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1月 待ち人

 特になんの通知も来ていないスマホの画面を、何度も確認する。

 その度に、スマホに付けた君とお揃いのシーグラスのストラップがゆらゆらと揺れた。


 意味がないのはわかっていたけど、ついつい新しいメッセージが来ていないか見てしまう。

 だって、待ち遠しいから。


 片割れのストラップを持って飛び立った君は、今日の夕方にやっと帰ってくる。


 本当は十日くらいで帰ってくる予定だったけど、打ち合わせが難航して長引いてしまったらしい。

 相手の年末年始の休暇を利用するつもりだったはずが、行ったら肝心の相手がバカンスに出掛けてしまったとかで。

 しかも、バカンス先まで追いかけてようやく話を進めてみると、更にいろいろと問題も出てきて。

 なんとか解決して帰国できるとなったのが、今日だった。


 私はなにそれと思ったけれど、意外にも君は怒っていなくて驚いた。

 海外ではそんなこともよくあるのかもしれない。


 電話で予定が延びると報告する君は、トラブルも楽しんでいるようだった。

 そんな声を聞いていたら、怒る気力も、寂しいと伝える勇気もどこかにいってしまった。


 気長に君の帰りを待ち続けて、もう一月の下旬になる。

 一か月近い出張になるなんて思ってなかったから、今日帰ってくるって聞いて、私は妙なテンションを抑えられなかった。


 幸せなクリスマスを過ごしたあとの、ひとりきりのお正月は思いの外心細かった。

 ソラとテレビを観ながら年越しをしたけど、全然面白くなくて年が明けると早々に寝てしまった。

 年越し蕎麦もお節料理も、ひとりだと作る気にもならなくて、完全に普通の休日を過ごしていた。


 初日の出の眩しさで目を覚ましたときに、さすがにこのままじゃダメだろうと思って、いつものお散歩ではなく海岸通りにある小さな神社に初詣に行ってきた。

 君がくれた指輪をつけて。


 君の仕事がうまくいって、早く帰ってきます様にってお願いしたけど、あんまりご利益はなかったのかもしれない。

 あ、でも仕事は纏まったみたいだから、あったのかな。

 お賽銭に十五円入れたけど、もう少し奮発すれば良かったかなとか、だいぶ後で後悔した。


 そういえば、神社でお隣のご夫婦に会った。


 旦那さんはうちのリフォームを一番助けてくれた、水道工事屋さん。

 ザ・職人さんっていう感じのおじさま。

 そして、寡黙な旦那さんとは正反対の奥さん。


 奥さんは、私に気がつくと笑顔で声をかけてくれた。


「あら、初詣?」

「はい」


 新年の挨拶と、ちょっとした世間話をした。


 奥さんは明るくてお喋りが大好きだから、外で会うといつも気さくに声をかけてくれる。

 その時も、ソラは元気?とか他愛のないお話を楽しんでいたんだけど。


 ふとした拍子に、奥さんにこの指輪を見つかって。

 そこからは、大変。

 興奮した奥さんによる質問攻め。


 私はしどろもどろに答えながら、わき出る脂汗を拭ってた。


「いい加減にしろ。困ってるだろ」


 呆れた旦那さんが止めてくれてやっと解放されたときは、つい脱力してしまった。


 本当にいつも助けてもらってると思う。

 ありがとうございます。


 お正月のお休み明けにお店を開けたら、来るお客さんみんなに、


「結婚するんだって?」


 って言われたっけ。


 さすが、お話好きの奥さん。

 あっという間に知れ渡ってた。


 水仕事の多い仕事だから、普段指輪は二階に置いてある。

 定休日だけつけるのが習慣になった。


 今日はちょうど定休日だったから、左手の薬指にプラチナのそれがある。

 婚約指輪です、っていう感じの派手なものじゃなくて、本当にシンプルなリング。

