4月 最低最悪
日課の朝の散歩から帰ると、簡単な朝食を作る。
今日はトーストとスクランブルエッグ、それにフルーツを入れたヨーグルト。
手早く自分の分の支度をすませると、ソラのお皿にも餌を入れた。
そして、ふたりで一緒にいただきますをする。
私はテレビのニュースを見ながらのんびり食事。
ソラは一心不乱に餌をかっ込んでいた。
「こら。そんなに急いで食べたらダメだよ」
どうせ言うことを聞かないのはわかっていたけど、一応注意してみた。
「みゃあ」
わかっているのか、いないのか。
既に完食したお皿を舐めながら、まるで返事のように一声鳴いた。
ソラはオスの黒猫。
元々動物を飼うつもりはなかったけど、なぜかうちの軒下に捨てられていて、やむを得ず飼い始めた。
引き取り手が見つからなかったから仕方ない。
ひとり暮らしのはずが突然ふたり暮らしになって、まだ1ヶ月。
動物を飼うのが初めてだった私は、最初は戸惑いだらけだったけど、猫のいる生活にも少し慣れてきたところだった。
自由気ままなソラの性格は私に合っていたようで全く負担ではなかったから、きっとこれからいい家族になっていけると思う。
「ごちそうさまでした」
私も食事が終わると食器を洗って、散歩の間に洗っておいた洗濯物を陽のよく当たる出窓に干した。
そしてダイニングチェアにかけておいたエプロンを身に付けると、髪を簡単にまとめて部屋を出た。
私はこれから仕事。
留守番を任されたソラは、お腹一杯になったからか満足そうにソファで毛繕いしている。
私はそんなソラにいってきますを言って、仕事場へ向かった。
仕事場は、うちの1階。
細くまっすぐ伸びた階段をとんとんと降りていく。
階段を降りたところで、壁についたスイッチを指で弾いた。
天井から下げられたペンダントライトがぱっと灯って、目の前が明るくなった。
電球に照らされて目に映るのは、開店前の喫茶店だ。
「さて」
私は袖を大きく腕捲りして、今日もいそいそと開店準備に取りかかった。
まずは掃除から。
固く絞った布巾で丁寧に拭いていく。
お店が綺麗になっていくのは楽しいから、全然苦じゃなかった。
手際よく掃除を終わらせて埃ひとつ無い店内を見渡せば、掃除はあっという間に終了。
今度はメニューの準備を始めた。
まずはグラスやカップを一通り磨く。
次にマフィンを焼きながらジャム用の果物を切った。
昨日運良く苺が安く買えたから苺ジャムにする予定だけど、生でもすごく美味しそうだったから、こっそりつまみ食い。
でも、
「うっ、すっぱ……」
失敗した。
煮るときには砂糖をたくさん入れようと心に誓った。
専門学校を卒業して、5年。
遊びもファッションも我慢して貯めたお金で、私は家を買った。
赤茶色い洋瓦の切妻屋根と、白いタイルの外壁の小さな中古の家を。
ずっとずっと夢だった、私だけの家。
それがやっと手に入った。
契約書にサインした瞬間を思い出すと未だににやけてしまうくらい、本当に嬉しかった。
でも、いくら頑張って貯金したって20代の私が貯められるお金には限界がある。
家と少しの家財を買ったら、貯金は完全に底をついた。
だから、家の痛んだところの補修や必要な造作は自分でした。
本屋さんでリフォームの雑誌を立ち読みして、見よう見まねでチャレンジ。
慣れない工具で怪我をしたり、ペンキを溢したり、失敗しながら頑張った。
別の地域から引っ越してきた私にはここに知り合いもほとんどいない。
だからひとりでひたすら頑張っていた。
そうしたら、いつの間にかご近所さんが声を掛けてくれるようになった。
「精が出るね」
「頑張って」
「はい、差し入れ」
海辺にあるこの街のひとは、みんなこの海みたいにおおらかで優しいみたい。
私は俄然やる気がみなぎって、朝から夜まで家の前の道路の端にはた迷惑な建材を広げて作業をしていた。
でも、そのやる気は見事に空回りした。
もともと非力な上体力も少ない私は、要領が極端に悪かった。
するとそれを見かねて、その内にご近所さんたちが手伝ってくれるようになった。
不思議なことに助けてもらうとひとりだった時より10倍くらい早く進んで、いつしか予定よりも早く工事は終わっていた。
結果的に一番の役立たずは、私。
面目ない。
「うわぁ」
完成した家に最初足を踏み入れた時の感動は、きっと一生忘れない。
1階はオーク材を使って食器棚とカウンターテーブルを造り、壁には珪藻土を塗った。
棚は十分食器が置けるしっかりしたものだし、カウンターも向かいのサーフショップのお兄さんが塗装してくれたから艶々な仕上がりになった。
薄いベージュ色の土壁はコテの自然に流れる模様が柔らかく感じた。
ただ、私が塗った部分の壁だけははっきりとクオリティの違いがわかるのが残念だけど、でもいい感じだよね。
イメージ通りの落ち着いたカラーにまとまっていてすごく素敵だった。
