11月 仲直り
君と逢えないまま、もうすぐ2ヶ月。
私はスマホを2階に置きっぱなしにして、お店に立っていた。
だって、変化のない待ち受け画面を見るのが辛かったから。
近くにあると、ついつい覗き見てはため息が出てしまうから。
私は私の心を守るために、お店の事だけを考えられるようにそうしていた。
スマホが視界にないだけで、だいぶ違う。
これは正解だったなと、ひとり、自画自賛した。
それでも、お客さんがきれてひとりになったり、ラジオからYUKOの曲が流れたりすると、嫌でも君を思い出して落ち込んだ。
今もランチのお客さんが一段落して、ひとりで洗いものをしてるから、頭の中は君だらけ。
お客さんに来てほしいって、お店を構えてからいつも思ってたけど、最近はそれまでの比じゃないくらいに願ってた。
カラン、とベルの音ともにドアが開いて、願い事が叶った。
「いらっしゃいませ」
得意の営業スマイルでお迎えしたら、そのお客さんも笑顔で挨拶してくれた。
「こんちには」
私の営業スマイルとは違う、穏やかで優しいいつもの笑顔。
常連客の畠さんだった。
「アールグレイを」
「かしこまりました」
ゆっくりと窓側の席に腰かけるのを見守りつつ、畠さんお気に入りのお茶を静かに準備する。
ケトルに浄水を入れて火にかけた。
お湯が沸くまでの間にカップやポットを用意して、今日のお菓子のスイートポテトを盛り付ける。
お湯が沸くより早くに準備が終わると、いつものように畠さんが声をかけてくれた。
「だいぶ空気が冷たくなってきたね」
「そうですね」
「もう秋も終わりだ」
「あっという間に冬が来ますね」
窓から見える銀杏並木はすっかり色付いて、時折はらはらと鮮やかな葉を落とす。
朝のお散歩もしっかり上着を着こんで続けてたけど、日に日に歩く時間が短くなっていた。
おかしいな。
君に逢えない日々はとても永く感じるのに、季節の移り変わりはこんなに早く感じるなんて。
君と夏を過ごした思い出はたくさんあるのに、秋を過ごした思い出はあんまりない。
しかも、思い出すのはそのわずかな記憶の中でも悪い記憶ばかり。
それがとても寂しくて、お客さんの前だというのにぼんやりしていた。
不意に、ケトルが吹き零れて、びくっと肩が跳ねた。
溢れたお湯がじゅっと音をたてて蒸発する。
もともと静かな店内だから、とても大きな音に感じた。
私は突然現実に引き戻されて、軽いパニックに陥った。
慌ててケトルの持ち手に手を伸ばす。
火を止めるのも、ミトンをはめるのも忘れて。
必要以上に加熱された持ち手に、手が触れた。
「あっつ……!」
ガシャーンと音を立てて、ケトルが熱湯を撒き散らしながら床に落ちた。
「大丈夫かい!?」
「……っ」
畠さんが急いで席を立って駆けつけてきてくれるのが、立ち上る湯気の向こうにちらっと見えた。
大丈夫、とはとても応えられなかった。
熱湯を浴びた左手が、熱いというより、痛い。
激痛に涙が浮かんだ。
「すぐに冷やして」
畠さんは即座にキッチンに入り私の左腕を掴むと、熱湯を被った手のひらに勢いよく水道水を掛けた。
心臓がどくどくと脈打って気持ち悪い。
無意識に荒くなった自分の呼吸音が、耳にうるさかった。
「このまま動かさないように」
「は、い」
冷たい流水をしばらくあてると、痛みが少しだけましになってきた気がする。
ようやくまともに息ができるようになってきた。
それを見計らってか、畠さんはそっと腕を離した。
「保冷剤はある?」
「あ、はい、そこの冷凍庫に」
「あけるよ?」
私が頷くと、畠さんは手際よくと保冷剤に布巾を巻いた。
そして水を止め、私の左手にそっと当てる。
「病院に行くよ」
「え?でも、だい、」
「ダメだよ。行くよ」
私の大丈夫の言葉は、有無を言わさず飲み込まれた。
いつもの穏やかな雰囲気を微塵も感じさせずに、畠さんはきっぱりと言い切ると、窓際の座席に置いたままの上着と小さな鞄を脇に抱えた。
私も、最低限の戸締りだけをして、そのままお店を出た。
「こっちだ」
「はい」
迷うことなく歩き始める畠さんに、無言でついていく。
私の歩くに速度に合わせつつ、目的の場所に向かって最短距離で向かっているのがわかった。
少しだけ痛みが和らいだ私は、酷い自己嫌悪と罪悪感に苛まれる。
でも自業自得だし、言い訳なんてしても意味がないこともよく分かってるから、ひたすら無言でついていった。
お店の裏手にある公園を通り抜けて、細い脇道へ入る。
しばらく行くと、うちの前の通りより少し広い通りに出た。
その通りを左に曲がったところで、畠さんは立ち止まると鞄から鍵を取り出した。
脇道と通りの角にあったのは、白い木の外壁とうちと同じ尖った切妻屋根の、素敵な建物。
