2月 約束の場所
今日で、あの飛行機事故からちょうど一週間。
あれから初めての定休日がやってきた。
楽しいこと、幸せなこと、待ち遠しいこと。
どきどきわくわくしながら、そんなことを考えて過ごしていたあの日は、もう遠い昔のことのように感じる。
もう、二月だよ。
君の行方がわからなくなって、もう一週間。
君の帰りを待ち続けて、まだ一週間。
この一週間、なんとかお店を営業したけれど、最後の方は酷いものだった。
優しくされることにも、気を使われることにも、苛立ちを抑えられなくて。
大好きな人たちに、こんなに心を寄せてもらっているのに、それは募るばかりで。
どんどん自分を嫌いになっていった。
昼間はほとんど、知佳さんか真由美ちゃんが傍にいてくれたけれど、それがいつからか苦痛になっていった。
一見いつも通りの態度でも、常に気を使われているのがわかってしまって辛かった。
最初はありがたいなって思っていたけど、いつしか重石のように感じてしまって。
昨日、ついに口に出してしまった。
「もう、放っておいて」
と。
それでもふたりは、
「いやよ」
「いやです」
と即答するから、さらにイライラは増した。
どうしてひとりにしてくれないの。
放っておいてくれないの、って。
知佳さんだって、最初はひとりにしてくれたじゃない。
それが、今はどうしてこんなに付きまとうの。
声にはさすがに出さなかったけど、ありありと私の視線から読み取った様で、知佳さんは少し傷ついた顔をした。
でもすぐに顔を上げて、凛とした表情で見つめられる。
思わずドキッとした。
そして、
「放っておいてなんか、絶対あげない」
そう言って、結局閉店までふたりしてお店に居続けていた。
店じまいをして、ようやく二階でひとりになると、自己嫌悪に陥った。
ふたりに対する私の酷い態度が、脳裏に何度も蘇る。
二次試験直前の真由美ちゃんを巻き込んでしまっているのに。
いつも笑顔の素敵だった知佳さんに、らしくない顔ばかりさせているのに。
私は私を、軽蔑した。
閉店後も定休日の今日も、二階のソファに膝を抱えて座り、ぼんやりと過ごすことが増えた。
買い出しリストを作って、買い出しにいかなくちゃ。
そうは思っても、全くやる気がしない。
腹が立つことはたくさんあるのに、それ以外のことでエネルギーを使う気が一切起きなかった。
山本さんや知佳さんのように泣くことができていたら、もうちょっと違ったのかな。
私は、君が事故に巻き込まれたと知ってから、泣いていない。
だって何にもわからないのに涙なんて出ない。
そもそも悲しむようなことなんて、ないし。
悲しいってことは、悲しいことがあったってことでしょ?
悲しいことなんて何にも起きてない。
君がまだ帰ってこない。
それだけだもん。
それだけ。
言いようのない不安が押し寄せるだけ。
突然、駆け出したくなるような変な衝動が込み上げるだけ。
寂しさで、頭がおかしくなりそうなだけ。
それだけ。
……。
わかってる。
現実はちゃんと、頭で理解してる。
でも心は、そんな簡単に受け入れられるものじゃなかった。
矛盾と混乱が、私のあらゆるバランスを崩していく。
どうしたらいいのか、自分でももうわからなかった。
もしも、人の心が蝋燭のようなものだとしたら。
きっと、カズさんの蝋燭は、太くて、大きくて、力強い火を湛えている。
知佳さんの蝋燭は、アロマキャンドルのように良い香りがして、心を癒してくれる。
真由美ちゃんの蝋燭は、小さいながらもピンと真っ直ぐ立っていて、しっかりと足元を照らしている。
畠さんの蝋燭は、縁にたくさんの蝋を垂らしながらも、決してその火は弱まることなく、周りを暖めている。
ゆりさんの蝋燭は、真っ白で、眩しくて、みんながその灯火に憧れてる。
山本さんの蝋燭は、頑丈でしっかりとした蝋燭に、小さくたくさんの蝋燭がくっついて支え合っているのかもしれない。
私の蝋燭は、どんなかたちだろう。
自分ではよくわからない。
わかるのは、私の蝋燭の火は消えてしまったということ。
真っ暗で、寒くて、なんの光もない闇の中にだだ一本、ぽつんと取り残されている。
きっともう、火は灯らない。
だって、誰にもその姿は見えないのだから。
ぼんやりと、そんなことを考えながら、ニュース番組をみていた。
事故現場の海が映る度に、気持ちが海から遠ざかっていく。
あれから、海には行ってない。
お散歩もしていなかった。
今日は先週と同じような天気で、雨が降りそうな曇り空だ。
あの日みたいな暗い空が、妙に心を騒がせた。
私は、行きたくないと思うのに、どうしてか足が向いてしまって。
久しぶりに海へ行った。
今にも崩れそうな天気は、昼とは思えないほどに暗かった。
海は、晴天の日の美しさなんて微塵も感じさせない様相で、黒くぬめぬめと蠢いて見える。
こんな不気味なものの先に、君がいるなんて信じられない。
あんなに大好きだったここを、こんなに嫌いになったことが、信じられない。
海を見ているのが辛くなって、目を閉じた。
ねぇ、この先のどこかにいるの?