3軒隣でアンティークショップをしている知佳さんという女性の店長さんは、完成のお祝いにってステンドグラスのペンダントライトをくれた。
オレンジと赤がベースの多角形の形がとってもモダンなその照明。
私は一目で気に入って、すぐにいそいそと設置した。
「いいじゃない」
「ありがとうございます……!本当に、ありがとうございます!」
照明器具まで手が回らなかったから、リサイクルショップで適当なものを探そうと思っていたのに。
これは嬉しすぎた。
天井から吊り下げられた明かりを灯したそれを見て涙ぐむ私に、知佳さんは豪快に笑った。
弾けそうな胸を揺らして、長いブロンドの髪をかき上げながら、フェロモン駄々漏れの様子でげらげらと。
……素敵おねえさん過ぎます。知佳さん。
私は知佳さんが大好きになった。
1階の出来だけで大満足の私だったけど、もちろん2階だってあれこれやった。
もともと2階建ての住宅だったのに1階をまるごと店舗にしたから、2階にキッチンがなかったし、あとはただでさえ広くない2階に居住空間を詰め込んだから、物凄く狭く感じた。
毎日悩んで考えて、ああでもないこうでもないと更に頭を捻った。
時間も費用もない中で、どうやって住めるようにしようかと。
でもやっぱりどう考えてもある程度の工事は必要で、給排水管を2階に引いたり、天井を壊して勾配天井に造り変えることで狭さをカモフラージュしてみたりなんてことを、結局した。
やった。
やりきった。
私でなく、ご近所さんが。
……。
申し訳ない。
そんなこんなで、私は材料を買ったくらいでほとんどの作業はみんなが助けてくれた。
しかも、はす向かいの家具屋さんには展示品のカーテンやダイニングテーブルを格安で譲ってもらい、更にそのお隣の洋食屋さんからは使わなくなった食器を無償で頂いた。
なんて良いところなんだろう。
ここは。
商店街というにはお店も人通りも少ないけど、ここの一員になれることに私は格段の喜びを感じた。
こうして見事にまとまった居住空間は、やっぱり面積は狭いけど開放感があって、かなり気に入ってる。
大きな南向きの窓を開ければ海も見えるし、陽の光もよく入って居心地は最高だった。
たくさん助けてもらって2階の工事もハイスピードで終わり、私はついにお店をオープンした。
1階に、紅茶専門店を。
子どもの頃、いつもおばあちゃんがいれてくれた紅茶を飲んでいた私。
気がついたときにはもう、紅茶が大好きだった。
自分で飲むのはもちろんのこと、ひとに自分の入れたお茶を飲んでもらうことの方がもっと好きになったのは、いつだったかな。
おばあちゃんみたいにはまだ入れられないけど、私も振る舞いたいって思った。
おばあちゃん家みたいな、あったかくて落ち着く自分のお店で。
それがいつしか夢になって、こうして遂に自分のお店を手に入れた。
思ってた通りの物件に出逢えたのは、今思えば奇跡としか言いようがない。
思い出しただけで、ちょっと鳥肌。
そして、奇跡の出逢いは更に続いた。
ここのご近所さんたちに出逢えたこと。
改装を手伝ってくれて、さらに開店した後はお客さんとしてもよく来てくれるようになったこと。
それと、全くの予定外ではあったけど、ソラという家族が増えたこと。
ひとりじゃない生活ってこんなに良いものだったんだって初めて知った。
私のまわりの全部が、嘘みたいにうまくいった。
こんなとき、何に感謝したらいいのかな。
どうしたらいいのかな。
私は考えた。
考えて、考えて、そして、決めた。
まずはこんなに助けてもらった分、私もご近所のみんなにお返しをしたいって。
お金は使いきってなかったし、返せるようなものも私は持ってない。
色々考えてみたけど他にできることも思い付かなかったから、これにした。
今日はマフィン。
明日はスコーンとこの苺ジャム。
工事は駄目だったけど、お菓子なら自信があるから、私はこれらをサービスで毎日つけることにした。
これはオープンから2ヶ月近く経った今も継続中で、やめる予定はない。
だってお客さんの、
「おいしい!」
これを聞いたら、やめられる訳がないから。
「ね、ね。このマフィン1個持って帰っていい?」
「もちろんです!お詰めしますね」
セクシーにお願いする知佳さんににっこり笑いかけて、私は紙袋にマフィンを何個か入れた。
「ありがと」
「いいえ」
知佳さんはお礼を言ってくれたけど、それはこっちの方だって思う。
本当に感謝してもしきれないんだ。
だから明日用に作ったできたての苺ジャムもおまけにつけて、私は紙袋を手渡した。
知佳さんはそれに大袈裟に喜んでくれてから、お会計を済ませて自分のお店に帰っていった。
「どうせ客なんて滅多にこないし」
なんて言ってよく来てくれるんだけど、戸締まりもしないでふらりとやって来るからちょっと心配だったりする。