 小さなダイヤモンドが三つ、ねじれるように並んでついていて、とても気に入っている。


 つい指輪を眺めて、にやにやしたり。

 ついスマホを手に取って、悶々としたり。

 朝から仕入れリストを作っているのに、全然進まなかった。


 書いては間違いに気付いて書き直し、また間違いに気付いて書き直し、また、といった具合。


 君が帰国するまでまだ何時間もあるというのに、落ち着かなかった。


 うーん、と背伸びをして時計に目をやる。


 ……うん。

 リストはかなり適当で中途半端だけど、気分転換しに行こう。


 私はさっと出掛ける準備をすると、ソラに行ってきますと声をかける。

 まもなく開店時間になるスーパーに、買い出しに出掛けた。


 一通り店内を回って必要なものをかごに入れていく。


 お店でよく使う牛乳、レモン、ミント、シナモン。

 お菓子作りによく使う薄力粉、砂糖、卵、バター、生クリーム。

 あと自宅用の食材に、ソラのごはんもね。


 お酒の陳列してある通路を通りすぎようとして、ふと立ち止まった。


 そうだ。

 今夜は君と、乾杯しよう。


 そんなことを思い付いて、後ろめたい訳でもないのにこっそりワインを一本入れた。

 どうやら私は、相当浮かれてるみたいだ。


 恥ずかしいような、くすぐったいような不思議な感覚。

 とても慣れないけれど、でもいいの。

 今日は特別だからね。


 お店のランチなどに使う食材もここで買っているから、あっという間にかごはいっぱい。

 かなりの量になっていた。


 もう少し買っておきたいところだけど、今日はこのくらいにしておくか。

 私は重たくなったかごを持ち直し、レジに向かって歩き出そうとした。


「こんにちは」


 後ろから声をかけられ、振り返る。

 明るい声と同じく明るい表情で立っていたのは、私と同じくらいたくさんの商品を詰め込んだかごを持った真由美ちゃんだった。


 真由美ちゃんもレジに行くところだったそうで、ふたりで同じ列に順番に並ぶ。

 どの列も混んでいるから、話をしながらのんびり待った。


「共通テスト、無事に終わりました」


 そう。

 先週末が共通テストだった真由美ちゃん。


 どうだったのかな、と気になりつつも聞けないでいたら、自分から話してくれた。


 私は心からの労いの気持ちを込めて、


「お疲れ様」


 と返す。


 すると、てっきりいつもの可愛い顔で、ありがとうございますって返って来るかと思ったら。


「私、けっこう自信あるんです」


 と。

 かなり手応えがあったらしく、なんとも頼もしい表情をしていた。


 私はそんな真由美ちゃんに驚きつつも、これまで見てきた彼女とのギャップに思わず笑ってしまう。


「それはよかった」

「はい」


 真由美ちゃんもふふっと笑うから、楽しくなっちゃう。

 重たそうな買い物かごが、小刻みに揺れた。


 私はその商品で埋め尽くされたかごに、何気なく視線を向けた。

 昨日共通テストを終えたばかりで、もうお手伝いにお買い物に来てるのか、と。


 感心する反面、なんだかもやもやむずむずする。


「ねえ、真由美ちゃん」

「はい」


 私は少し考えてから、声をかけた。


「もしよかったら、これからうちで打ち上げしない?」

「え?」

「知佳さんにも声をかけて、また前みたいに。……どうかな?」


 たくさん頑張ったご褒美に。


「ありがとうございます!お邪魔したいです!」


 真由美ちゃんはその提案に本当に嬉しそうな顔をして、大きく頷いてくれた。


 それからすぐにレジの順番がきて、それぞれお会計を済ませてエコバッグに詰めていく。

 荷物をまとめながら、これからの段取りをさっと決めた。


 お互いに荷物を置いて、準備をしてからうちに集まろうということになった。

 スーパーを一緒に出ると、逆方向に帰る真由美ちゃんと手を振りあって別れた。