私もここからそこへ行ける?
傍へ、行ける?
問いかけても、返事はない。
冷たい北風が吹き抜けて、嘲笑うように髪を乱していった。
ああ。
寒い。
暗い。
胸が引き裂かれるようってよくきくけど、想像もしてなかった。
それがこんなに痛いなんて。
痛くて、動けない。
動きたくない。
このまま、眠ってしまいたい。
二度と目覚めることなく、全てを忘れて。
おばあちゃんと暮らした、あの頃の夢を見て。
眠りたい。
全部なかったことにしたい。
この家と出会わなければ良かった。
そうしたら、ここに引っ越してこなかった。
そうしたら、みんなと出逢わなかった。
そうしたら、君とも……。
深い、深い、眠りに落ちてしまいたい。
もう、何も考えたくない。
もう、生きたくない。
「待って!」
私ははっと我に返った。
足が凍えるように冷たい。
「え?」
ゆっくりと自分の姿を確認すると、真冬の海に腰までつかっていた。
私はゆっくりと浜へ上がる。
濡れた身体は風にあたるとさらに冷たさを増して、突き刺さすような痛みを感じた。
「なにやってるの!あなた!」
駆け寄ってきた女性に咎められて、私の肩が跳ね上がった。
すごい剣幕に圧されて、ぼそぼそと答える。
「わ、わからない……」
「え?」
「気が付いたら、あそこにいて……」
「……」
そこまでなんとか伝えると、ぶるっと身体が震えた。
寒い。
今思えば、コートはおろか防寒具のひとつも身に付けていなかった。
家を出るときは、どうして寒くなかったんだろう。
「……こっちへ来て」
女性にやんわりと手首を捕まれて、促すように引かれた。
私は自然とそれに従って歩く。
砂浜を出て、海岸線の道路を潜り抜ける細い通路を進む。
私のお店とは反対方向に少し行ったところの、コインパーキングに入っていった。
そして一台の車に近づき小さなショルダーバッグからキーを取り出すと、リモコンでロックを解除して助手席のドアを開ける。
自然な動作で乗るように促した。
「あ、車汚れますから」
「いいの。乗って」
「でも、」
「いいから」
「……はい」
海水でべたべたの私が当然遠慮するも、全く取り合わない女性。
私はその意思の強さと、限界が近い寒さに負けてお言葉に甘えることにした。
私が白い外国産のセダンの助手席に乗り込むと、その女性も運転席に乗り込む。
すぐにエンジンをかけて、強めに暖房をつけてくれた。
車内に温かな風が流れ込み、少しだけ身体の強張りが解けてくると、女性が私に声を掛けた。
「私のこと、覚えてる?」
「はい」
覚えてる。
一回だけ会ったことがある。
「お店にいらっしゃいましたよね」
「ええ。客としてじゃなかったけどね」
私が即答すると、女性は苦笑した。
淡いベージュのパンツスーツが、よく似合ってた。
前に会ったのは、確か六月。
梅雨の頃だった。
君に会いに、うちのお店に来た。
そう。
君の元カノ。
「私はあいつのお父様の秘書なのよ」
「え?」
「社長秘書」
突然の言葉に、はあ、と返すのが精一杯だった。
「あんなところ見せちゃったから分かってると思うけど、少しだけ付き合ってたのよね。まあ半分以上、社長の思惑もあってだけど」
「そう、なんですか」
そう、なんだ。
「私とは何にもないから安心してね。元々弟みたいな感じだから」
私だいぶ年上なのよ、と笑った。
そして私が何か言うよりも、何かを思うよりも早く、自らたくさんのことを聞かせてくれた。
自分のことはもちろん、私の知らない、君のことも。
「あいつ社長に、帰ってきたらあなたを紹介したいって言ってた」
「……」
そんなこと知らなかった。
驚いてなにも言えずにいたけれど、気にせずに話は続く。
「だからすぐにプロジェクトを成功させて帰ってくるって」
いつの間にか走り出していた車は、市街地の方へ滑るように海岸線を走っていく。
私は行き先も気にならないほど、話に聞き入っていた。
「あなたと逢ってから彼、驚くほど素直で柔軟になったの」