その入口には畠内科医院と書かれた看板が掲げてあった。
近所にこんな病院があったんだ。
引っ越してきてもう結構経つのに、知らなかった。
しかも、畠さんの病院だなんて。
今までかなり散歩とかはしたけど、細い横道とかまでは入ってなかったから、気がつかなかった。
「さぁどうぞ」
門扉を開けて振り返った畠さんは、いつもの穏やかな笑顔だった。
私は内心ほっとして、促されるまま敷地に入る。
休診の札の掛った病院のドアは素通りし、畠さんは建物の横側に付いたドアに鍵を差し込んで開けると、中に入るようにとまた私を促した。
どうやら自宅用の玄関らしい。
「僕の家、兼病院だよ」
玄関で靴を脱ぎ、用意されたスリッパを履く。
「さあ、ここから病院に入れるからおいで。すぐ手当てするからね」
畠さんが医師だったことに驚く間もなく、あれよあれよと診察室に連れていかれて椅子に座れば、手際よく処置がされていく。
私は呆然と、処置室で包帯を巻かれる自分の手を見つめていた。
畠さん、お医者さんだったんだ。
すごい。びっくり。
普段のおっとりした人の良いおじいちゃんの表情からは、想像もつかなかった。
「これで大丈夫」
「どうもありがとうございました」
私は可能な限り頭を深く下げた。
本当に、どれだけ感謝してもしきれないくらいだから。
畠さんが、たまたまお店に来てくれていたときでよかった。
私ひとりの時だったら、きっと呆然としていた。
応急処置も満足にせず、病院にも行かなかったと思う。
心からの感謝の気持ちを込めて、頭を下げた。
そんな私に、
「しばらく水仕事は控えてね」
「え?」
容赦の無い、無慈悲なる一言が降りかかる。
え?
今、何て言われた?
「水仕事は、控えてね」
「……は、い」
繰り返される、医師の指示。
従わない訳には……いかないよね。
水に触れずにお店を営業するなんてできる筈がない。
私は左手を見つめたまま、唇を噛んだ。
なんたる失態。
火を扱っているときにぼんやりするなんて、一番やってはいけないことなのに。
自分に幻滅した。
さっきも自己嫌悪に陥っていたけど、それよりも深い絶望と後悔が私を襲う。
私、今きっとこの世の終わりみたいな顔してるんだろうな。
ガクッと肩が落ちた。
それを見かねてか、
「……左手だけね」
やけどをした左手をさして、困った様に笑う畠さん。
「え?」
「お店、休めないもんね」
「……はい」
「片手で大変だと思うけど、絶対に左手は使わないようにね」
忘れずに念を押してから、畠さんは薬と替えの包帯をくれた。
私にとってお店を休むということが、どんなに辛いことなのか。
ちゃんとわかってるよ、って顔。
畠さんて、すごい。
内科の看板が出てたけど、心まで治療して貰った気分だった。
帰り際にお金を払おうとしたら、頑なに受け取って貰えなくて焦った。
お医者さんに治療して貰ったら、治療費を支払うのは当たり前なのに。
「僕もお茶が飲めないと困るからね」
「でも、」
「それに、今僕は休憩中なんだよ」
だからいらないよ、だって。
もしかしたら、自宅の玄関から出入りしたのも、敢えてそうしてくれたのかもしれないと思った。
休憩中のひとときを台無しにした挙げ句に、働かせておいて、それなのにそんな風に言える畠さんは、心底素敵なひとだ。
でも、そっか、だからいつも休診時間の昼下がりに来てくれるんだ。
私は今度来てくれたときのために、最高の一杯を用意しようと心に誓って、再度頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
畠さんの心づかいが嬉しくて、涙が出そう。
私は、今度美味しいお茶をごちそうしますと言って、病院を後にした。
お店に戻ったら、まずは床を片づけないと。
片手だと時間が掛かるかもしれないけど、仕方ない。
畠さんは片付けを少し手伝おうかと言ったくれたけど、それは丁重にお断りした。
これ以上の迷惑はもうかけたくなかったし、もうすぐ午後の診察も始まるだろうから。
お気持ちだけありがたく受け取って、私はとぼとぼとお店に向かって歩き出した。
お店が見える道まで戻ると、ドアの前に人影があるのに気づいた。
見知ったそのシルエットは、私に気が付くとこちらに向かって歩いてくる。
私もお店に向って歩いていたから、必然的に倍の速さで距離が詰まった。
「どこ行ってた?店、電気付いてんのに閉まってるし」
「うん。……ちょっと」
久しぶりの君との会話なのに、うまく続けることができなかった。
だって、何となく言いづらい。
自分のドジなんて。
怒られるかな。
笑われるかな。
それとも、幻滅する?