 私は少しだけ、大荷物の真由美ちゃんを見送ってから歩き出す。


 急遽決まった、打ち上げという名のランチ女子会。

 考えただけで楽しそうで、自然と笑みがこぼれた。


 今日は素敵なことがいっぱいの日だ。


 真由美ちゃんと知佳さんと集まって。

 夜には、やっと君が帰ってくる。

 これから始まる最高の一日にうきうきしながら、私は家路を急いだ。


 帰宅する途中で知佳さんのお店に立ち寄り、声をかけた。


 今日は知佳さんのお店は営業日だし、どうかなと思ったんだけど。

 予想していた通り、知佳さんは二つ返事で参加表明してくれた。


 しかもその場でお店を閉めてしまうと、私の買い物袋を半分持ってくれて、一緒にお店に帰ってきた。

 買ってきたものを片付けて、二階でランチ会の準備をする。

 飲み物といくつかの軽食の準備ができたところで、真由美ちゃんもやって来た。


 小さな部屋は三人集まればいっぱいだけど、その近さがなんか良い。

 距離の近さが心の近さに感じた。


「共通テストお疲れ様!」


 みんな座ったところで、知佳さんがグラスを掲げた。

 二階の冷蔵庫に作り置きしてあったレモンティーが、それぞれのグラスに入っている。


 知佳さんのそれが、零れそうなくらいに揺れた。


「まだ二次試験がありますけどね」


 そう言いながら、真由美ちゃんも自分のグラスを少しだけ傾けて、知佳さんと乾杯した。


「それが終わったら、今度はもっとちゃんとしたお疲れ会するからね」


 そこへ私もグラスを寄せる。

 真由美ちゃんに目を向けたら、目を丸くしていた。


 知佳さんもそれに気づいて、にやりと笑う。


「当然!」


 私と知佳さんの言葉を聞いて、真由美ちゃんの顔が次第に綻んでいく。


「嬉しいです」


 本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて、両手でグラスを握る。

 ぎゅっと指に力が入っているのが見えた。


「私、頑張ります!」


 どうやら、二次試験に向けて更に気合いが入ったみたい。

 共通テストの打ち上げのつもりだったけど、二次試験の激励会にもなったようだ。


「今日は即席のランチ会だけど、楽しんでね」

「はい」

「またいつでもうちで勉強して良いからね」

「ありがとうございます!」


 きっと、今日は定休日だから遠慮するんだろうけど。

 そのぶん楽しんでいってくれたらいいな。

 リフレッシュになったら、いいな。


 この後も、家や図書館で勉強するんだろうしね。

 ほんの一時の息抜きになったらいい。


 さっき用意したベーグルや、シーザーサラダを食べながら他愛もない話をして笑った。

 食事が終われば、知佳さんが持ってきたスナック菓子や、真由美ちゃんが持ってきた苺を摘まみながら。


 どうしてかな。

 ふたりと話していると本当に楽しくて、いつまでも話題がつきないのは。

 興味も、世代も、境遇も全く違うのにこんなに気が合うなんて。


 ふたりは私にとって、もうただのご近所さんや常連さんではない。

 友達と呼べる存在になっていた。


 私がふたりに縁を感じて、しみじみ物思いに耽っていると、知佳さんがあっと声を発した。

 そして、私の指に光る指輪を指して、にやりとした笑みを浮かべる。


「そういえば、彼そろそろ帰ってくるんでしょ?」

「あ、はい」


 なんだか結婚話が広まってから、いろんな人から君についての話題が出てくるようになった。

 今まで全くなかっただけに、彼氏と婚約者ではこうも違うものなのかと驚いた。


 私は慣れないやり取りに、もごもごしながら答える。


 本当に恋バナは向いていない。

 いたたまれない。恥ずかしい。逃げたい。


「実は、今日の夕方に」


 小さな声でそう言うと、


「そうなんですね!」