「え?」
「なんていうか、たった数ヶ月の間にすごくおとなになってっていうか。成長したって言うか」
ちらっと横目で私を見て、微笑する。
やっぱりとっても美人だな、と改めて思った。
「社長も重役たちも、最近ではみんな認め始めてた。下の社員たちにもすごく慕われてたし」
そうなんだ。
どんな仕事かは知ってるけど、職場や仕事の細かな中身の話はほとんどしなかったから知らなかった。
まあこれは、客観的に見ていたこの人だから言えることではあるんだろうけど。
「知ってた?彼、すごいヘビースモーカーだったのよ」
「え?」
「それがぴたっと、吸わなくなった」
たばこを吸っていたのは、知ってる。
でも、そんなにたくさん吸っていたのも、やめたというのも、知らなかった。
「あなたのおかげね」
赤信号に変わりスムーズに停車すると、今度はしっかりとこちらを向いて、にっこり微笑んだ。
ああ、この人は見た目だけじゃなくて、中身もとても綺麗な人だなと思った。
井口真歩、と彼女は名乗った。
君に会えなくなって初めて、新しい君をたくさん知った。
真新しい大きなマンションへ到着すると、案内されるまま中に入る。
オートロックの広いエントランスを抜けて、エレベーターに乗った。
モニターに表示された数字が最上階を示し停止すると、エレベーターを降りて広い廊下を歩いた。
それぞれの住戸はそこまで広くななさそうなものの、各戸にはアルコーブがあってゆったりとしている。
しかも細いアルミの門扉までついていて、マンションの玄関まわりはプライベートな空間になっていた。
カードキーを翳して玄関のロックを解除すると家の中に通され、すぐさまバスルームに押し入れられた。
「ゆっくり温まってきて」
「あ、ありがとうございます」
なんだか、いつかの真由美ちゃんと私みたいだ。
私はありがたく、冷えた身体を温めた。
バスルームからでると、ドアのすぐ目の前に置かれた籠に綺麗に折り畳まれたタオルとスウェットがおいてあった。
私がお借りしてもいいものか悩んでいると、すぐに奥の部屋の方から声がかけられた。
「それ、使って。それと着てたものは全部洗濯機にいれてくれる?」
「す、すみません」
私は恐縮しつつ、身体を拭いてスウェットを着こんだ。
スウェットを持ち上げたら、その下からビニール袋に入ったままの新品のキャミソールとショーツが出てきたときは、ありがたすぎて拝みたくなった。
身支度を終えてバスルームをでると、すぐに洗濯機を回してくれた。
そのまま乾燥までしてくれるそうなので、のんびり待たせてもらうことにした。
「何から何まで、すみません」
「いいよ」
ダイニングテーブルの向かいに座る井口さんに、深々と頭を下げる。
甘えっぱなしでいたたまれなさを感じているのに気づいてか、井口さんは何か良いことを思い付いたというような顔をして、私を呼んだ。
「ね、お茶淹れてくれる?」
「え?」
思いもかけないお願いに、声が裏返ってしまった。
だって、今も井口さんが入れてくれたカフェオレを、ふたりで飲んでいたところだったから。
「お茶、ですか?」
「うん。友達の結婚式の引き出物で紅茶の葉っぱ貰ったんだけど、淹れ方分からないのよ」
井口さんは本当に困ったという顔でそう言うと、それに、と続けた。
「あの時飲みそびれちゃったから」
そうだった。
飲んで貰えなかったお茶。
飲んでみたいな、と言われたら。
私に断る理由はなかった。
「……はい」
私は井口さんの家でお茶をいれる支度を始めた。
白い大理石のトップのアイランドキッチンに立つと、少し感動した。
大きなシンクは水を流してもあまり音がしないし、蛇口はセンサーになっていて、手を翳せば水が出てくる。
しかも美しい曲線を描く蛇口はふたつあって、そのうちひとつは浄水が出てくるんだって。
こんなハイテクなキッチンは初めて。
すごい。
私は沸き上がる興奮を隠しつつ、キッチンの使い方を教わった。
