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昔いじめた子に会った

作者: 竜門いと

人をいじめる人に捧ぐ

 私は、昔から無駄や非効率というものに対して、どうにも耐えがたい嫌悪感を抱いていた。その一環として、クラスメイトの景子をいじめたことがある。

 景子は何かにつけて、ペースが亀のように遅い児童だった。折り紙を折っていても、何を思いついたのか、ふと手を止めると、ぼんやりと手元を眺めだす。そうして十分も十五分も延々と手元を眺め続けているので、それをじれったく思った誰かが声をかけると、やっと慌てて作業を再開する。抜けている、と思われた。私は、昼休みに踊り場の窓からぼんやりと校庭を眺める景子の後ろ姿を見かけることが多かった。


 小学五年生ともなれば、各人の価値観、ひいては将来の人生における快苦の分かれ目が徐々に定まり始めるものである。大勢の人間にとって、景子はもれなく不快の仲間入りを果たした。誰からだったかは定かではないが、クラスの誰かが、国語の時間に彼女の後頭部めがけてプリントを丸めたものを投げた。彼女の頭で弾んだ紙玉は床を転がって、二つ後ろの席にいた私のつま先で止まった。紙玉が景子の後頭部に命中しても、彼女はまるで石像のように動かず、しばらくの間、何の反応も示さなかった。やがて自分が紙玉を当てられたことに気付いたのか、景子は遅れてこちらに視線を投げた。が、視線を上下させたあと、興味を失ったのか再び教科書の世界に戻っていった。この一瞬の遅れが可笑しかったのか、教室の誰かが再び紙玉を投げ、また別の誰かが消しゴムを投げた。私は後ろから飛んでくる紙玉や消しゴムを感じながら、あるいは、それらが景子の後頭部に当たり、一瞬ふわりと浮く彼女の髪を眺めながら、クラスの中で奇妙な一体感が生まれていくのを意識した。


 その日、クラスメイトたちと下校しているときに、私はなんとなく景子のことを話題にした。友人たちがその名前を口にするとき、その語調には決まって彼女を嘲笑するような含みがあるのがわかった。彼らの話の中には、「馬鹿女」「間抜け」といった語彙が必ず出てきた。彼女を形容するのに最もふさわしい言葉がそれなのだと、誰もが考えているようだった。

「あいつ臭いし、汚い」と友人の一人がそう言った。

「わかる。マジで無理」と友人の一人が呼応した。

 私はそうとは思ったことがない。グループ活動の中で何度か景子と同じ班になったことがあったが、体臭など気になったためしはない。しかしそう反論するのは憚られた。暑い夏の日だったから、汗が咽喉から胸に滑り込んでくる。私はそれを拭うふりをして、結局何も言わなかった。


 翌日も同じ調子だった。授業中、教師が黒板の方を向いたタイミングで、私の頭上を紙玉が通り越していった。翌々日も同じだった。いや、私の目には同じように見えていた。状況は極めてゆっくりと、しかし極めて確実に悪化していたのだった。景子の筆箱が消えたり、景子の机にわざと足をぶつけていったりと、クラスメイトはほとんど天命であるかのように景子をいびった。友人たちが恍惚とその行為に及ぶ姿を見ているときだけ、私は彼らが別人になったように感じられた。


 ある日の、二時限目の理科が終わった休み時間だった。私が友人と喋りながら廊下を歩いていると、友人はすれ違いざまに景子の足を引っ掛けた。景子は野球選手がするように、両手から派手に身を転ばせた。手に持っていた教科書や筆記用具類は、カーリングのようにリノリウムの床を滑った。友人が彼女を介抱するわけはないと、私にはわかっていた。だが手を差し伸べることもできず、私は肩越しに彼女を眺めた。友人は彼女を一瞥し、ニヤリと笑みを浮かべたのも束の間、何事もなかったように話題を戻した。私も、今見たものを忽然忘れたふりをした。目まぐるしい人々の往来の中、彼女を助けようとした者は誰一人としていなかった。廊下を曲がるとき、私は友人の顔越しにもう一度彼女の方を見た。彼女はすでに文房具類を拾い上げ、虚しい背中を向けながら、やはりのろのろとした足取りで歩いていた。


