表れだった。
以前の侯爵邸は、厳格ながらも規律正しい日常があった。
だが今は違う。
召使いたちは皆、互いの報告が侯爵様の逆鱗に触れないよう、言葉を選び、顔色を窺うことに終始している。
侯爵邸という日常の舞台が、まるで陰謀と疑心暗鬼の中心地へと、静かに変貌しつつあった。
ある夜、侯爵様の書斎で、私はお茶の給仕をしていた。
侯爵様は、私を一瞥すると、突然、神経質に笑みを浮かべた。
「リナ。お前が、あのマリアを、遠回しに励ましていたのを見かけたぞ」
私の背筋は凍りついた。
「特技を見つけ出したいとでも思ったか? "人の秘密を見抜く力"があるのだな。」
「―――っ!」
「まあ、気にするな。私もな、長年、"神"から授けられるべき"才能"を待ち望んでいるんだ」
侯爵様は、自分の左手の甲を、凡人の証である何も発現していない皮膚を、神経質になでながら続けた。
「そこで、だ。リナ。お前に、一つ頼みたいことがある」
侯爵様の、底知れない、しかし人間的な「渇望」に満ちた視線が、私の全身を射抜いた。
(侯爵様の、次の計画の駒に、私が組み込まれようとしている)
侯爵邸の日常は、もう完全に崩壊していた。
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