紅茶用のティーポットもカップもないから、急須とコーヒーカップで入れることにした。
井口さんの家のコンロは使い慣れたガスコンロではなくIHで、私はお湯の沸かし方も教えてもらいながら丁寧に手順を進めた。
引き出物の紅茶の缶のラベルを確認したけど、茶葉の種類はよくわからなかった。
きっと、新郎新婦が選んだブレンドティーなんじゃないかと思う。
蒸らし時間は勘で決めた。
たぶん、この強い香りはウバの茶葉。
そして、この春を感じるような香りはヌワラエリアじゃないかな。
そこに、ローズ系や柑橘系のいくつかのフレーバーが加えられているようだった。
ウバを使うときは、短めの時間にすることが多いけど。
急須からの香りを確認しながら、今回はやや長めにいれてみた。
井口さんはふだん紅茶を飲まないそうだから、特に好みもない。
私は自分の経験を頼りに、気に入ってもらえるような一杯をいれるべく神経を集中した。
よし。
私はマグカップにお茶を注ぐと、そっと井口さんの前に置いた。
なんだか、とても緊張する。
初めておばあちゃんに紅茶をいれた時。
もしくは、お店をもって初めてのお客さんにお茶をお出しした時を、思い出した。
「どうぞ」
井口さんはありがとうと微笑んでカップを手に取ると、さっそく口をつけた。
どうかな。
なんとなく井口さんは、あっさりとしたものより、しっかりとすべての香りを引き出したものを好むような気がした。
だから、渋味の出る直前まで、じっくり待ってみたけれど。
私は無言でお茶を飲む姿を見つめた。
すると、
「おいしい!」
井口さんの表情が、ぱっと明るくなった。
両手で包むように持ったカップをまじまじと見つめ、顔を綻ばせる。
そして、私の方へ身を乗り出すと、
「おいしいわね」
もう一度、そう言ってくれた。
よかった。
「お口に合って、よかったです」
本当に、よかった。
変な緊張感から解放されて、自然と安堵の溜め息が出てしまった。
幸いにもそれに気づくことなく、井口さんは再び紅茶を味わっていた。
もう一口含んだところでまた微笑むと、囁くように話し出す。
「私、紅茶ってあんまり飲んだことなかったんだけど」
目を閉じて、マグカップに鼻を寄せた。
そして香りすらも味わうように、深く吸い込んむ。
その仕草だけで、このお茶を気に入って貰えたんだということがよくわかった。
「好きかもしれない」
ぽつり、と。
まるでひとり言のように、そう言ってくれた。
じわり。
胸の中に広がるものがあった。
嬉しい。
すごく、嬉しい。
軽い頭痛のような感覚がして、目の奥がうずいた。
視界が段々とぼやけて、よく見えなくなっていく。
「す、すみません」
私は慌てて目元を拭おうとした。
でも、私の手は、またやんわりと掴まれた。
驚いて視線を正面に向けると、切なげな表情に見つめられた。
口許は薄く微笑んでいるけれど、瞳が、深い悲しみの色を映していた。
井口さんの目にも涙が溜まってることに気がついた。
それが静かに一筋流れた拍子に、私の目からも涙が零れた。
「……うっ」
もう、我慢できなかった。
私は、声をあげて泣いた。
井口さんも、静かに一緒に泣いていた。
乾燥機が終了のアラームを鳴らしても、せっかくいれた紅茶が冷めきってしまっても。
私が落ち着くまで、ずっと、一緒に泣いてくれた。
言葉もなく。
慰め合うこともなく。
ただただ、涙を流す。
嗚咽をこらえることも、垂れる鼻水を拭うことも忘れて。
まるで、言葉を話せない動物のように。
内に溜め込んでいたものを、全て流し出すように。
長い時間、ただ泣き続けていた。
どれくらいの時間そうしていたのか。
ようやく涙が止まりかけて窓の外に目をやると、もう薄暗くなっていた。
ずっと、今にも降り出しそうだった雨は、結局降らなかったみたい。
雲の切れ間に、少しだけ夕焼けの色が見えた。
もう大丈夫と判断してか、井口さんがそっと手を離した。