 真由美ちゃんまでもが、前のめりに相づちを打った。

 その顔には、どこかうっとりとした表情を浮かべている。


「やっと逢えるんですねぇ」

「長かったよね」

「楽しみですね」

「ドキドキだね」


 ふたりに矢継ぎ早に言われて、私はただこくこく頷いた。

 なんか、知佳さんも真由美ちゃんもとっても楽しそう。


 きゃーきゃー言っているふたりを静かに眺めつつ、私は乾いた笑いを溢すしかない。

 楽しんでもらえたなら、なによりです。


「今日会うの?」


 と聞かれたので、


「はい、駅に迎えに行きます」


 と答えたら、


「やだー!お迎え!」


 知佳さんは更にきゃーきゃーと大興奮。

 やだってなんですか、と突っ込みたいのは必死に我慢した。


 駅で盛り上がらないように気を付けて、とか言われたけど。

 全然気を付けて、って顔じゃないんですけど。


 私は少し遠い目をしながら、そんな様子を見てた。


 すると、真由美ちゃんが顎に指を当てて、思い出したように私に言った。


「あれ?でも今日って夕方から雨が降るんじゃ?」

「え?そうなの?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。


 しまった。

 天気のことまで考えてなかった。


 うっかりしてた。


「確かそうだったと」


 真由美ちゃんが記憶を確認して、こくりと頷く。

 どうやら雨の予報が出ていたのは間違いないらしい。


 雨なら、君のぶんの傘を持っていかなくちゃ。


 私はふたりに断って、テレビをつけた。

 今ならたぶんお昼のワイドショーがやっているから、その内天気予報も見られるはずだ。


 リモコンを操作して番組を切り替えた。


「あれ?」

「え?」

「なに?」


 テレビ画面に写し出されたのは、見ようと思っていた番組ではなかった。

 そこに映っていたのは、あまり見かけることのない特別報道番組。


 画面の左側と下側に広いテロップが入っていて、右上の三分の二くらいのスペースでキャスターが原稿を読み上げていた。


 どくん。

 と、心臓が跳ね上がった。


 テレビ画面には、忙しなく原稿を繰り返し読み続けるアナウンサーの、緊迫した表情が映っている。


 報じられてるのは、飛行機事故の速報だった。


 "機体トラブルを告げる交信を最後に、太平洋沖で消息を絶ちました"


 ずん。と。


 "日本人の搭乗者がいるのか、現在確認中です"


 身体が急に石にでもなってしまったかのように重くなって、固まった。


 "新しい情報です。消息をたったのは……"


 いやだ、聞きたくない。

 怖い。


 そうは思っていても、関係なく無慈悲な宣告は続く。


 "……発羽田着AL705便です"


 手に持っていたグラスが落ちて、レモンティーが零れる。

 でも、落ちたグラスを拾い上げることも、そこへ視線を向けることもできなかった。

 降りかかった服やラグに茶色い染みが広がっていく。


 知佳さんと真由美ちゃんもそんなことには構わずに、静かにテレビから私に視線を向けた。

 もしかしたら、グラスを落としたことすらまだ気づいていないのかもしれない。


 不安そうな二人の視線が、私に突き刺さる。

 そのまま私は、飛行機の便名を見つめる。


 その離発着地。

 その時間。


「まさか、ね」


 便名まで覚えていない。

 でも、嫌な気分が払拭できない。


 事故の起きた時間、場所、離発着地が、ひたすら私の不安を駆り立てる。


 大丈夫。大丈夫。大丈夫。


 毎日何本もの飛行機が飛んでいるルートだから。

 きっと、これじゃない。


 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。


 "ここで、搭乗者の名前がわかりました"