 その日の昼休み、私は踊り場の窓から校庭の様子を眺める景子の背中を偶然見つけた。午前中のことも相まって、実は景子は泣いているのではないかと思った。不安と、ほんのちょっとの残酷な期待が入り混じった感情を抱きながら、私は通り過ぎざまに、横顔をチラリと流し見た。思わずギョッとしたのは、景子が微笑を浮かべていたからだった。昼下がりの光に縁取られた横顔は、刹那的で大人びて見えた。冷たい階段の踊り場で、そこだけが何か生命的な暖かみを持っていた。

 私は一度彼女を通り過ぎて、階段を降りようとした。だが一段降りたところで足は進むことを否定し、もう一度彼女の方を向いた。逆光になった彼女の背中が、普段にも増して華奢に見えた。と同時に、グラグラの乳歯を思いっきり捻り抜きたいようなもどかしさが腹の底から湧き上がってくるのを意識した。

 私は一度辺りを見回して、声をかけようとしたが、なんと呼んでいいかわからない。その頃は、どういうわけか女子を下の名前で呼ぶことが恥ずかしくなり、異性の呼び方がわからなくなっていた時期だった。

「おい」

 仕方なくそんなふうに声をかける。

 彼女は窓の縁に手を置いたまま、不気味なほどゆっくり振り向いた。

「なあに?」

「き、きみ──おまえさ、なんでやり返さないわけ?」

 突拍子もない質問に驚いたのは私自身だった。唾を飲みこむ。常に眠たげな彼女の目にドキリとして、尻に力を込めた。

「やり返すって、なあに?」

 私の気詰まりを溶かすように、彼女は小首を傾げた。

「筆箱隠されたり、机、蹴られたりしてるじゃん」

「でも、それは、わざとじゃないかも、しれないでしょ?」

「は?」

 欲しいドレスがあるショーウィンドウを眺める幼い子どものように、彼女は窓の外を振り返った。

「みんな、遊びたいだけ」

 馬鹿なのだ、と私は思った。この子はすごく馬鹿なのだ、と。私自身、この会話のテンポやきまりの悪さに段々と苛つき始めた。この会話の終着点はすでに自分が決めていた。言わなくてもいいことは言えるのに、言いたいことが言えないのはどうしてだろう──

「じゃあ、今からドッヂボールしにいこうよ。俺と」

 意外なほど、その言葉はすんなりと出てきた。

 彼女は眠そうな目に少しだけ熱をこめて、「ほんと?」と訊き返した。

 私は少しだけ顎を引いた。


 校庭でクラスメイトたちがドッヂボールしているところに彼女を連れていくと、露骨に顔をしかめられた。鈍感な景子にも嫌悪感が伝わるように、しっかりと計算された顔だった。

「おい、なんだよそれ」

 坊主頭の友人が、景子を顎でしゃくった。

「先生がみんなで遊んでこいって。だから」

 私は嘘をついた。

 坊主頭は口の中で担任教師のことを何か呟いて、舌打ちした。そして持っていた黄色いボールを二回バウンドさせたかと思うと、

「あっそ。じゃお前こっちチーム、景子はあっちな」

 と急に態度を切り替えた。それから、その友人が景子に何か耳打ちしているのを見て、私は嫌な予感がした。

 予感は、的中した。ドッヂボールが始まると、彼女は恰好の的になった。思い切り肩にボールを当てられた彼女だったが、ルールを知らないのか、外野に行こうとしなかった。

 私がそれを指摘しようとしたのを、坊主頭は手で制した。

「いいんだよ、嘘のルール伝えといた」

 ニヤリ、と黄ばんだ歯を見せる。私は、自分の足場がこんにゃくになった気がした。これから彼らのすることに大体見当がついたからだ。予想した通り、周囲の連中は彼女の顔をめがけてボールを投げ出した。景子は狼に弄ばれる兎さながら、おろおろと動いて身をかがめたり、掌で顔を覆ったりすることしかできなかった。

 私は、脳みそが宙ぶらりんになった心地でその光景を眺めていた。風邪を引いた日に見ていた歴史ドキュメンタリー番組が脳裏を去来した。たしか、欧米の肌が白い民衆が、一人の黒人男性に石を投げるモノクロの映像だった。「悪意? ──いいえ、世間です」というナレーションを、私は綺麗に記憶している。