ずっと握っていてくれたんだ。
温もりが、胸にじわりと広がる。
君とは長い付き合いの、同僚。
そして元、恋人。
私たちは、同じ悲しみを共有していた。
誰とも分かち合えると思えなかった、この悲しみを。
井口さんと会えて、良かった。
私を見つけてくれたのが、貴女で、良かった。
私は目を閉じて、この出会いに感謝した。
お財布も持たず、コートすら着ていなかった私を、井口さんは家の前まで車で送ってくれた。
何から何まで本当に申し訳なくて何度も謝ったけど、それに対して何でもないことのように笑うから。
私は罪悪感や劣等感を抱くこともなく、甘えることができた。
帰りの車の中で、実は私に会いに来てくれたのだと教えてもらった。
家にいなかったから、もしかして、と思って海まで探しに来てくれたらしい。
間に合って良かったと笑う彼女に、私はまた浮かぶ涙を止めることができなかった。
お店の前で井口さんを見送って、家に入る。
なんだか、旅行にでも出かけて久しぶりに帰ってきた時のような安心感があった。
「ただいま」
声をかけて二階に上がると、ソラがたたたっと駆け寄ってきた。
「にゃあ」
すりすりと私の足に体を擦り付ける。
私はソラをそっと抱き上げた。
ソラは、私の首筋に自分の首を伸ばして押し付ける。
ぷるっと小さく振った耳が、くすぐったかった。
「……ソラ」
私はソラを、ぎゅっと抱き締める。
「ごめん」
小さく、謝った。
「ソラを、ひとりにしちゃうとこだった」
ごめん。
残される苦しみも。
辛さも。
私が一番知っているはずなのに。
「もう、大丈夫だから」
そう言うと、まるで、わかったよと返事をするように一声鳴いた。
今夜からは、少しだけ、本当に少しだけでも、まともに眠ることができる気がした。
翌週も、私はお店の営業を続けた。
君の新しい情報は、相変わらず何も届かなかった。
なんの進展もなければ、希望のかけらもない。
ごくたまに、漂着物や何かしらの発見があってニュースになることはあっても、他の真新しい出来事の方がより詳しく取り上げられるようになっていた。
それでも、昨日まで常に付きまとっていた苛立ちは、綺麗に治まった。
それはきっと、井口さんが君のことを話してくれたから。
君に逢えたから、治めることができたんだと思った。
お店に来てくれる人たちは、当然のように君のことは話題に出さない。
それは、私のことを思ってそうしてくれているんだと思う。
でも、それが、君の存在が薄れていってしまうように感じて。
いずれ消えてしまうんじゃないかって、思って。
少しずつ君の存在が消えていくことが、怖かったんだと思う。
私は、君に逢いたかった。
話の中だけでもいいから、君に会いたかったんだ。
知佳さんたちを始め、常連さんはまだ心配してくれてか毎日のように顔を出してくれる。
本当にありがたい。
あんな態度だったにも関わらず、何事もなかったかのようだった。
君の話題はでないけど、もう気にならない。
この間、井口さんが帰り際にまた来てくれるって言っていたし。
"紅茶にはまっちゃったみたい"
と言って。
今度来てくれた時には、また、君の話をしよう。
私の知らない君の話は、まだまだあるみたいだから。
それでも、やっぱり。
少しだけ気持ちは落ち着いたものの、不意に不安に襲われることはあった。
人と話をしていないと、自分の内側にあるブラックホールみたいな感情が増大して、その内飲み込まれてしまいそうで、怖かった。
お客さんと他愛もない話をして、私の入れたお茶を飲んでおいしいって言ってくれることが、今の私の唯一の救いだった。
少しずつ忘れかけていたその感覚。
それも、井口さんが思い出させてくれた。
誰かのためにお茶をいれる時の幸せを。
それを飲んでお茶を好きになって貰えた時の喜びを、思い出したから。
だから今日も、私は誠心誠意心を込めてお茶をお出ししていた。
カランカランカラン!
