第9話『良心の瓦解。全てを諦めた、空白の青年。』
十六夜の夜が明けた。
私は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
遠くで、まるで地面に響くような微かな金属音が聞こえた気がした。
窓際の机には、何枚ものアベル宛の未完成の便箋が散らばっている。
(書面なら……)
私は、必死にアベルに伝えようと試みた。
だが、どの便箋も、ギフトの話題に触れようとした途端、指先の筋肉が意思に反して痙攣し、激しい嘔吐感に襲われる。
書こうとした文字は黒く潰れ、伝えたい言葉は喉の奥に張り付いたまま、一文字たりとも書くことができなかった。
私は、アベルを救う最後の手段すら、奪われたことを悟った。
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俺は、最悪の目覚めを迎えた。
吐き気と頭痛で体が重い。
鏡に映るのは、血と泥で汚れた寝間着を着た、生気を失った自分だ。
(……止まらなかった)
最強の防御も、俺の心からの抵抗も、あのシステムは止められなかった。
配達に出た俺は、街の様子に気づく。
誰もが顔を歪め、ヴァレリウス伯爵の死を悼んでいた。
「まさか、あの聖人が……」
「神はなぜ、あんな善人を……」
悪人を殺した時とは、街の反応がまるで違う。
街全体が、静かに深い悲嘆に沈んでいる。
俺の警告は、善人を殺させないための最後の抵抗だった。
それなのに...
(神が、間違ったんだ……)
俺は、あの優しい伯爵の顔を思い出し、自分の手で殺したという罪悪感と、激しい怒りに震えた。
数日後の夜、俺は酒場にいた。
ルークは、いつものように酒を呷っていたが、顔は青ざめている。
「聞いたか、アベル。ギデオンの話だ」
ギデオンは全身鎧のおかげで命は助かったが、
「触れられた瞬間にギフトが消え失せ、窓から投げ出された」と噂になっていた。
ルークは戦慄した声で言った。
「あの怪物は、ギフトそのものを無効化する力を持っているのかもしれない……」
その時、別のテーブルから、さらに衝撃的な噂が聞こえてきた。
「だが、あの伯爵。今日、地下室からとんでもないもんが見つかったらしいぞ」
「孤児院を隠れ蓑にした、大規模な人身売買の証拠文書だ。」
瞬時に、俺の思考が停止した。
(……嘘だ)
神の判断は、絶対的に正しかった。
俺の「良心」こそが、何か強大な力に騙されていたのだ。
だが、酒場の男たちは、その噂を信じていなかった。
「デタラメだ! 誰かが伯爵の名を貶めようとしてる!」
「そうだ、あの方がそんなことをするはずがない!」
街の人々は、いまだに伯爵を「聖人」だと嘆き続けている。
誰も、悪事の証拠を信じようとしない。
ヴァレリウス伯爵の呪いは、彼が死しても、街に残り続けていた。
(なぜだ……? 証拠があるのに、なぜ誰も信じない……?)
俺には、この街に蔓延する狂気が決定的に理解できなかった。
だが同時に、俺もまだ、彼を心から「悪人」だと認識しきれていない自分に気づいた。
最強の盾は無意味だった。
俺の判断も無意味だった。
そして、神の正しさを証明する真実さえも、この街の理解不能な狂気の前では無意味だった。
俺は、己の倫理観さえも信じられなくなり、テーブルに突っ伏した。
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その頃、私が仕えるマルキ・アーミテージ侯爵の屋敷は、ヴァレリウス伯爵の死で騒然としていた。
侯爵は、伯爵との繋がりが見つからないか、終始ソワソワしている。
そんな中、先輩の召使いが、怯えた声で噂話をしていた。
「あの暗殺者は恐ろしい。ギデオンのギフトを、まるで『なかったこと』にしたらしい。そしてあのお優しい伯爵様を…」
(伯爵のギフトは、死んでも人々の心を掌握し続けるほど強力なのに……)
(ギフトとはそれほど強固なものなのに、たった一瞬で無効化した。)
(それが、アベルの体で動く「怪物」の真の恐ろしさ……)
私は、アベルが抱える孤独と、システムの真の恐ろしさを、誰にも共有できず、一人、凍りついていた。
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その後も、十六夜は容赦なく巡ってきた。
俺は、もう抵抗することをやめた。
新月に夢を見ても、ただため息をつくだけだ。
魂が抜け落ちたような、冷たいため息を。
俺は、もう自分の意志を持たない。
ただの道具だ。
(次は何を殺す?)
虚ろな目で、次の執行を待つ。
無気力な青年、アベルは、この瞬間、自我という名の最後の鎖を断ち切られ、完全に完成した。
〜 第一章 終 〜
だが、その無気力な平穏は、すぐに破られる。
次に神の執行対象として示されたのは、
―――リナが仕える侯爵の屋敷と密接に関わる、「汚職まみれの衛兵隊長」だった。
第二章 『知略、運命への反逆』
第一章完結となります。
アベルの絶望、リナの恐怖は続く...
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