でも隠したって、左手には大げさなくらいの包帯が巻かれているし、薬と包帯の入った袋も右手に提げている。
「ケガ、したのか?」
うは。
一瞬でばれた。
「……うん」
意を決して頷いた。
きっと私の耳がソラみたいな形だったら、しゅんと垂れたに違いない。
ああ情けない、と思った時。
「大丈夫か?」
突然がしっと肩を掴まれて驚いた。
「え、うん。大丈夫」
「本当に?」
「うん。今病院行ってきたから」
「そっか」
そっと肩から手を離すと、私に手を差し出した。
「鍵」
「え?あ、はい」
言われるまま鍵を渡すと、君は先にお店に向かい入って行った。
心配を掛けてしまったみたい。
不謹慎かもしれないけど、真っ先に心配してくれたのが嬉しかった。
私も後を追って中に入ると、すでにキッチンの中で、落ちたケトルを拾い上げている姿を見つけた。
「ごめん、ケトルひっくり返しちゃって」
「やけど?」
「そう」
「ひどい?」
「そうでもないよ。しばらく左手だけ使えないけど」
「そっか」
かちゃん、とコンロの上にケトルを置いて、君はキッチンペーパーで濡れた床を拭きだした。
「あ!私やるから!」
「いいよ、座ってな」
「でも、」
「いいから」
ここで微笑むのはずるいと思う。
「……ありがとう」
私は潔く引き下がって、片づけを任せた。
久しぶりに見た、君の笑顔。
初めて見た、心配そうな顔。
不覚にも泣きそうだった。
逢いたかった。
お店が元通りに綺麗になって、君と二人、カウンター席に腰を下ろした。
「うちの会社さ、親父が社長なんだ」
「そうなんだ」
話し出した君に、何でもないことのように返事を返す。
なんとなく、そうした方がいいような気がした。
「そ。んで、ちょっとぶつかっちゃってさ」
「そっか」
「うん」
長い指を組んでカウンターに置いた自分の手を見つめて、君が伝えようとしてくれている。
「春くらいからそれが特に悪化し始めて」
「うん」
「元々ワンマンで有名だったし、わかってたつもりだったんだけど」
「うん」
「そんなとき、この店見つけて。八つ当たりから、嫌がらせみたいにメニューにないコーヒー注文したりして」
そうだったんだ。
リフォームしたのが気に食わなかったとか言ってたけど、本当はそういう理由もあったんだ。
なんだか腑に落ちた。
「そのあと暫くは落ち着いてたんだ。この店と、お前のおかげで。親父がなんか言っても、なんとかうまくやった」
微かに微笑んで私に視線を合わせた君に、私も微笑み返す。
しかしそれは、すぐに反らされた。
「でも、〝ガキが生意気言うな〟って」
「え?」
「言われてさ」
らしくない途切れ途切れの言葉。
それって、もしかして。
「すげぇ大事な仕事が入って忙しい時だったし」
うん、知ってる。
凄いはりきってたもんね。
「どうしても自分の力で成功させたかった」
連絡できなくてごめんって、誤られたこともあったっけ。
「でも親父が手を出してきて。頭ではわかってたんだ。会社にとっても大きな仕事だから、社長が出てくるのも当たり前の話だって」
君は少しうつ向いて、組んでいた指を額にコツンと押し当てた。
「でも、俺は素直に受け入れたり、引き下がれなくて」
それも知ってる。
融通効かないし、頑固なところがあるのは知ってる。
それに、信念っていうか、プライド持ってやってたよね。
「そんな時、お前にまでガキって言われて」
やっぱりそうだ。
あの時の話をしてるって、分かった。
「また八つ当たりしたんだ」
オムライスの時。
私が、気付いてあげられなかった時。
「そのあとも忙しさと止まんない苛立ちで、連絡できなかった。たぶん、声を聞いたら、また傷つけそうで……」
それで素っ気なかったの?