まあ、不在の知佳さんの代わりに家具屋さんとか洋食屋さんのご主人が前にアンティークショップで接客してたのを見たことがあるから、大丈夫かな。
私はその光景を思い出して、ちょっと笑った。
おかげで知佳さんは、今では大切な常連さん。
知佳さんの後ろ姿が見えなくなると、かすかなラジオの音が耳に届く。
お客さんが途切れたから、知佳さんの飲んだミルクティのグラスを片付けながらそれを聞いていた。
明日の天気は晴れだって。
明日の朝の散歩、ちょっと遠くまで行ってみようかな。
あ、それと布団も干そう。
そんなことを考えていると、カランカラン。
ドアに付けたベルが鳴って、来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
タオルで手を拭きながら顔を向ける。
ゆっくり開いた木製のドアから、すっとスーツの男のひとが入ってきた。
見たことのない顔。
初めてのお客さんみたいだった。
長身の均整のとれた身体にライトグレーのスーツがよく似合ってる。
「お好きなお席へどうぞ」
私が声を掛けると、そのお客さんは狭い店内をちらっと見渡して、カウンターの内側に立つ私の真正面の席に座った。
そして、メニューも見ずに一言。
「コーヒー」
あ。たまにあるんだよね、この注文。
申し訳ないけど、うちにそのメニューはない。
「すみません、うち紅茶だけなんです」
だから私はそう応えた。
「は?喫茶店だろ?」
丁寧に断ったつもりだったんだけど、あからさまに不機嫌さを露にされてしまった。
だからもう一度、誠心誠意頭を下げる。
「申し訳ありません、紅茶専門店なんです」
と。
「でも喫茶店だろ」
……。
どういう訳か、引かないこのスーツのお客さん。
確かに部類でいったら喫茶店かもしれないけど、扱ってないって言ってるのに、ないものを一体どうしろというのだろうか。
「申し訳ありません」
もう一度、さっきよりも深く頭を下げた。
きっとこれでお引き取り頂けると思って。
なのに。
私は唖然としてそのお客さんを見つめていた。
……。
……帰る気、ない?
なぜか席に座ったまま立ち上がる気配はない。
それどころか長い足を組んで、仕舞いには頬杖をついた。
……え?
私は戸惑いだらけの視線を送る。
これは一体、どういう状況なの?
「……」
「コーヒー」
幻聴かと思った。
「……」
「コーヒー」
……幻聴じゃなかった。
スルーしたのに、あろうことか繰り返された。
え?なんで?
ありませんって、私言ったよね。
「あ、の……」
もう一度、私はないってことを説明しようとおそるおそる口を開いた。
でも、次の言葉を発する前にそれは喉に詰まってしまった。
だって、そのお客さんがにこっと笑ったから。
さっきまでの不機嫌さはなんだったのっていうくらいの、いい笑顔で。
そして呆然とする私よりも先に、もう一度繰り返された言葉は、
「コーヒー」
だった。
……。
こいつ……。
おっと、いけないいけない。
あまりに話の通じない様子に、プツリといきそうになってしまった。
しっかりしろ、私。
どんなひとでもお客さんはお客さんで、私はこのお店の主人なんだった。
なんとか顔をつくって私も営業スマイルを繰り出した。
内心はまるで嵐のようだけど。
お互いににこにこと笑いあう。
端から見たら和やかに見えるかもしれないけど、実際は氷点下の空気の中で。
そのまま数分間の沈黙が過ぎた。
どうやらこのお客さんは、意地でもうちでコーヒーを飲んでいくつもりみたい。
帰ってくれそうな素振りも微塵も見せないし、さてどうしたものか。
私は微笑み続けながら考えていた。
すると、
「あ」
不意に閃いて、思わず声に出てしまった。
お客さんは訝しそうな視線を私に送る。
でもそれはさらっと無視して、
「少々、お待ちください」
私はカウンターから出てお店から直通している階段を上った。
この間たまたま貰ったあれが、確か自宅キッチンにあったはず。
私は苦手で飲めないから、知佳さんが来たらあげようと思ってたんだけど、すっかり忘れてた。
私はそれを取りに2階に上がり、冷蔵庫から取り出すとすぐに階段を降りて戻った。
そして、
「どうぞ」
とん、とカウンターに置く。
「……」
今度黙り込んだのはお客さんの方だった。
「どうぞ」
もう一回言ってみた。
ちょっとお返し。
「……」
「……」
「なんだ、これ」
「コーヒーです」
「いや、そうだけど」
「どうぞ、召し上がれ」
そう言って、更に指先でつつっと押し出した。
お客さんの目の前に小さくそびえ立つ、円筒形のよく冷えたそれ。
青いパッケージが印象的で、CMでもたまに見かけるそれ。
有名な飲料メーカーから発売されている、缶コーヒーを私は差し出した。
「……」
「……」
さあお望みのコーヒーです。
これで文句は、ないよね?