激しいベルの音ともに、カズさんが駆け込んできた。
今唯一のお客さんの畠さんと共に、びっくりして視線を向けた。
「美奈と理奈、来てない?」
「え?家具屋さんの?来てませんよ」
「……そっか」
飛び込んできて、間髪入れずに訊くカズさんに、反射的に答える。
答えを聞くや否や、すぐに出ていこうとするので、慌てて引き留めた。
「待ってください」
カズさんは、ドアを押し開けたまま立ち止まる。
「美奈ちゃんと理奈ちゃん、どうしたんですか?」
家具屋さんの四歳のふたごの女の子の身になにかが起こっている。
それだけはわかったから、聞かずに返すことなんてできなかった。
カズさんは少し思案した後、ドアを閉めてこっちを向いた。
「いなくなった」
あまりにも予想外の簡潔な返答は、咄嗟に理解することができなかった。
「え?」
「今、パパさんと知佳ちゃん、ゆりさんと山本さんの奥さんとで、探してる」
私も畠さんも、突然のことに言葉がでない。
でも、口が勝手に動いた。
「私も探しに行きます」
「え、でも店が」
洋食屋さんは、旦那さんがひとりで営業している。
家具屋さんには、ママさんが店番兼待機。
カズさんのお店は、バイトがいる。
知佳さんは、お店にいないのなんて日常茶飯事。
でもうちには、私に代われるひとがいなかった。
前に少しだけお留守番をお願いした真由美ちゃんも、今日は学校に行く日だと聞いていていない。
でも、
「そんなの、関係ありません」
─私はエプロンを外して、畠さんに向き直る。
畠さんも真剣な面持ちで頷いた。
「私も病院に戻るよ。患者さんや看護師に訊いてみよう」
畠さんはすぐさま席を立って、お会計をカウンターに置いた。
そして、手早くお店の戸締まりをして、三人で外に出た。
そこで畠さんと別れて、カズさんから詳細を聞いた。
「保育園で公園に遊びに行ったらしいんだ。そしたら、突然ふたりで駆け出して公園を出ていっちゃったらしくて」
「え、どうして」
「わからない。保育園から連絡が来て探しに出たパパさんが、知佳ちゃんとたまたま会って、今ふたりで保育園の近くを探してる」
もちろん保育園の先生たちも。
「で、俺は知佳ちゃんから連絡をもらって、ゆりさんと山本さんとこに聞きに行ったんだけど、やっぱいなくて。ふたりも探すのを手伝うって言ってくれたから、駅の方を頼んだ」
「じゃあ、私たちは?」
「この辺は一通り見たんだけど、海の方はまだだから」
「わかりました」
私たちはすぐに、海へ抜ける脇道へ向かった。
声をかけながらふたりを探す。
どこにいるの、早く出ておいで、と。
それでも、どんなに声を張り上げて呼んでも、返事が返ってくることはなかった。
海岸を探し。
神社も探し。
海岸線の道路もかなり先の方まで行ってみた。
人がいればふたりを見なかったか訊ねたし、コンビニやガソリンスタンドにも立ち寄って、もし見かけたら知らせてくれるように頼んできた。
でも、残念ながら、私たちは僅かの手がかりすらも掴めないめま、時間だけが過ぎていった。
あっという間に夕方になって、段々と暗くなっていく。
学校帰りにうちに来た真由美ちゃんも加わって探したけれど、見つからなかった。
私たちは一度、家具屋さんの前に集まった。
保育園から、警察にも連絡を入れたという電話もあり、ママさんは憔悴していた。
「どこに行ったんだろう」
「先生方の話だと、ふたりで手を繋いで走っていったと言ってたので、誘拐とかの類いではなさそうなんですが……」
みんなが思っている疑問をぽつりと呟いた知佳さんに、パパさんが言った。
パパさんも、疲れきった顔をしている。
「もう、夜になる」
「公園も保育園も、四歳の子どもだけで帰ってくるには距離がありすぎるよね」
「早く見つけてあげないと」
「一体、何があったんだろう?」
どこを探してどこを探していないのか。
ふたりがよく行く場所はどこなのか。
知る限りの情報を整理した。
でも、おとなの私たちがいくら考えても、ふたりの行動の理由や行方なんてわかるはずもなく。
呆気なく辺りは暗くなった。
ママさんは顔を覆うように手で目元を押さえて俯いてしまった。
その背中を、ゆりさんが優しく撫でている。
それを見れば、胸が締め付けられるように苦しくなった。
保育園からも、警察からも、見つかったと言う連絡はない。
お願い。
お願い。
帰ってきて。
ママも、パパも、待ってるよ。
みんな、ふたりを待ってるよ。