「ごめん」
君は誤った。
ちゃんと私に向き合って、しっかり視線を合わせて。
凄くシンプルなその言葉が、私の心にすっと染み込んでいく。
「……ううん、き」
私は気にしないで、って言ったつもりだった。
でも、声にならなかった。
「……ごめん。泣くな」
涙が言葉を飲み込んでいく。
何にも言えなくて、ただ頷いた。
でも涙は止まらない。
悲しくもないのに、止まらなかった。
ふわり、と抱きしめる腕。
久しぶりの君の匂いには、どうしてかな。
微かにたばこのにおいが混じってた。
「仲っ、直り」
「うん」
したいよ。
仲直り。
この日、私たちのわだかまりが、やっと消えた。
「仕事は大丈夫なの?」
少し落ち着いてから、聞いてみた。
「うん。もうあらかた纏まった」
「そうなんだ」
よかった。
それで会いに来てくれたんだね。
「……結局、親父の力借りることになったけど」
「うん」
「今思うと、確かに俺ひとりじゃ駄目だったろうな」
「そんなことないよ」
仕事のことはよくわからない。
でも気付いたらそう言ってた。
「サンキュ」
嬉しそうに笑うから、私まで嬉しくなった。
あ、そういえば。
「たばこ吸う?」
私はカウンターの端に置いていた灰皿を差し出した。
夏に向日葵を飾っていたやつ。
もしも私のために我慢してるんだったら、そんな遠慮はもうして欲しくなかったから。
私がこの家を大好きだから、臭いや脂がついたりするのを気にして我慢してるのかなって思った。
でも、そんな私の予想に反して
「え?」
珍しく、少し慌てる君。
「吸ってもいいよ」
「……いや、いい」
「なんで?」
「別にたばこが好きな訳でもないし」
「でも吸ってるよね?」
意味がわからなくて、混乱した。
一度だけだけど吸ってるのを見たことあるし、さっき抱きしめてくれたときにも匂いがしたから、てっきりそうだと思ってたんだけど。
「……」
「……」
あ、やばい。
また余計なこと言ったかも。
せっかく仲直りしたところなのに、私ってなんて馬鹿なんだろう。
自分が嫌になった。
「ごめん、なんでもな、」
「おまじないみたいなもん」
慌てて何もなかったことにしようとしていた私の言葉にかぶせて、君が応えた。
「え?」
「落ち着くんだ」
落ち着く?
「落ち着きたいときに、吸うだけ」
「そう、なんだ」
私にはよくわからないけど。
「うん。だから、ここでは必要ない」
そう言って君は何も言わなくなった。
そしてふっと顔をそらす。
って、え。
まさか、照れてるの?
なんて可愛い奴なんだ、君は。
思わず抱きしめたくなって、君に近づいた。
すると、
「にゃあ」
ソラが間に割り込んできて、君に甘えた声を出した。
そしてぴょんと膝に跳び乗る。
ソラは普段、二階から自ら下りてくることはない。
二階が気に入っているからなのか、一階の人の出入りの多さが嫌なのか分からないけど、一階は飲食店だからそれにはかなり助かってた。
だけど、今日はどうしたの。
自分で階段を降りてきたところを初めて見たよ。
本当にびっくり。
「ソラ、久しぶり」
君の声のトーンが上がったことに、耳聡く気づいた。
ソラの熱烈歓迎ぶりに嬉しそうな君。
ちょっとちょっと。
待って。
待って。
お願いソラ、邪魔しないでよ。
そうは思っても、君の方もすかさずソラを抱き上げた。
そして、あろうことかキスをした。
私より先に。
私は呆然と、久しぶりの再開に熱を上げるふたり(一人と一匹)を前に、ただただ佇んでいることしかできなかった。
飼い猫に恋人を取られて、嫉妬する飼い主。
なんて納得できない仲直りなんだろう。