「……」
「……」
「ミルクと砂糖入ってんだけど」
……。
まだ言うか。
そんなこと言われても困るんだけど。だって貰い物だし。
今うちにあるコーヒーはそれだけだし。
第一、そもそもなんで紅茶専門店でコーヒーを注文するかな。
何度も断ってるのに、どうして引き下がらないの。
一度は治まっていた怒りがまた込み上げてくる。
そこへ、火に油を注ぐ一言が聞こえた。
「俺、ブラック派なんだけど」
どうしよう。
こいつ、殴ってもいいだろうか。
いい加減我慢も限界になって、遂に私はぎろりと睨んでしまった。
今まで頑張って笑顔を絶やさずにいたけど、もう駄目だ。
私の怒りは限界点に到達した。
すると、
「ふっ」
突然、お客さんはくっくっと笑いだした。
……ちょっと。
何がおかしいの。
無茶な注文聞いてやったでしょ。
コーヒー出してやったでしょ。
「まさか、缶とか!」
お客さんはお腹を抱えてヒーヒー笑いながらそう言うと、かしゅっと音をたててプルタブを開けた。
……飲むのか。
あれだけ色々言っといて。
そして一口飲んだかと思えば、
「甘っ」
また文句。
でも、その様子はどこか楽しげで、最初の頃の不機嫌な感じはなくなっていた。
だからかな。
私の方もつられるように、次第に怒りは薄れていって消えた。
……。
なんか、変なの。
いい歳したおとなが子どもみたいなことをしてる。
それも初対面のお客さんとふたりして。
こんなの、普段の私では考えられないやり取りだった。
「あんた最高」
缶コーヒーをすっと伸びた長い指で揺らしながら、お客さんが言った。
「え?」
「こんなツボったの久々だよ」
「……それはどうも」
誉められた。
嬉しくないけど。
っていうか迷惑だけど。
きっと歳も近そうだからかな。
気安げに話し掛けられて、ついさらっと素が出た。
「君は、」
あ、やば。
慌てて言葉を止めたけど、時すでに遅し。
お客さんに対して気安く呼び掛けてしまった。
でも、しまったと思って様子を伺えば特に気にした様子もなくて。
私は内心ほっとしながら、そのまま続けた。
だってもう今更だ。
それに、このひとだし。
「君はあれだね」
「ん?なに?」
「最低最悪」
「は?」
また不機嫌顔がちょっと戻ったけど、もう怖くもなんともない。
だって、すでにお互いに失礼を極めたあとだし。
それに、本当に最低で最悪だと思ったから。
お客さんとして。
まさにぴったりのいい表現が見つかって、ちょっとすっきりした。
「ちょうどいい四字熟語がありましたね」
私は再び営業スマイルを浮かべる。
すると。
……なんで?
鼻で笑われた。
「んな四字熟語ねぇよ」
「え?」
あるでしょ。
あるよね。
だってよく使うもん。
うん。
「あるとおも、」
「アホか。ねぇよ」
一蹴。
自分のこめかみがぴくっと動いたのがわかった。
最後に言い負かして満足なのか、君はまたくっくっと喉を鳴らして笑う。
もう缶コーヒーもとっくに空になっているのに、どうしてまだいるんだろう。
さっさと帰れ。
そんな気持ちを込めて、私はまた営業スマイルを張り付けた。
額に青筋を浮かべながら。
そして、
「160円になります」
言ってやった。
今度は君のこめかみが震えたけど、それは見なかったことにしよう。
奇跡の出逢いが続いたツケが、まさかここで……?
君との出逢いは最低最悪だった。