 唐突に、搭乗者の名前がテレビ画面にびっしりと表示された。

 みんな片仮名で表記されている。

 見慣れないその画面表示に、一瞬日本語であることを認識できなかった。


 一人一人、アナウンサーがその名前を読み上げていく。

 私はそれを聴かずに、画面上の名前の羅列に目を通していく。


 そこに、見つけてしまった。


 決して見たくなかった名前。


 たくさんのカタカナに紛れて、とても読み取りにくいはずなのに。

 まるで別の色で書かれているかのように、一瞬で見つけてしまった。


 今日、やっと帰ってくると思ってた。


 もうすぐ、逢えると思ってた。


 今夜は、ずっと傍にいられると、思ってた。






 君の名前。


 その瞬間、私は、意識を手放した。











 頭が、痛い。




 目が回る。




 気持ちが悪い。




 押し寄せる不快感に、嫌でも意識が持ち上げられていく。






 起きたくない、起きてはいけないと警鐘を鳴らす頭とは裏腹に、私は無意識に目を開けた。


 ゆっくりと瞬きを繰り返せば、ぼやけていた天井がしっかりと見えた。

 見慣れた自分の部屋の、白い勾配天井。


 身体中がだるい。

 なんだか、ひどい病気にでもかかってしまったかのように、しんどかった。


 のそり、となんとか起き上がった。

 どうやら自分のベッドで寝ていたみたい。


 ぼんやりと、室内に目を向けてみる。

 部屋の奥に見える窓の外は、薄暗かった。


 微かに雨音が聞こえる。


 テレビの前に知佳さんがいた。

 その隣には、真由美ちゃんではなくカズさんがいる。


 ふたりとも食い入るようにテレビを見ていて、私が目を覚ましたことにも気がついていなかった。


 ああ。

 現実だったんだ。


 私は夢でなかったことに深く落胆した。

 それと同時に、なぜか冷静に事実を受け止めた。


 君の乗った飛行機は、帰ってこなかった。

 それだけを理解した。


 ゆっくりとベッドから降りると、知佳さんがそれに気づいて駆け寄ってきてくれた。

 カズさんはなにも言わずに、一階へ降りていった。


「大丈夫?」

「はい」


 その一言で、心配でたまらないという知佳さんの思いが伝わってきた。

 私は小さく頷いて、大丈夫ですと応える。


 どうしてか、知佳さんの方が大丈夫ではなさそうに見えた。


「ごめんね、勝手にカズに来て貰っちゃって」

「いえ」

「真由美ちゃんが呼んできてくれて、ベッドに運んでもらったの」

「そうだったんですね」


 ショックなことが起こって気を失うなんて、ドラマや物語の中だけの話かと思ってた。


 自分がそうなってしまったなんて、いまだに信じられないけど。

 あの瞬間味わったのは、かつて経験したことのないくらい大きな衝撃だったのは間違いない。


 君の名前を見つけてしまった、あの……


「お手数かけて、すみません」


 私は知佳さんに頭を下げた。

 後で、カズさんにも謝らなくちゃ。


「そんなの」


 知佳さんの震える声を受けて、顔をあげた。


「気にしないでよ」


 その目には涙が溢れそうな程溜まってた。

 このままでは、知佳さんが泣いてしまう。


 私は話題を変えた。


「真由美ちゃんは?」

「ん。帰したよ」


 ぐっと涙をこらえて、知佳さんが答えた。


 お昼にはいたのに、今は姿のない真由美ちゃん。

 カズさんを呼んできてくれたって言ってたけど。


「自分も付き添うって言ってたんだけど、真由美ちゃんも大事な時だし……」

「はい、よかったです」


 よかった。

 二次試験まであと二週間もないのに、大切な時間を奪ってしまわなくて。


 真由美ちゃんはカズさんを呼びに行って、そのまま帰ったらしい。

 勉強、集中してできると良いんだけど。

 申し訳ないな。


「真由美ちゃんは、大丈夫よ」

「……そうですね」

「うん」


 私の心配を汲み取った知佳さんが、断言する。


 うん。

 そうかもしれない。


 真由美ちゃんは、大丈夫。


「失礼するよ」


 階段の下から声が聞こえて、足音が次第に近づいてきた。