願うことしかできないのがもどかしい。
もう嫌だよ。
また、なにもできずに、ただ祈りながら待つだけなんて。
一体、どうしたら。
誰か教えて。
助けて。
私たちは途方にくれて、時間だけが過ぎてゆくもどかしさに歯噛みした。
そこへ、様々な太さの水道管を積んだ軽ワゴン車がすっと寄ってきて停まった。
自然とみんなの視線が集まる。
「あら?」
山本さんの奥さんが、少し驚いた声をあげた。
商売道具の積まれたこの車は、山本さんの旦那さんの車だった。
奥さんが驚いたのも無理はない。
山本さんの家を過ぎて家具屋さんの前まで来たことに、みんな首を傾げた。
「どうしたのかしら」
もしかして車で捜索を手伝ってくれるのかも、と思い至った矢先。
運転席から山本さんの旦那さんが降りてきた。
そして後部座席側に回ると、手早くドアを開けた。
そこにちょんと座る、ふたりの少女。
「美奈!理奈!」
美奈ちゃんと理奈ちゃんが、涙でぐしゃぐしゃになった顔でそこにいた。
名前を呼んで駆け寄るママさんが、両手を広げてふたりを抱き締めた。
「よかった!」
ふたりはママさんに抱き締められて、どうやら安心したらしい。
うわーんと声をあげて泣き出し、私たちは元気そうな様子に安堵した。
その場でパパさんが保育園に、カズさんが畠さんに電話をして、発見を知らせた。
ゆりさんと山本さんは、手を取り合って喜んでいた。
知佳さんと真由美ちゃんは、笑顔で親子の再会を見守っている。
「……どこにいたの?」
ふたりが落ち着いてから、ママさんが問いかけた。
ふたりが言いよどんでいると、山本さんの旦那さんが口を開く。
「隣の駅の近くの公園前にいた」
「え?」
「現場から帰る途中に通ったら、公園の前の花壇に座り込んでたから連れてきた」
それを聞いて、なんですぐ電話しないのよ!と山本さんの奥さんが怒る。
でも、それよりも早く連れて帰ってやりたかった、と旦那さんが言うと、奥さんはそうね、と呟いてあっさりと引き下がった。
山本さん夫妻の会話なんて全く聞こえていない様子で、ママさんが再び娘たちに問いかける。
「そんなに遠くまで行ったの?」
ふたりはこくりと頷いた。
それを見て、みんな驚きを隠せなかった。
まさか四歳の子どもが一駅近く歩くなんて、思ってもみなかったから。
「どうして、行ったの?」
保育園の先生の話では、走って行ってしまったと言っていた。
一体、何があったのか。
どんな理由があったのか。
どんなに考えても、全くわからなかった。
私たちには想像もつかなかった。
教えてくれる?
ママさんが優しく囁いた。
美奈ちゃんと理奈ちゃんは俯いていた顔を合わせ鏡のようにお互いに動かして、顔を見合わせた。
そして、お姉ちゃんの美奈ちゃんが、理奈ちゃんと繋いでいない右手をママさんに差し出した。
「え?」
ママさんが驚いた声をあげた。
後ろで様子を見ていた私たちはよくわからず、何だろうと顔を見合わせる。
ママさんは、そのまま小声でふたりと二言三言会話をすると、何故か私に振り返った。
私は意味がわからず、固まるしかない。
みんなも自然と私に視線を向けるから、突然全員の注目を集めることになった。
え、なに?
どうして私を見るの?
私が混乱していると、ママさんに促されて、美奈ちゃんと理奈ちゃんが車から降りた。
そして私の前まで歩いてくる。
「はい」
唐突に差し出された、小さな右手。
そこに握られていたのは、くたくたに萎れた四つ葉のクローバーだった。
「……え?」
「あのね、」
たどたどしく理奈ちゃんが話し出した。
「まえにみつけたこうえんには、もうなかったの」
「だから、さがしにいったの」
美奈ちゃんが引き継いで、教えてくれた。
「これ、あげる」
「はい」
さらにくいっと差し出される右手の先で、四つ葉のクローバーが揺れた。
「!」
がくっ、と。
私の脚が力を失い、膝をついた。
自然と、視線の高さが同じくらいになる。
「私、に?」
「そうだよ」
「探してくれたの?」
「うん」
ゆっくりと手を伸ばす。
そっと広げて差し出した手のひらに、小さな葉っぱがぽとんと置かれた。
握りしめられて、くにゃっとしたその葉っぱ。
紛れもなく、四枚の葉が付いていた。
私は、それをただただ、見つめることしかできなかった。
おかしいな。
四枚だったはずの葉っぱが、八枚に見える。
さらにぼやけてもっと多くも見える。
自然とわき出る涙が止められなかった。