 どうして今そんなことを思い出すのか? ──彼女の背中に当たり高く弾んだボールは、ちょうど太陽と重なって、私は眩しさに目を細めた。と思うと、ボールは次の瞬間自身の手元にあった。

「顔いけ、顔」

 友人の言葉などとうに聞こえていなかった。しかし、熟れすぎて食べられないトマトを踏み潰すような、残酷な気持ちが私のみぞおちにあった。指先に変な力が入っていたのだろう。たしかに胸の辺りを狙ったはずのボールは、下から上る軌道を描き、景子の手の隙間をすり抜け、顔面に直撃した。

 しなやかなゴムの音がして、ボールが地面に落ちるのと、彼女が顔を両手で押さえて崩れるのはほとんど同時だった。

 彼女の指の隙間から、一筋の血がこぼれた。それを見ると、考えるより先に景子のもとに駆け寄っていた。

 児童たちの声で賑やかなグラウンドに、かすかに人の泣く気配が聞こえだした。彼女の顔の真下に、血痕とは別のにじみがあるのが見出された。

 私は片膝をついて、彼女の震える肩にしばらく無言の視線を注いでいた。血液とすすり泣きが周囲の憐憫を誘ったのかわからない。ドッヂボールの参加者たちは次々と、興が冷めたように校舎に戻っていった。

「ごめん」

 私の咽喉はかすかに震えていた。このときすでに周囲には誰もいなかったが、それでも周りを憚るように顔を寄せて、「ごめんって。えっと、ほんとに、やりすぎたよ」と言い続けた。言い続けるうちに、私の中でも段々と自分の行為の浅はかさがあらわになり、さすがに厭になった。彼女と心穏やかに話す未来が、指の間からするすると逃げていった気がした。

 すると突然彼女は顔を上げた。ケチャップで汚れたような唇はわなわなと震え、彼女の垂れがちで末広な二重瞼の瞳には怒りも悲しみもなく、ただ私に対する嫌悪が宿っていた。日頃魯鈍で薄ぼんやりとしている彼女からは信じられない目つきだった。

「なんで……なんで……」

 なんと言っているか判然もしないうちに彼女は立ち上がり、校舎の方へすたすたと歩いていってしまった。


 以降、私は二度と景子と話さなかった。


 翌日から景子はいつもの、薄ぼんやりとした景子だった。相変わらず何を考えているのか、授業中も休み時間も、彼女の意識は宙を歩いていた。教室の窓の外では、中庭に植えられた木で蝉が一匹鳴き出した。一匹、また一匹と続き、重い蝉時雨になってのしかかった。夏休みが近づくに連れて、クラスメイトの彼女を試す静かな暴力は以前よりも下火になっていった。それでも、景子が踊り場から校庭を眺める後ろ姿を見ることはなかった。

 冬になると、景子は何か急用を思い出したように、淡々と転校していった。私たちは小雨のような拍手を送りながら、別段どうでもよさそうに彼女を送り出した。その日、その年初めての雪が降った。学校を出ると、鈍重な雰囲気を纏った空が視界を圧迫した。体育館の壁際に伸びる植え込みに咲いたパンジーの花が、消えかけている炎に見えた。

 転校の理由が語られなかったものだから、彼女の転校の真相はさまざまな憶測を呼んだ。彼女をいびっていたクラスメイトたちは、一層この憶測を荒立てた。中には彼女の母親が駆け落ちしたのだと茶化す者もいた。そして二週間もすると、彼らは皆、景子のことを忘れてしまった。


 小学校を卒業し、私は学年で唯一、県下で一等の進学校に入った。この頃から近所の親たちの会話の中で、たびたび私が話題にのぼるようになった。どうやって勉強しているのか、うちの子と何が違うのか──近頃の親はそういうことが気になるらしく、寄ると触ると、酒の席であればなおさら私のことを口にした、らしい。

 当の私は、受験期の一年間をどう過ごしていたかについて、まるで印象深いものを持っていない。ただ、景子が転校した矢先から、友人たちとの会話がひどく胡乱に感じ始めたことは鮮明だった。私には何か強烈な熱意があるわけでもなかった。休み時間、紙飛行機を投げ合う同級生たちのかたわらで、文庫本や参考書の中に身を投じている方が楽だったのにすぎなかった。