 私が視線を向けて声の主を待っていると、いつもと違って白衣を着た畠さんがすっと現れた。


「畠さん?」

「倒れたんだって?ちょっと診察するよ」


 大丈夫です、と答えるよりも早く、あれよあれよと診察が始まってしまった。


 ライトの光を目で追ったり、身体の中の音を聴いたり、手際よく進んでいく。

 私は言われるままされるがままに、素直に従った。


「うん。特に問題ないね」


 診察を終えて、畠さんが微笑みかけてくれた。

 さっきまで真剣な面持ちだっただけに、とても安心する。


「わざわざ来ていただいて、ありがとうございました」

「いいんだよ」


 畠さんは、無理はしないこと、しっかり休むこと、と念を押して病院へ帰っていった。

 まだ、診療時間のはずなのに。

 往診に来てもらって本当に申し訳なかった。


 しかも、またお支払をしていない。

 今度こそは、後日必ず支払いに行こうと決めた。


 畠さんの行ってしまった階段をしばらく見つめてから、私は視線を知佳さんに移した。


「知佳さんも」

「え?」


 お店、お昼に閉めちゃったままだよね。

 お昼だけのつもりが完全にお休みさせてしまった。


「もうひとりで大丈夫ですよ」

「でも、」


 知佳さんがどうしようかと迷っているのがわかった。


 とっても、とっても心配してるって顔。

 放っておけないとは思いつつ、ひとりになりたいのかも、ときっと考えてるんだろうな。

 本当に、なんて優しい人なんだろう。


 でも、これ以上付き合わせるわけにはいかない。

 甘えていられない。


「畠さんのお墨付きもありますし」


 ね、とだめ押しした。


 すると、


「……そう?」


 納得していないような顔ではあるものの、知佳さんはこくりと頷いた。

 そして、とてもゆっくりと帰り支度を整えた。


「……じゃあ、私も帰るね?」

「はい」

「でも、何かあったら絶対呼んで」

「はい」

「絶対ね」

「はい」


 知佳さんは、何度も何度も自分を呼んでと念を押してから、階段を降りていった。


 あ。そうだ、傘。

 知佳さん、来るときに傘を持ってなかった。


 ドアの閉まる音とベルの音が、もう外に出てしまったことを教えてくれた。


 私は慌てて出窓に駆け寄る。

 窓から呼び止めて、傘を渡そうと思った。


 でも、窓に手を掛けたところで、やめた。

 傘をさしたカズさんが、そっと知佳さんの上に傘を傾けるのが見えた。


 どうやらさっき降りて行ってから、知佳さんを外で待っていたみたい。

 もしかしたら、そこで電話をして畠さんを呼んでくれたのかもしれないと、ぼんやりと思った。


 カズさんは俯く知佳さんの背中にそっと手を当てると、優しく促して、ふたりで知佳さんのお店の方へ歩いていった。


 しん、と静かになった部屋に、テレビの音だけがよく聞こえる。


 きっと私に気遣って、すごく小さな音量にしてくれていた、その音。

 それが、煩いくらいに耳に入ってきた。


 私は誘惑に逆らえず、怖いと感じながらもテレビに視線を向けた。


 君の安否はまだわからない。

 でも、周辺を捜索した船が、飛行機の一部を見つけたと報じられていた。


 墜落したことは、間違いないらしい。


 そっか。

 知佳さんたちは、このニュースをじっと見ていたんだ。


 だから、あんなに辛そうだったんだ。

 そっか。


 そっか。




「みゃあ」


 はっ、と我に返った。


 金縛りから解かれたように、身体が楽になる。

 無意識に服の裾を握りしめていた指は、力を入れすぎていたようで白くなっていた。


 私は目を閉じて、長く息を吐く。

 意識していないと、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。


 そして、少しだけ落ち着くと、ようやく唯一の家族へ視線を向けた。


「ソラ」


 いつもは私にはあまり干渉せず、気ままに過ごしているソラが、どういう訳か足にすり寄ってきた。

 レモンティーの染みの付いた服に、耳の裏を何度も擦り付ける。


「ソラ」

「にゃあ」


 わかってるの?