それは、ぽたぽたと道路に落ちて染みを作っていく。
私のため、だったんだ。
私はふたりに視線を戻した。
涙で歪んでよく見えないけれど。
ちゃんと顔を見て言いたかったから。
「……ありがとう」
嗚咽が漏れそうになるのをこらえながら、なんとか伝える。
「「どういたしまして」」
ふたりが声を揃えて、そう返してくれた。
その声はとても元気そうで、明るくて、笑っているのがわかる。
よく見えないけれど、わかった。
私もつられて、頬が緩んだ。
なんだか、引きつってうまく笑えてない気がするけど。
嬉しかった。
嬉しくて、嬉しくて、自然と笑顔になった。
「うっ、うっ!」
「ふぇっ!」
不意に隣から嗚咽が聞こえて、みんなの視線が移った。
ふたごと私から、知佳さんと真由美ちゃんに。
涙を拭って隣を見ると、ふたりして顔をぐしゃぐしゃにして大泣きしていた。
それこそ、他のみんながドン引く程に。
私も、口が自然と空いてしまう程に。
「わ、笑った……!」
「わ、笑いましたよね!ね!」
「うん、見た、見たよ!」
「よかったー!」
知佳さんと真由美ちゃんは立て続けにそう泣き叫ぶと、タックルかと思うほどの力で私に抱きついてきた。
「ぐふっ」
しゃがんだ私は転びそうになりながらもなんとか踏みとどまる。
思わず変な声が出た。
い、痛い。
めちゃくちゃ、痛い。
でもそれは言葉にならなかった。
道路に座り込んで私のお腹に抱きつく真由美ちゃんと、豊満な胸に私の顔を思いっきり抱き寄せた知佳さんによって、動くことも、声を出すことも全くできなかったから。
おいおい泣いて喜ぶふたりの声だけが、辺りに響き渡っていた。
その内に、どこからともなく笑い声が聞こえてきた。
それは次第に広がっていって、最後にはみんなが笑っているのがわかった。
いつの間にか、知佳さんと真由美ちゃんも笑ってた。
私もいつしか、普通に笑ってた。
消えてしまった私のろうそくに、また小さな火がついた。
一度消えてしまったら、真っ暗で、もう誰にも見つけては貰えないと思っていたけれど。
そんなことはなかった。
なぜなら、みんなのろうそくの灯りが、私の足元まで照らしていたから。
気付いていなかったけれど、みんなが周りから私を照らしてくれていたから。
私は闇にのまれることはなかった。
そしてみんなは、その火を惜しげもなく分けてくれた。
だから私は、またこの胸に火を灯すことができたんだと気がついた。
私は今、その温かさを感じている。
もう寒くない。
もう暗闇じゃない。
みんなの心の灯を、しっかりと受け取った。
私は毎朝の散歩を再開した。
君と何回も行った海へ、また通い始めた。
二月の海は人気が無くて、波の音以外何も聞こえない。
それが、私の心の平穏を保ってくれた。
水平線のように平らに見える私の心。
でも実際は確かに波打っていて、決して落ち着くことはない。
時に静かに、時に激しく荒れ狂うけれど、もう、私が私を見失うことはないと思う。
私の胸の灯が、しっかりと自分の足元を照らしているから。
もう、大丈夫だと思った。
ひとりで来ることに、だいぶ慣れてしまった。
穏やかな海も、荒れた海も、同じ海。
表情は変わるけど、青くて果てしなく広いところは変わらない。
きっと一年前の海も、同じだったんだよね。
でも、君がいるのといないのとでこんなに違って見えるとは、去年の私は思いもしなかった。
私は待ってる。
君を。
ずっと。
今日は、帰ってきてくれる?
明日は?
明後日は?
明々後日は?
いつ帰ってきてくれるのかはわからないけど、でもちゃんと待ってるよ。
約束したここで。
何度季節が巡ったって、何年経ったって、待ってる。
あの奇跡みたいな、君がいた月日を思い出しながら。
君がいた景色は全部覚えてる。
だから寂しくない。
ただ、狭いはずの私の家がちょっと広く感じるだけ。
それだけだから。
……。
嘘。
寂しいよ。
逢いたいよ。
ねぇ、もうすぐ三月だよ。
君と出会った四月が、待ち遠しい。
最低最悪でもいいから、また君に逢いたいな。
記憶の中の君でも、いいから。
BGMはラジオではなく、ジャズピアノに変えた。
君とよく聴いたYUKOのアルバム。
お店のメニューにはコーヒーが増えた。
紅茶でいっぱいのメニューボードに、ただ一つのコーヒーの文字。
最初は違和感があったけど、もう慣れちゃったよ。
だから、いつでも注文していいよ。
インスタントじゃなくて、挽きたてのを入れてあげるから。