 日常からの脱却を試みた私にとって、中学という非日常もまた、数日もすれば日常だった。進学校の中でも勉強は図抜けてできる方ではないが、点数は悪いわけでもない。授業は全然つまらないわけでもないが、面白いわけでもない。授業終わりは部活に所属しない友人たちとコンビニ前での買い食いを挟みつつ帰路についた。歩道橋から見えるコンクリートのビル群が時間とともに暮れ方の色に変わっていくのを眺めながら、私は時折、何かはわからないが、何かを壊したいような、不思議な衝動を胸の中に沈澱させていった。

 生ぬるく、あくびをかみ殺す毎日の中、私はたまたま小学校の同窓たちとファミレスに行くことになった。ファミレスでところかまわず下品な言葉を口にする同窓たちが、私の目にはとても卑しく映った。その分自身が進学した道にいるクラスメイトたちの上品さや教養深さを、一層誇らしく感じた。名前すら忘れてしまった坊主頭が不快な音を立ててスープを飲み下す姿を見て、どうして今までこれが教室の風景に溶け込むことができていたのだろうと不思議に思うくらいだった。


 持ち前の地頭や要領の良さは、たとえ周囲の雰囲気に左右されることがあっても、大きく揺らぐことはない。私は、中学に進学する際、この事実を身をもって体験した。もっとも、周囲の雰囲気と志向が一致すれば、目標に一層近づくのは自明の理である。私の学校では、高校受験が迫ると、教員一同が総力を挙げて受験対策に取り組んだ。その手厚い後押しのおかげで、またも一等の進学校に合格するのはまったく容易なことだった。


 部活動必須のその高校で、私は美術部に入った。体を動かすことが好きではないことが選択理由だった。が、私にとって絵を描くという行為は、やってみれば存外面白かった。いや、足りなかったパズルのピースがテレビ台の裏から見つかったように、ピタリとハマった。私も、まさか自分が芸術という正体不明のものに惹かれるとは思ってもみなかったことだった。

 窓の外が真っ黒な美術室で、筆がキャンバスの上を走る音が雨垂れのように響いていた。私はいつまでも絵を描くことができた。絵を描いているときだけ、静かな興奮と落ち着きのさざ波が胸の中で保たれた。教室の消灯見回りに来た先生に声をかけられるまで、私は片時も筆を離すことがなかった。

 油まみれの手を洗いながら顔を上げると、窓から見える朧月が綺麗だった。何にも打ち込んだことがない、退屈な自分の人生を照らす月があるのと同じように、そこにかかる暗雲よろしく、私に心配事が全くないわけではなかった。


 いつしか、私の成績は最下位になっていた。私の成績を案じた担任は、職員室に私を呼びつけて、指先で机をトントンと叩いた。

「おまえ、何がしたいんだ、将来。ん?」

 担任は西郷隆盛のような風貌だった。威圧感のある目力に私は萎縮し、座っているパイプ椅子はコウモリのようにキイキイ鳴いた。

「わ、わかりません」

「夢はないんか」

「な無いです」

 担任は舌打ちすると、私の成績表を取り出した。そして私の成績を見ながら、いくつか短い言葉を囁いた。よく聞き取れなかったが、そこには私の成績を心から馬鹿にするような抑揚があった。

「もっと考えろ。なんのためにこの学校に入ったんだ。勉強するためだろ、違うか?」

 私は頭を垂れたままで、耳が熱くなった。職員室での教師たちの話し声や、コピー機が紙を刷る音が、いやに明瞭に聞こえてきた。私はますますうなだれて、ほとんど座っていることに耐えかねた。

担任がため息をついて、立ち上がる気配がした。そして、残酷な言葉を投下した。

「くだらん絵なんか描いとるからだ」

 私は顔を上げた。が、その頃もう担任はコピー機の前で作業をしていた。


 放課後、私は美術室にも寄らず、家の布団にくるまって泣いていた。体温を持った水でシーツは濡れ、噛み跡ができていた。

 泣き止んでからしばらくして、私はゆっくりと上体を起こした。頭の中には、一つの奸計がみなぎっていた。部屋は妖気に満ち満ちている。私は台所の包丁を手に取ると、家を出た。

 外の空は、グラデーション気味に金色から紫色へと趣を変えていた。まだ担任は学校にいるだろう。私は大股で歩き出した。私の目には、公園も、路地裏も、商店街も、全てがゴッホの絵画のように歪んで見えた。上着に忍ばせた包丁の柄の質感だけが現実味を帯びている。