 私はソラを抱き上げると、深く抱き締める。


 食欲も、お風呂にはいる気力もない。

 着替えすら、できそうもない。


 私はソラを抱いたまま、再びベッドに横になった。


 そして、浅く、苦しい眠りに付いた。




 朝日が昇る気配で目を覚ました。


 ゆっくり身体を起こすと、足元でソラが丸まって眠っていた。


 一晩中、傍にいてくれたんだね。

 私はソラの眠りを妨げないように、そっとベッドを抜け出た。


 まずテレビをつける。

 新しい情報を確認せずにはいられなかった。


 ただただ棒立ちで、その画面を見つめる。


 君を乗せた飛行機は、ここから何千キロも離れた太平洋上空で消息を絶ち、やはりそのまま海に墜落したらしい。

 そこは、海流が激しく複雑に入り乱れるエリアで、天候も不安定らしく、捜索は困難を極めていた。


 そんな中、部分的な飛行機の破片や、乗客の荷物が、周囲数百キロの範囲で発見された。

 そして、犠牲者も。


 犠牲者は、そんなに多く見つかっていない。

 でも、生存者はひとりも見つからなかった。


 発見され身元のわかった人の名前が時おり報じられたけれど、その中に君の名前はない。

 私はそれだけを支えに、体を動かし始めた。


 お店、開けなくちゃ。


 まずシャワーを浴びて、それからマグカップにホットココアを作った。

 やっぱりなにか食べる気にはなれなくて、それだけ一杯飲んだ。


 朝からシャワーを浴びたせいで、あまり時間がない。

 そもそも外にでかける気力もないから、お散歩にはいかなかった。


 いつも通り、一階に降りて掃除を始める。

 店内が綺麗になってメニューの準備も終わったところで、ちょうど開店時間になった。


 私のお店は、今日も時間ぴったりに開店する。

 最初のお客さんは、開店と同時に来てくれた。


 控えめなベルの音で来店に気がついたけど、あまりに意外な人で驚いた。


「いらっしゃいませ」


 私が驚きを見せないように声をかけると、普段とは別人かと思うほど静かに店内に入る。


「お好きなお席へどうぞ」


 こくりと頷いて返事を返してくれると、一番ドアに近いカウンター席に腰掛けた。


「メニューをどうぞ」


 カウンターテーブルに置いてあるメニューを、厨房から手を伸ばして一度取り、改めて手渡す。

 静かに受けとると、その人はオリジナルアレンジのハーブティーを注文した。

 レモングラスとミントがベースのすっきりしたお茶だ。


 私がお茶の準備を進めている間も、その人は特に何も言わずに自分の手元を見つめていた。

 店内に、ラジオの音と食器のあたる音、お湯の沸く音がよく響く。


 そして、私がお茶と今日のお菓子のドライフルーツのパウンドケーキを静かに置くと、ようやく口を開いた。


「……大丈夫?」


 やはり俯きがちではあったけれど瞳をこちらに向けて、その人、お隣の奥さんが呟いた。


 どうやら、君のことはこの辺りの人に知れ渡っているみたい。

 私は漠然とそう確信して、納得した。


 お隣の奥さん、山本さんのらしくない態度の理由に。


「大丈夫ですよ」


 私がそう返すと山本さんは、そう、とそれだけ言ってお茶に口をつけた。


 実は、山本さんがお客さんとして来てくれたのは初めてだった。

 山本さんは、旦那さんとふたりだけで自営業の水道工事店をしている。

 いつもとても忙しそうで、うちが夜閉店しても、まだお隣の事務所の電気が点いていることもよくあった。


 お裾分けや差し入れで来てくれることは、ちょくちょくあったけど、こんな時間にゆっくりお茶を飲んでいる姿なんて、見れると思わなかった。


 このタイミング、そしてこの様子。

 きっと、気にして来てくれたんだろうな。

 婚約者の存在が広まった矢先の、これだから。


 慣れなくて戸惑ったけど、別に怒っていないし責める気もない。

 でもこうなった手前、はしゃいでしまったことを後悔しているだろうことは、すぐに想像できた。


 大丈夫とは返したものの、山本さんはそうは受け取ってないのは明らかだ。

 さて、どうしたものか。


「……おいしい」


 私が悶々と悩んでいると、山本さんが飲みかけのハーブティーを凝視したまま呟いた。


「ありがとうございます」


 お茶を誉められることは、私の最上の喜び。

 私は深々と頭を下げて、その言葉を受け取った。


 こんな時でも、素直に嬉しいんだ。

 私はその事実に少しだけ驚きつつ、顔をあげた。


 そして、目の前の様子にさらに驚いた。

 山本さんの両目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。


 それはぼろぼろと止まることなく、どんどん溢れてくる。


「……ごめんなさい」


 突然の涙に慌てる私に、山本さんが謝った。


「こんなことになるなんて、思ってなくて」


 両手で顔を被い、声を震わせる。


「……ごめんなさい」

「いえっ、あの、」


 私はどうしたらいいのか、なんと応えたら正解なのか、わからなかった。


「あの、」


 どうしよう。

 どうしたらいい?


「あの、」


 声だけでなく肩まで震わせて泣く姿に、私まで苦しくなる。

 なんて返すのが正解なのか、必死に考えた。


「あの、泣かないでください」


 私はなんとか言葉を繋いだ。

 思考が追い付かないまま、口を動かす。


「山本さんのせいじゃ、ないじゃないですか」

「でも、」

「誰のせいでもないんです」


 良い言葉が思い付かなくてもどかしい。

 それでも、なんとかしてその涙を止めたかった。


 その為なら。

 本当はこんな言い方、したくないけど。


「運が、……悪かったんです」


 私はそう言った。


 山本さんは、その言葉に衝撃を受けた様子で目を見開いた。

 そして、


「慣れてますから」


 両親も、おばあちゃんも、もう会えない。

 そして君で、三回目。


 だから。

 初めてじゃないから、大丈夫。


 そう伝えた。


「そんなの、慣れないで……」


 山本さんはそう言うと、本当に悲しそうな顔をした。


 たぶん、私の言葉は正解じゃない。

 でも今の私には、こんなことしか言えなかった。


「山本さんは、何にも悪くないです」


 歪む顔から、止めどなく涙が溢れ続ける。

 その口から、ぽつりと一言こぼれた。


「……ありがとう」


 それからはお互いに口を開くこともなく、ただラジオから流れる優しい音楽に耳を寄せた。


 少しでも、自分を責める気持ちが薄まれば良い。

 だって誰のせいでもないのは、本当のことだから。


 山本さんの表情が、少しだけ和らいだように見えた。

 もしかしたら気のせいかもしれないけど。


 ハーブティーをゆっくり味わいながら、時おり鼻を啜る気配を感じる。

 私は涙が止まったことに、とりあえず安堵した。


 その反面、自分で発した言葉に、思いの外ショックを受けていた。


 君がいないのに冷静な自分がいて。

 あまつさえ、慣れてるだなんて。


 そんな訳、あるわけない。


 なのに、どうして私は嘆き、取り乱していないんだろう。

 人を慰められるんだろう。


 あんなことが、言えてしまうんだろう。


 普通に、お店を営業できているんだろう。


 足元からぞぞぞっと嫌なものが這い上がってくるような。

 自分で放った言葉が、まるで毒のように私を侵していくような。

 気持ちの悪さが、いつまでもあった。


 自分で自分に呪いをかけてしまったような、そんな気がした。


 落ち着いた山本さんが帰ると、入れ替わりに真由美ちゃんがやってきた。

 私は切り替えて迎え入れた。


 私が昨日のことを謝ると、真由美ちゃんは首をぶんぶんと振る。

 そして、にっこりと笑った。


 あえていつも通りに接してくれる優しさが、愛しい。


「二次試験まで、またよろしくお願いします」


 いつも通り、場所お借りしてもいいですか?って言うと思っていた。

 でも今回はきっぱりと、ここで勉強させてもらいますと言う真由美ちゃん。

 しかも、二次試験まで。


 これは、ずっと傍にいてくれるつもりなんだな、とわかった。

 私は、もちろんいいよと返して、いつもの席に案内した。


 それからも、ご近所さんや常連さんが入れ替わり立ち替わり来てくれた。


 知佳さんや、カズさん、畠さんはもちろん。

 洋食屋さんのゆりさんは、よかったら食べてねと言ってお弁当を届けてくれた。


 正直お腹はあんまりすかなかったけど、色々なものを少しずつ詰めてくれていたから、何回かに分けて食べることができた。


 夕方になると、家具屋さんの双子がやってきた。

 それぞれオレンジとピンクのヘアゴムでツインテールに結っている髪が可愛らしい。


 ふたりは、保育園で見つけたという四つ葉のクローバーをくれた。


「あのね、きょうこうえんにいってね、みつけたの!」

「いいことがあるんだって!」

「せんせいがいってたの!」


 私は、こんな小さな子達にまで心配をかけてしまっているみたい。


 ありがたいな、と思う反面、申し訳ない気持ちで一杯になった。


「どうもありがとう」


 受けとるときに、ふたりの頭をそっと撫でたら、嬉しそうに笑った。

 そしてどういたしまして、と声を揃えて返してくれると、手を繋いできゃっきゃと笑いながら家具屋さんへ帰っていった。


 今日のお店は、私以外のひとたちのおかげでとてもぎやかだった。

 なんだかそれが、私の家なのにまるで他人の家のように感じた。


 この感じには、覚えがある。


 あれは、おばあちゃんを亡くしたとき。

 私が中学一年生の時だった。


 それまで暮らしていたおばあちゃんの家を出て、母の妹である叔母さんのところに住まわせてもらうことになった。


 叔母さんの家族は、旦那さんと叔母さんと当事小学二年生の男の子の三人。

 そこに私が加わった。


 叔父さんはよく勉強を見てくれたし、叔母さんは毎日学校へ持っていくお弁当を作ったくれた。

 従兄弟も一緒にゲームをしたりしてよく遊んだし、みんなとても良くしてくれた。


 自分の家だと思ってね。

 遠慮しなくて良いんだよ。

 いつもそう言ってくれていた。


 明るくて、温かくて、優しくて。

 理想の家族そのもの。

 私もそこに、分け隔てなく入れて貰っていた。


 でも、ふとした瞬間に、無性に寂しくなることがあった。


 暖かいお家、美味しいご飯、笑い声。

 その中にいるはずなのに、どうしてか自分だけがそこにいない。

 そんな感じ。


 まるで、美術館で幸せな絵を眺めている時のような、あの感じ。

 目の前にあるのに、一歩ひいた場所から眺めている。

 その世界に入り込むことができない。

 手で触れても、温もりすら感じないような。


 今も、そんな風に感じていた。


 ひとり暮ししていた時も、ここに越してきてからも、こんなことはなかったのに。

 どうして今、そう感じるのだろう。


 あんなに大好きだった家にいるのが、辛い。


 君がいないだけで、まるで世界が巻き戻ってしまったかのようだった。






 帰ってくるって信じてた。


 私は何度、大切な人を失うのだろう。

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