 刺せ、刺せ、刺せ──こめかみは殺意を焚き付けるように脈打っていた。このとき私はどうかしていた。それは今に始まった殺意というよりも、これまでの破壊衝動をためていたコップが割れた反動だった。


 不意に、誰かが私の名前を呼んだ。


 歩道橋の上だった。聞き覚えのある声に振り向いて、私はかすかに目を丸くした。そこには景子が立っていたのだ。

 奇妙な光景だった。ゴッホの絵画の中にモナ・リザがいるように、彼女だけが風景から切り抜かれて立っていた。信じがたかった。

「ほら、私。川井景子。小学校同じの」

 炭色のスカートと柿色のリボンが特徴的な、ここらでは見覚えのない制服だった。数年来の眠たげな瞼に、全体的に色素の薄いショートヘアは、いくらか大人びた印象を与えた。私が知っている景子の顔立ちと上手く重ならなかった。

「やっぱり、そうだ。見たことある人だって、思ったんだ」

 彼女は私に接近した。景子の頭は、ちょうど私の胸のあたりにある。彼女は私の顔を覗き込むと、洗練された眉を八の字に曲げた。

「何してるの? 顔、変だよ」

「……あぁ、散歩」

 私は柿色のリボンに目を落とした。自分でもどんな顔をしていたのか定かではないのだから、ましてやこのあとに、自分が何を言ったのかなどはっきりと覚えていない。

 ただ彼女は「私も、駅まで」と言ったあと、まるで私がついて来るのが当然のように、のろのろとした歩幅で前を歩き出した。


 私は彼女と並んで歩いた。溶けかけの飴玉のような夕日がビルの奥に潜み、辺りは暖かい藍色に包まれていた。鼻筋がつるりと光る暮れの中、彼女はやはり魯鈍な口調で、このようなことを語った。

「私ね、今日、高校サボって、ここに来たんだ」

 ──そうなんだ。

「びっくりしたぁ。何にも、変わってないんだね、この街」

 ──そうだね。

 景子は、決して幸福とは言えなかっただろう小学生時代の思い出を、じれったくなる速度で話した。私は上着の下の包丁を捻り潰しそうなくらいの力で握りながら、なんでもないように相槌を返していた。

 駅前の交差点で信号待ちをしているとき、景子は震える息を吐き出した。何かを言い出せないでいるような、緊張感のある吐息だった。消防車がサイレンを鳴らしながら通り過ぎていく。彼女の横顔は、赤色灯に赤く染まり明滅した。

「私ね」

 それはひょっとすると聞き逃してしまうような、か細い声だった。

「ずっと言わなくちゃいけないことが、あったんだ」

 信号が青に変わった。

「もう覚えていないかもしれないけど。あのとき、ドッヂボール誘ってくれて、ありがとう。じゃあね」

 彼女は左手を振りながら歩き出した。往来の中、私は歩くことも、手を振り返すことも忘れて、電池が切れたように立っていた。行き来する人々の体で途切れ途切れに見える景子は、もうこちらを見てはいなかった。

 それでもしばらく、私は呆然と立っていた。


 私は意識を切らしたまま、駅前を離れ、公園の前を通り、河川敷の土手に座るという奇妙な芸当をやってみせた。やっと意識が追いついたときには、目の前に黒インクの川が流れていて、川面には月を映した光の網が揺れていた。


 復讐されたのだ、と思った。

 ──そうだ、それで良い。

 彼女の復讐は成功したのだ。


 河川敷に吹いた夜風が、私の額を掻き上げて行った。猫じゃらしがたなびいて、ふわりともとの姿勢に戻った。秋の風で、本格的な冬はまだ先だというのに、頬がこんなにも冷たく感じられるのは、さっきまで泣いていたからだろう。

 包丁を取り出すと、刃先は冷たく反射した。振りかぶって、それを思い切り投げる。せせらぎの中に、大きな物が沈んで、泡が割れる音がした。

 ずっと強く握りしめていたものだから、右の掌は鬱血しているような感覚があり、じんじんと痙攣した。私は右手を押さえながら、明日も学校に行こう、と思った。

 読んでくださり、ありがとうございます。

 小説は最近書き始めました。応援よろしくお願いします!

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